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「日本人の忘れもの」@ 中西 進 ウェッジ文庫
株式会社 ウェッジ
2009年2月23日 第三刷発行
はじめに
いま私たちは二十一世紀を迎えた。大きな歴史の節目である。
その節目に立って、新しい世紀をどう築いていったらよいのだろう。とうぜんそれは、過去を反省することから、見えてくるにちがいない。
二十世紀が作り上げた快適な生活は、すばらしい。掃除も洗濯も機械がやってくれるようになり、あっという間にヨーロッパまで飛んでいける。医療も発達し生活環境もととのえられて、人間は八十歳をこえて生きられるようになった。
しかし、私たちは、今まであまりにも物質的なものばかりを重視してきた。それにつれて、欠点も目立ってきた。病院の医療ミスがあちこちで起こっている。
これも必要な注意を十分しないことが原因である。人間の命を守るためには、よほど心を使わなければならないのに、ついぞんざいに患者を扱ったからだ。
また、少年犯罪がつぎつぎと発生して、毎日の新聞をにぎわしている。その動機は何か。「人間を壊したかったからだ」という記事を見て、私はほんとうにびっくりした。
だいたい物は壊すが、人間を壊すなどという日本語はない。人間とモノとの区別もつかない者に、どうして人間の尊さがわかるだろう。少年は適切な教育がほどこされない前に年ばかりとり、もう子どもともいえない年まで、幼稚なままでいる。
その上に、人間無用のロボット社会にいれば、動いているものは、もう人間だかロボットだか、区別がつかない。
彼のせりふは「人間というロボットを壊したかったからだ」という、痛烈な皮肉かもしれない。
さてそうなると、人間を尊重する心豊かな社会をこそ、私たちはこれから作っていかなければならない、ということになるだろう。
ところが、じつは二十世紀以前は、人間はけして心を忘れてはいなかった。二十世紀の輝かしい科学文明の発達が、心をついつい見失わせてしまったのである。
とくに日本では、欧米にくらべると、より多く心の豊かさを保ってきた。いや、そのために、日本は文明が遅れていると悪口をいわれてきた。いまだにトイレは水洗でない地域が日本にはある。水道の蛇口からお揚が出ない家もある。
こうした生活の不便さ、不衛生さは早急に改善される必要があるが、一方で、なお持ちつづけてきた心の豊かさは、今後どんどん世界に持ち出していこうではないか。
二十一世紀は心の時代だと考えることは、二十一世紀こそ、世界中に日本をどんどん知ってもらう時代だと考えることになる。
もちろん、日本人自身ですらうろ覚えになっているもの、最近はほとんど忘れてしまっているものも多い。
そこで二十一世紀を迎えて私たちが心がけるべきことを、ここでもういっぺん、おたがいに確認しておきたい。日本人の忘れもの
第1章 心
まける 相手に生かされる道をさぐる
日本の悪口を言うのがインテリの証?
今まで日本はおかしかった。とにかく日本の悪口を言っていればインテリなのである。反対に日本に味方するとすぐ国粋主義者のレッテルをはられ、極端になると特別な組織の人間にさえみなされてしまった。
だから私など、むかしから日本の良さや美しさをはやし立ててきた人間は、ダサい頑固者扱いだったにちがいない。
ところが近ごろ、風向きがすこし変わってきた。日本はそんなに悪い国じゃない。日本の良さを見直そうという声が聞こえはじめた。
ただ、それじゃどんなところがいいのかというと、まだまだ名案が登場しない。
なにしろ何かをもちだしても、現代人にとってはあいまいなことばかり言うことになる。やっぱりいまの世の中には合わないよ、という声も聞こえてきそうである。
しかし、何といわれようと、もう一度日本の良さを思い出して、元気を取り戻したい。
そこでまず人間とのつき合い方を考えてみよう。
人間同士のつき合いのなかで、最もシビアなのは金銭関係だろう。貸し借りの関係、ものの売買、そんななかにさまざまな悲喜劇が起こり、哀切な人間模様もできる。江戸時代、十七世紀大坂の作家・井原西鶴は、そんな商人のようすを生き生きと描いてみせた。
ところで商人はいまでも「まけときます」という。ディスカウントしますという意味だ。ところが「まける」というのは、勝ち負けの「まける」と同じ意味だから、彼は「あなたとの勝負にまけておきます」というわけだ。
このせりふを、日本語をよく知らない外国人が聞いたら、どう思うだろう。値引きのことを敗北というのは、ピンとくるだろうか。
