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普天間住民は浦島太郎―「敵」は国内にあり(普天間通信2010年7月3日)
カテゴリー: 未分類 普天間基地
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みなさん
平山基生・普天間からです
普天間住民は浦島太郎―「敵」は国内にあり
6月17日に沖縄県議会代表が米軍司令官に会いに行ったとき、彼は、「沖縄県民が(基地に)近づいてくる」と言ったことが報道されました。戦時中に日本軍が急きょ建設を始めた嘉手納や、読谷と違って、普天間飛行場は、もともと、住民の集落があった場所に、沖縄戦のあと米軍が住民を収容所に囲い込んで、無人にしていた場所に、米軍が勝手に飛行場を建設したのです。
住民はまさに浦島太郎で、竜宮城ならぬ収容所から「帰ってみれば、こわ如何に、住んでた村は跡もなく」(浦島太郎の歌から、不正確ですが)飛行場になっていた、というわけです。「こわ如何に」というのは、「これはどうしたことか」という意味です。
米軍は、普天間飛行場の地域は「無人だった」と別の司令官が語っていた、と言います。そりゃあそうでしょう、米軍が住民を皆収容所に入れて、無人にしていたのですから。
昨日、雨の中をまたまた、嘉数高台に行きました。そこに来ていた沖縄県民らしい男性も、「ここは日本軍の飛行場だった」と連れの人に言っていることを聞きました。
もともと日本軍の飛行場も、地元の住民から土地を取り上げたもので、米軍が「もともと飛行場だった」と正当化することはできません。ましてや、普天間飛行場基地は、米軍が来るまで、現に集落があったのです。
普天間飛行場内の旧集落名をハトロン紙に印刷し、透けて見えるように現普天間飛行場を印刷したページのうえ(前)16ページと17ページの間)に綴じ込んだ宜野湾市教育委員会発行の『ぎのわん市の戦跡』(2003年第2版)という小冊子があります。ここには、普天間飛行場にあった旧集落名として、普天間、新城(あらぐすく)、喜友名(きゆうな)、大山、真志喜、大謝名、佐真下、宜野湾、神山、中原、赤道(あかみち)、上原、野嵩(のだけ)の13集落が記載されています。普天間飛行場に取られなかった集落は、9集落あります。飛行場に取られなくても、海兵隊の住宅などの別の基地キャンプ瑞慶覧に取られた集落は、上に記載した13集落以外に、安仁屋、伊佐があります。この小冊子には、22集落それぞれの沖縄戦の歴史が記述されています。貴重な歴史記述です。
大まかに言って、基地内のこれらの集落には丁目番号がなく、基地地域内の旧集落から追い出された住民の居住する新集落のある地域から同名の地域名に丁目番号が振られ始めています。
これらの事実は、普天間飛行場が、米軍によって、ハーグ陸戦条約に反して、強奪されたと言う歴史的経過を確証し実証しています。この事実は、旧集落の写真や住民の証言でますます補強されています。
米軍司令官の言う「住民が近づいてきた」「(普天間飛行場地域は)無人だった」などという、まったく無責任な、占領意識丸出しの最近の発言は、怒る以前に、全く笑止の沙汰である、としか言いようもありません。ろくに歴史を調べることすらできない教育レベルの低い(学歴ではなく人間としての)軍人が、海兵隊司令官では、海兵隊員たちのレイプその他の凶悪犯罪を防止できないことは当然ではないでしょうか。占領者とはそういうものです。かつての日本帝国軍隊が、中国その他の占領地でそうであったように。
沖縄をふくむ日本は、戦後65年たっても、半ば占領状態にあります。さらに悪いことは、マスコミ、政府当局者をはじめとする日本国民の多くは、頭の中まで占領されてしまっており、そのために、沖縄をふくむ日本が半占領下にあるという事実を見る力すら失っているという、おそるべき現実があるということです。
国の安全保障の最大の目的は、国の独立自立、主権の確立であり、米軍の撤退を実現することこそが、現在の日本の最大の安全保障政策であることを片時も忘れてはならないのです。言葉は激しすぎるかもしれませんが、日本の安全の「敵」は、日本国内にいるのです。(2010年7月2日)
2010年7月3日(土曜日)
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