http://www.asyura2.com/10/senkyo89/msg/686.html
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菅直人は、センゴクやエダノやノダやゲンバやマエハラとハゲタカファンドを組織して国民の財産である民主党主導の連立政権という政治権力の値を下げようと必死で頑張っている訳です。
これが成功すると(参院選での大幅敗北と言う事)、連立政権の値が下がって身売りしなければならなくなります。
つまり、自民党やみんなの党や公明党と連立しなければならなくなる、つまり彼らの言いなりになると言う事です。
簡保の宿やその他の郵政の財産を安く売り払おうとした西川善文と同じ事ですな。
傷つけたり意図的に安く査定したりして、価値を下げて売り払おうとした対象が資産であるか政治権力であるかの違いだけであって、国民の財産である事には変りがないのです。
しかも「破れドラム缶」はどさくさ紛れに勝手に権力を盗み取って外国や外国の手先である他党にこれを売り渡そうとしているのですから、
「石川五右衛門を凌ぐ日本歴史上最大級の大泥棒」と看做されても仕方がないでしょう。
これは只では済みませんよ。
誰が罰すると言う事ではなく、否応なく罰せられる事になります。
本人は血迷っているらしく、仲間達も同じ類の連中のようですが、全く先が見えていません。こうなると救いようがありませんな。
無知は五右衛門の知恵と力をも凌いでしまうようです。
釜茹でになるんですかね?
それじゃあ済まないでしょう。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~wonder/sub402.htm
石川五右衛門(いしかわごえもん) 1568年?〜1594年
安土桃山時代の盗賊の頭目。確かな経歴は不明だが、実在したことは確かなようである。出身地も定かではなく、盗賊であったことと、1594年に親子党類ともに京都三条河原で釜ゆでの極刑に処された、ということくらいで、あとは俗説と伝承が混在して、その実体はよくわかっていないというのが現状である。
石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ
この辞世の句と、「絶景かな、絶景かな・・・」と、南禅寺山門上で市中を眺めて言ったセリフが有名な並木五瓶作「金門五山桐」。石川五右衛門がの名が広まったのは1778年に初演となったこの歌舞伎狂言や、1737年初演の人形浄瑠璃「釜淵双級巴」に負うところが大きいといえるだろう。この他にも五右衛門を題材にした物語は多く、特に1802年に刊行された「絵本太閤記」は、人々が想像する五右衛門像を確定的にしたものである。その「絵本太閤記」には、おおよそこう書かれている。
「五右衛門は河内国石川村で生まれた。、幼名は五郎吉。17歳の時に伊賀に渡り、臨寛という外人僧に忍術を習い、その後にはその忍術を使い悪事を重ねていく。
そんなある日、関白秀次の家臣木村常陸介から、太閤秀吉の暗殺を依頼される。伏見城に潜入した五右衛門は秀吉が寝静まるのを待ち、丑三つ時に秀吉の部屋に忍び込んだ。鼾も高く寝入っている秀吉を見た五右衛門が飛びかかろうとしたまさにその時、その時、枕元に置かれた千鳥の香炉がチリリと鳴いた。
見つかった五右衛門は数日間の拷問の末、手下を含め総勢20人と共に釜ゆでにされたのである」
これらはあくまで創作であって実話ではない。このように事実よりも伝説のほうが多い人物なのだが、五右衛門という人物は果たして実在したのだろうか。
五右衛門と思われる人物に関しての最も古い資料は、公家の山下言経の日記「言経縁記」である。そこには「文禄3年(1594年)8月、盗人スリ10人、子一人を釜にて煮る」と書かれている。
その次には1642年に林羅山が、文禄の時代に石川五右衛門という盗賊が捕らえられ、母親と同類20人を煮殺したという記載を「豊臣秀吉譜」に記し、また、沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを書き記してはいるが、これらは共に処刑から年代が経ちすぎていて、今ひとつ信憑性が欠けるという研究者もいるようである。
五右衛門の名前が出ている「豊臣秀吉譜」が信憑性に欠けるとなれば、「言経縁記」に書かれてある盗人が果たして本当に石川五右衛門という名前であるかという疑問が起こる。だが実は「言経縁記」と処刑の期日と方法が全く同じように書かれた文献が、意外にも外国に存在したのである。
「日本王国記」というタイトルの本がローマのイエズス会文書館に所蔵されている。著者はアビラ・ロラン。
アビラは16世紀から17世紀にかけて約20年ほど日本に滞在した貿易商で、1615年に長崎でこの本を書き上げているのだが、その文中に、かって都を荒らし回る盗賊の集団がいたが、集団の中で15人の頭目が捕らえられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られたという記述がある。だが、この記述にもまた石川五右衛門の名前は存在しない。
ところが、である。
この本にはペドロ・モレホンという宣教師が注釈を書いており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年のことである。油で煮られたのは「Ixicavagoyemon」とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのだ。このペドロという人は、処刑当時京都の修道院の院長をしていたという。
こうして、石川五右衛門実在説は、2人の外国人によって裏付けられた。
また、五右衛門を煮た釜というのが戦前まで東京の刑務所協会に保存されていたが、戦時中どこかに消失してしまったということである。
2001年6月7日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