英語で敗けるといえば「lost」(ロスト)とか「defeat」(デイフイート)とかいうことになろうが、さてロストが同時に値引きするという意味をもっているか。そうではないだろう。
それどころか勝つためには攻めて攻めて、ついに勝利を手中にするまで戦うのがヨーロッパふうな近代人の割り切り方だ。いささかも引いてはいけない。
もちろん欧米人にだって駆け引きはある。しかし、もうけを目的とする勝負に「負けておきます」という理屈はどうも異質である。
敗ける伝統をもつ日本人は、近代ヨーロッパふうに頑張って外国人相手の取引をしてみても、ついつい及び腰になって徹底攻撃ができないから、ほんとうに敗けてしまう。お人好しの日本人と陰口をたたかれて、じだんだを踏んでくやしがることになる。
日本人だって取引に勝ちたいのである。しかし敗ける。
いったい、これはなぜだ。間尺に合っているのか。
まけるが勝ち
ここでちょっとむずかしいことをいうが、柳の枝がしなったり、運動選手の体がしなやかだったりする。この「しなう」という日本語の「しな」は死ぬときの「しぬ」と仲間である。つまり折り曲げられるといっぺん折れそうになりながら、ぴんと元へ戻る、あの「しなう」運動は、死ぬことによって弾力をたくわえながら、
いっそう強く生きることなのである。
「しなう」という日本語は「しのぶ」という日本語とも仲間だ。「堪えしのぶ」というと、じっと我慢することになる。我慢などまっ平というのが現代人だろうが、辛棒映画の主人公・おしんではないが、むかしは美徳だった。そこで大竹しのぶさんなどと人名にも登場する。世の中、悪徳を人名にすることはないのだから。
どうして堪えしのぶことが美徳なのか。「しなう」ことがいっぺん死ぬことで弾力をたくわえ、いっそう力が強くなったように、堪えしのぶことで力は内部に凝縮する。たくわえられたエネルギーは、ついに大きなカとなって爆発するだろう。
力をたくわえるといえば、その最たる日本の象徴はお能である。お能は見ていても、よくわからない退屈な仕ぐさが延々とつづくから、眠っている人も多い。それこそ外国人にわかりにくいのは、あの動作がきわめて日本的だからだ。
何しろお能は徹底的に動作を省略する。抑える。手を目の前にもっていけばそれで泣いたことになる。舞台をひとまわりすれば京都と東京の間を歩いたことになるのだから、七〇〇系の新幹線だって顔まけである。
いったい、なぜあれほど動作を節約するのか。いや、ケチをしているわけではない。すべてを抑えおさえて振る舞うから、カが役者の体の内へ内へと入り込む。名人を見ていると、体全体が力のかたまりになっている。
お能の美しさは、この抑制にある。私はその美学に、よくうっとりする。
動作を抑制してカをたくわえるお能。それはしなやかに死んでは弾みをつける運動選手の体、堪えしのぶことで大きなカをたくわえる生き方と、すべて考え方が一致している。それがじつは、勝つためにいったん敗けるということらしい。その勝負には敗けても、大きな勝負には勝つ。その手段が「まけときます」というせりふになるのである。
ところがいまや日本人も、小学生のころから「敗けるな」と教育されている。国語の時間はディベート(討論)の練習をさせられる。「思ったことははっきり言いなさい!」と叱られる。
一方で思い出してみると、反対のことわざはいっぱいある。
「口はわざわいの門」「言わぬが花」「以心伝心」「物言えぼくちびる寒し秋の風」。
こうしたことわざのなかで教育されてきた日本人の美質は、それこそ力の蓄積にあったのに、いまはもう表現しないのは悪徳で、自己抑制など不健康きわまりない。
一時「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルが流行した。ウケた理由はノスタルジーにあったとしか考えられない。
たしかにそうだ。考えてみるといい。何でもかんでもしゃべりたいことをしゃべり、したいことをする。どこに人格の美しさがあるか。
いやいや、人格なんて持ち出さなくてもいい。一〇〇パーセントしゃべったあとで反撃されたら、もう力のたくわえはないのだから、こなごなにうち砕かれてしまう。しなやかにはね返すべきカの貯金はないから敗退するしかない。
取引の勝負だって、力のかぎりをつくしてもうけることはできる。しかし一時の勝負には勝ったにしても、すぐ次に対応できるカがないから、次はもろくも大敗してしまう。
それよりいったん敗けておいて力をたくわえ、大勝負に勝つことをもくろむ方がよい。敗けるが勝ちとは、よくいったものだ。
敗けるが勝ちといえば、私は兎と亀の話を思い出す。二つを競走させると、必ず兎が勝つ。そう決まっている。ところがすべてを終えてみたら、亀が勝っているではないか。局地戦(Battle)の勝利は戦争(War)の勝利と一致しない。
