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2010年07月02日
実は筆者は昨年3月、世相全般をフィールドにささやかなブログサイトを立ち上げたのだが、その殆どが政治ブログになってしまった。時の流れに逆らっても意味がないので、その流れに身を任せていたのだが、本来もう少し、社会学的コラムにしたかったと反省している。
小沢一郎の秘書逮捕以降、次々と思わぬ政治的事件が起き、持続可能を目的とした小沢叩きを見るにつけ、単純に義憤を感じてしまった時点から政治コラム一色になってしまった。
民主党が衆議院で308議席を獲得、政権交代が成就した。これでもう少し社会学とか哲学的なコラムに移れるかなと思ったものの、それをさせてくれる政治的環境は訪れなかった。いや、益々状況は混迷、政治コラムから抜け出すことは遠い夢になりつつある。
ところで、今夜は無理やり社会政治学的立場に立って、現状の日本と云う国の事を考えてみようと試みる。勿論僅かなコラムの範囲での話なので、論を展開する程のモノではない。(笑)
まず世界規模で資本主義と云うものを観察していると、金融工学を駆使してマネーがマネーを生みだす資本主義の原点 モノ作りから遊離している事実が理解できる。つまり、現在の資本主義は我々が考えていた資本主義とは異質なものに変貌している。
その象徴がサブプライム問題だ。米国発の金融資本主義の重大な欠点が見えたわけだが、そこまで行かないと解決出来ない資本主義の限界が来ていたと考えることが出来る。 グローバル化した経済の連鎖は、一国だけ難を逃れるという都合のいい事が出来ない時代を迎えている。
つまりは、グローバル化が始まった時点において、資本主義は自壊し始めたのだと思う。この資本主義に固執することは、どれ程国際的規制を試みようと、最終的には敗北する事になるのだろう。
だからと言って、資本主義に代わる次世代の経済体制は何処も明示出来ていない。無理やり、参考にするなら中国の社会資本主義と云う、民主主義を覆す体制を視野に入れなければならなくなる。
どうしてこんなに脆くも資本主義は自壊したのか? ソ連邦の崩壊と東西冷戦の終結が対立軸を失った自由主義国家の迷走を招き、モノ作りから金融にシフトする資本主義を生みだしたわけだが、IT革命やコンピューターの高度化により、グローバル化は国境を国境と線引きすることなく、経済を野放しにした。
人間の文明が進歩すればするほど、この状況は避けられなかっただろうし、止める事も不可能だ。人間と云うもの、賢人も愚者も文明の便利さを好むものであり、知らず知らずに利便を享受する。ひたすら文明の進化から逃れようとすることは、先進国では人間生活自体を放棄する事にさえなりかねない。
今後も人間は文明を発展させ、利便を追求する生き物として地球に存在するだろうが、何処でどのような歯止めがかけられるものか、皆目見当もつかない。国境を国境とも思わぬグル―バル経済は国家の政治体制に寸借することも少ない。共産主義も民主主義・自由主義も双方が対立軸の要素を組み入れ、混血化している。おそらく、最後に残る対立軸は宗教に収斂されて行くのかもしれない。
ここで怖いのが一神教の宗教である。一番怖い宗教がイスラム教のような印象があるが、一番怖いのはキリスト教なのだろうと、筆者は感覚的に決めつけている。(笑)
現在多くのキリスト教は緩やかな教えが主体になっているが、ユダヤ教と云う世界には唯一神の厳しい戒律があり、イスラエルと云う国家を現出している。陰謀論などで必ず、ユダヤ民族・イスラエルが顔を出す源も、このキリスト教の唯一神の戒律の厳しさなのだろう。
あまりこの方向で話しだすと、コラムの範囲を逸脱するので止めておくが、世界は国境なき資本主義となり、出口のない行き詰まりを見せている。米国が戦争に積極的な事実は、モノづくりの唯一の手段が軍事産業だからに相違ない。しかし、これとても他国への難癖も早晩限界が来るだろう。
地球環境の問題も一見地球物理学的な人類の心配ごとのように語るが、実際は金融経済に代わる、ネタを求めているだけかもしれない。各種資源やエネルギー問題もしかりである。その問題をどれだけ資本主義経済とリンクさせるかが、国家経済を考える人々の関心事になっているのだ。