石川五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代に出没した盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。
従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記からその存在が確定した。
目次 [非表示]
1 伝説の五右衛門
2 史料に残る五右衛門
3 架空の英雄としての五右衛門
4 半生
5 石川五右衛門が登場する作品
5.1 古典
5.2 現代
6 出典
7 外部リンク
伝説の五右衛門 [編集]
出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子という説もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。
また一説には三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた。
三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」(たとえ砂浜の砂が無くなるようなことがあったとしても、盗人は世の中からは消えないだろう)と辞世の句を詠んだという。
史料に残る五右衛門 [編集]
史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたアビラ・ヒロンの記した『日本王国記』[1]によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、
「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」
と記している。[2]
また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの1642年(寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。
また、(以下、「一」、「二」、「レ」は漢文の返り点)、『続本朝通鑑』には、
「頃年、有二石川五右衛門者一、或穿窬或強盗不レ止矣、秀吉令二京尹前田玄以遍捜一レ之、遂捕二石川一、且縛二其母竝同類二十人許一烹二殺之三条河原一」
– 續本朝通鑑
とあり、『歴朝要紀』には、
「所司代法印前田玄以、捕二賊石川五右衛門竝其母及其党二十一烹二殺于三条河原一」
– 歴朝要紀
とある。
架空の英雄としての五右衛門 [編集]
江戸時代には伝説の大泥棒として認知されている。盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようになったこと、また権力者豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたことにもよるであろう。また徳川政権の下では権力者の象徴として前政権の秀吉が適当だった為と考えられる。
歌舞伎『楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と名科白を廻し、辞世の句といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻して山門の上下で「天地の見得」を切るのが有名。ただし実際の南禅寺山門は五右衛門の死後30年以上経ったの寛永5年(1628年)の建築である。この場面の、金爛褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっている。
戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。
一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。
半生 [編集]
その半生についてはさまざまな説がある。
幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」とか「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。
百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が圧政や朝鮮出兵の失敗で嫌われていた事もあり、庶民のヒーロー的存在になっていた。
秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、香炉が鳴って捕えられる。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。
有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
(後略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%BC%B6
ドラム缶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ドラム缶ドラム缶(ドラムかん、英語:steel drum)とは200リットル以上の大型の金属製の缶のこと。特注品でない限り鋼鉄で作られる。ガソリン、灯油のような燃料油や塗料、溶剤、化学薬品、医薬原料などの工業材料とその製品といった液体を入れて運搬・貯蔵に用いられる。
(後略)
上の記述から判るでしょうがドラム缶のドラムとは太鼓の事ですね。
菅さんは「錆びて破れたドラム缶」でしょう。もう駄々漏れ、使い物になりません。鉄屑にもなりませんわ。
蹴飛ばせ 破れたドラム缶 海の底へと沈んでけ
http://www.youtube.com/watch?v=PxL3fTX_t9Y&feature=related
アケミという名で十八で 原曲♪ 千昌夫
私達にはヤケも寂しさも無縁です。
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