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2010年07月02日
Cardinal Principles 2
井尻先生の著書の「明智光秀」について、いくつかの書評もある。そのうち、的確な書評でネットに掲載されているものを、リンクを張って紹介しておきたい。市場原理主義を追撃するものにとっては、必読の書である。
宮崎正弘先生の書評も良い。http://blog.kajika.net/?eid=996733
※投稿者注)下記に転機
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〔転載始め〕
井尻千男『明智光秀 正統を護った武将』(海竜社) 宮崎正弘
http://blog.kajika.net/?eid=996733
杜父魚文庫ブログ kajikablog 宮崎正弘
2010.06.08 Tuesday
井尻千男『明智光秀 正統を護った武将』(海竜社) 宮崎正弘
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信長が合理主義の近代をひらき経済自由主義者だったという妄説を駁す。明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇のヒーローではないのか。
正統とは何か、歴史とは本質的にいかなる存在か。なぜ正統なる価値観が重要なのか?歴史と正面から向き合い、国家の自尊をもとめて行動する知識人=井尻千男氏は主権回復国民運動の中枢を担い、歴史認識の正論を国民に問うために戦い続ける。
歴史の正統という価値観に立脚した思考、評価を掘り下げていけば、明智光秀が英雄であり、本能寺に信長を葬ったのは「義挙」であるということになる。戦後、とくに左翼知識人や天皇を否定する進歩的文化人が流布してきた安易な評価への逆転史観が生まれる。
となると本能寺の変を「謀反」と位置づけた、浅はかな歴史改ざんをもともと行ったのは誰か?
評者(宮崎)は、天下を合法性なく握った秀吉が張本人だと踏んできたのだが、井尻さんは秀吉より先に誠仁親王と、その周辺とみる。そして義挙はいったん成功するが、公家、同胞の日和見主義により、秀吉の捲土重来的巻き返しの勢いに叶わず、また土壇場で評価が逆転した。この悲劇の武将=明智光秀と二・二六の将校らに近似を見いだすのである。
豊臣秀吉は棚ぼた式に権力を簒奪し天下人となったが、その『合法性』は疑わしく、右筆らを動員して、なんとしても明智を『謀反人』と仕立て上げる必要があった。でなければ天下を収める理由なく、せいぜいが信長軍団の内紛として片付けてもよいことだった。
他方、明智にはそもそも天下を収める野心がなく、君側の奸を討ち、天下に正義を訴える目的があった。
ともかく天皇を亡き者にしようと企んだ乱暴者、仏教徒を数万人も虐殺し、よこしまな覇者になろうとした織田信長が、なぜ近代では「法敵」という位置づけから唐突に転換し、英雄視されることになったのか。本書はその歴史の謎に迫る会心作である。
近代合理主義の陥穽におちた歴史解釈を白日の下にさらし直し、本能寺前後の朝廷、足利幕府残党、公家の動向を、かろうじて残された古文書、日記(その記述の改ざん、編集し直しも含め)などから推理を積み重ねて、事件の本質に迫る。構想じつに二十年、井尻さん畢生の著作ができあがった。
評者は、この作品を井尻さんが『新日本学』(拓殖大学日本文化研究所季刊誌)に連載中から、毎号精密に読んできたのだが、単行本にまとまったのを機に、もう一度読み直した。方々に新しい発見があり、重大事件などの再確認もできた。
まず本書執筆のきっかけを井尻氏は次のように言う。「小泉純一郎総理が皇室典範の改正を決意したと思われた頃、市川海老蔵演ずる『信長』(新橋演舞場)を観劇していたく感激したということがメディアで報じられた。そのことを知った瞬間、私は光秀のことを書くべき時がきたと心に決めた。
思うに人間類型としていえば、戦後政治家のなかで最も信長的なる人間類型が小泉純一郎氏なのではないか。言う意味は、改革とニヒリズムがほとんど分かちがたく結びついていると言うことである。そもそも市場原理主義に基づく改革論がニヒリズムと背中あわせになっているということに気づくか、気づかないか、そこが保守たるか否かの分岐点」なのだ。
第一の例証として井尻氏があげた理由は、「近代史家のほとんどは信長の比叡山焼き討ちを非難しないばかりか、その愚挙に近代の萌芽をみる」からであり、「宗教的呪縛からの自由と楽市楽座という自由経済を高く評価する」から誤解が生じるのだ。
つまり「啓蒙主義的評価によって、信長の近代性を称賛する」。保守のなかにも、そういう解釈がまかり通った。『政教分離』の功績をあげた会田雄次氏もそうだった。
中世的迷妄という迷信の世界から、合理主義という近世を開いたのが信長という維新後の歴史評価は、信長の「底知れぬニヒリズムを」見ようとはしない。
南蛮から来たバテレンを活用し、既存宗教に論争をさせた信長は、さもキリスト教徒のように振る舞った印象を付帯するが、信長は耶蘇教を巧妙に利用しただけである。
安土城跡には二回ほど登ったが、麓の総見寺のご神体は信長である。また安土天守閣は「天主」であり、「天守」ではない。このふたつのことからも信長の秘めた野心がほの見えてくるようである。
▲信長の耶蘇教好きは演技にすぎず、自分が神に代わることを夢見た
井尻氏はかく言う。「信長が、キリスト教という一神教に関心と好意を懐いたのは何故か。一つの仮説は信長が一神教の神学に信仰ではなく、合理主義を発見した、ということである。(中略)その合理性に比べるに、我が国の当時の宗教界は神仏混淆で、はなはだ合理性を欠いていた。
というよりも、そもそも合理性というものにさしたる価値を見なかったのである。それに室町期に隆盛した禅宗文化は直感と飛躍と閃きにこそ価値を見いだすのであって、いわゆる合理性には価値を置かない」のだ。
「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(虚無主義)と紙一重だということに」、日本の哲学者、歴史かの多くが気づかなかった。あるいは意図的に軽視した。それが信長評価を過度に高めてきたのである。
かくて正親町天皇に対して不敬にも退位を迫り、誠仁親王を信長は京の自邸に囲い、あろうことか蘭奢待を切り落として伝統と権威をないがしろにした。
天皇と公家を威圧するために二度にわたる馬揃えを展開し、覇者への野心を目ざす。これを諫めようとした荒木村重一族を想像を絶する残虐さで虐殺し、ついに知識人が信長打倒で、ひそかに連合し、光秀をたのみ、とうとう正統を護るために光秀は義挙に立った。
従来の解釈とは、光秀の遺作「ときはいま天が下しる五月かな」の「とき」は土岐だろうという推定だったが、そうではなく、又『天』は野心を秘めた光秀の天下取りの「天」ではなく、井尻氏は「天皇が納める国」、すなわち明智の意図は、正統に戻す、国体を護るための決意をのべた句であるとされる。
『古今和歌集』の一節に遡及して、「かかるに、いま、天皇の天下しろしめす」にこそが源流で、「天」は天皇、下は「民草」、しるは「領る」、ないし「統治」と解釈される。尊皇保守主義の復権を目指した光秀の行動と重ねると、一切の符帳はあう。こうして本書は保守論壇における今年最大の問題作のひとつと言える。
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| 宮崎正弘 | 15:07 |
〔転載終わり〕
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