筆者は個人的に、文明の無限の欲望的進歩が人類を破滅に向かわせているという予感を憶えている。どこかで止めないといけないという心の叫びと、実際の生活が矛盾として常に並存している。
政治家は気の毒なことに、国民に生活の向上を明示しなければならない立場である。
その為に経済成長を言わざるを得ないのだろうが、現実少子高齢化の国家が内需外需総動員で経済成長を標榜することが正しい道なのかどうか、冷静に考える必要もあるような気がする。
公共投資の財政出動は経済を一時活性化させるだろうが、いずれはそれを利用する国民が少なくなるのだか、どうかなとも思う。無理やり需要を生み出そうと知恵を搾るわけだが、本来需要というものは自然発生的に人間が欲しがる環境から生まれるものの筈である。
哲学的には、日本の経済はストップしても問題のないレベルに達していると考えるのも選択ではないのか。世界第二位の経済大国が何十位に落ちたと嘆く評論家が殆どだが、どだい二位になったこと自体間違いだと思う感覚はないのだろうか。
敗戦から西側諸国に追随する事で経済を謳歌したわけだが、世界第二位に君臨すること自体妙だと思う感覚も必要だ。
そもそも日本の国土と資源と人口で求められるGDPの基準値はどの程度なのだろう?本来そこから話は始めるべきかもしれない。消費税を上げる上げないと云う議論も空回りする一番の理由はその辺の議論が抜けているからではないのか。
あくまで経済を成長させないと日本は消滅するのか? 60歳以上の国民が有する1500兆円の資産の価値や国家が持つ資産総額500兆円の話も抜きに、「強い経済・強い財政・強い福祉」と云う話は空論になりかねない。少子高齢化で果たして強い経済は必要なのか?日本の身の丈経済とはどの辺なのだ?
こう云う事を書くと「負け犬根性」だと揶揄されるかもしれないが、哲学的には経済が成長したから人間が幸福になる保証はない。まして、資本主義の自壊が始まっている兆候は歴然としている中で、財務省主導の強い経済がマヤカシっぽく思える遠因は筆者の場合、この辺にある。
同志社大教授の浜矩子が言うように日本の経済の方向性は「成長戦略」ではなく「成熟戦略」という考えは頷ける。氏の考えの全てを知っているわけではないが、一つの選択だと思う。
少子高齢化社会を移民とか避けて通るのなら、50年くらいは成長戦略は放棄すべきだろう。「あるもので賄う」寂しき経済政策も考える価値はある。おそらく50年以内に、世界の資本主義は間違いなく姿かたちを変えて行く。まだまだ経済を停滞させておく方が自然なのかもしれない。
このように話すと、「座して死を待て」と言うのかと言われそうだが、そう云う訳でもない。筆者はそれでも良いが、そうもいくまい。(笑)経済は当分停滞する前提で予算の分配を考える必要もある。市場原理主義の考えで行けば、たしかに経済は4%程度の成長も夢ではない。しかし、強者と弱者の線引きが明確になり過ぎ、セーフティーネットの予算が経済成長を上回るかたちで必要になる。
そこで財務省は税制改革を目論んでいる。当面は消費税の問題だが、一番の目的は1500兆円に及ぶ国民の資産の再配分に向けられていると思う。相続税の増税が一番富の再配分に役立つはずだ。その流れから、菅直人は国民総背番号の導入などを口にしたのだ。再配分と言うと聞こえが良いが、何てことない「国民の個人財産の収奪」を試みているだけである。
その金が日本と米国を還流するマネーフローを発生させれば両国のGDPは格段に改善する。しかし、日本国民がシコシコ溜めたカネは消えるのである。(笑)
長くなり過ぎたのでまとめにかかるが(笑)、当面注意しなければならないのが、日本郵政が有する300兆円の国民の財産である。これも日米で還流させる事で、日米両政府の懐は潤う。参議院選後の臨時国会で国民新党との連立解消、郵政改革法廃案と株式の一括売却など、トンデモナイ成り行きになる予感までしてくる。
今夜は相当に個人的独白になりました。長々と失礼いたしました。(笑)
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