もっともこの寓話はイソップという古代ギリシャ人のつくったものだから、日本ふうな知恵だとはいえない。むかしは地球上、西も東もかしこかったのである。
ところが近ごろはこの寓話を「油断大敵」の教訓にとる。それこそ頑張り精神での解釈である。イソップがいいたかったのは「敗けることを気にしないで、自然に生きていきなさい。そうすると結果は必ず勝つのです」ということだった。
この教訓を、さいきんの日本人は忘れている。日本亀は欧米兎のすばしこさに目がくらんで、跳べもしないのに、跳ぼうとしている。
日本亀よ、ゆっくり歩きなさい。
生かされて生きる
ところでこの日本亀は「柔らか構造」の人種である。だから徹底的に自己主張したり、押しつけがましいことをするのが苦手で、国際社会でも適当に妥協してしまい、いつも損をする。
とくに外交を見ているとそれが目につくから、日本人はやきもきしながらニュースを見ていて、いつもため息をつく。お金をばらまいてはニコニコと独りよがりに満足している外相。不況にあえいでいながら高い税金をとられ「おいおい、それみんな税金じゃないか」と怒っている国民。
たしかに食うか食われるかの歴史を生きてきた諸外国に、君子国の外相はほんろうされているのだが、さてそれは日本本来の「柔らか構造」の姿ではない。
日本人が古くから培ってきた人間関係のあり方は、相手に生かされる道をさぐることだった。さっき私は適当に妥協するといったが、正しくは状況を判断して自己主張を切りかえるということだ。そのタイミングは、流れをうまくつかみ相手の勢いをかりる点にある。
それでは、どのようにタイミングをつかむのか。どうもこの自己変身を、日本人は理づめで考えないらしい。きわめて感覚的で、こまかい計算を意識しない。むしろそこがコツなのである。
一昔まえ、ドリス・デイが歌った「ケ・セラ・セラ」という歌がはやった。「なるようになる。先のことなどわからない」という歌詞は軽快なフットワークの人生で、いとも楽しいが、さて「なるようになる」は日本ふうには別のニュアンスがある。
「なる」というのは、自然にそうなるだけではなく、もっと濃密で必然的な実りも意味する。だから「なるようになる」といえば、まことに正しい実りに向かう、事のなりゆきを示す。
このなりゆきに身をまかせることが、本来の日本人の生き方だった。
昨今ではコンピュータがみごとなまでに事態を分析してくれる。だから「なりゆき」も数字で予想されるし、いつ、どのように身をまかせるかも、きちんと指示をあたえてくれるだろう。
もちろんコンピュータを参考にするのはよい。しかし人間の感覚をバカにしてはいけない。
話はとぶようだが、介護者が老人を毎日毎日やさしく撫でていると、具体的に肉体が回復するという話を聞いたことがある。別に口をきく訓練をしたとか、痴ほうを治す薬をあたえたとかいうのではないのに、撫でるだけでこうした効果があった。
これを医学的に説明することも可能だろう。撫でることには物理的効果があるとか、介護者の心が具体的に伝わるとかと。しかし理屈をこえた皮膚感覚、人間的対応がいかに大切かも思い知るべきだろう。
人間が人間関係のなかで生かされて生きることは、きわめて感覚的で無意識な態度のようでありながら、じつは適切な判断をしているのだと思う。
そのことは仏教でいう「他力」を思い浮かべればわかりやすい。
他力とはそもそも阿弥陀さまにお願いして頂戴したカだった。それがやがて「他人本願」といってやたらな他人だのみをすることになったから誤解されるが、本来にもどると他人を阿弥陀さまのように尊敬し、信頼し、自分の努力をつくしたうえで、さて他人さまの力をたよるのだから、「生かされて生きる」というばあいも、同じように、人間関係に自分の力をつくさなければならない。
そのうえで、関係の自然な流れのなかに生きていくことができるのである。
最初から何もしないで、なげやりに生きていては、他人から生かされはしない。
本当の「なるようになる」生き方は、他人に人間としての信頼を寄せたうえで、柔らか頭で生きていくことである。
現代人はもっと大きな人間信頼のうえで生きる方がよい。悪人すら巻き込んでしまうような人間信頼の覚悟のうえで。じつは柔らか構造というのも、自分への信頼がなければ生まれてこないのだから。
自分を信頼していれば、こまかな勝負にこだわらなくなる。自信をもって生かされて生きればよいのである。p-20
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