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「朝日新聞」be on Saturday 平成22年6月26日より
〔磯田道史のこの人、その言葉〕
松平定信(1758〜1829)
隠すと申すは、潔白ならぬ事より起り候、此方(このほう)は腸(はらわた)を出して、政事を致す心底に候。
松平定信(まつだいらさだのぷ)は8代将軍徳川吉宗の次男宗武の子。江戸幕府の老中・将軍補佐として寛政の改革を主導した。
本来、将軍職を継いでもおかしくない貴公子に生まれたが満15歳で白河藩11万石(福島県)の養子に追いやられた。定信は才走っていた。将軍候補にしたくない一橋治済(ひとつばしはるさだ)と田沼意次(おきつぐ)の策謀とされる。
白河は寒い。
藩は貧乏。天明の大飢饉で百姓は飢えていた。定信はこの貧乏藩の改革を決意。まずは人材登用の要点を指示した。それまで白河藩では(温和の様にて、無口な、おとなしき、引込み思案な人)が良い人として任用されてきたが、これでは改革できない。
〈此上(このうえ)は元気な者、器量ある者をも選ぶべし〉
そのうえで定信は画期的なことをやった。財政の公開である。近代国家では財政は原則公開。だが近世の藩国家では財政は「御内証(ごないしょう)」ともよばれ秘密事項。担当役人以外には知らされなかった。
だが定信は「隠すというのは潔白でないことから起きる。自分は腸を出して政治をする心底だ。隠すのは為にならない。今年は1万両の蓄えができたと隠さず言えば、みな譜代の家来だから安心する。隠すから、へたへたと元気がなくなるのだ」(『御行状記料』)といい、藩士たちに決算を公開した。
定信は情報公開を行ったうえで解決策の上申を求めた。祖父吉宗にならい白河藩にも目安箱を設置。
〈国家の為と思ふ事は、下が下迄(まで)、聊(いささ)か隔(へだて)なく言上すべし〉と命じた。
解決は現状を知り、問題を共有することからはじまる。財政が公開されている今日でも国の会計は複雑でみえにくい。特別会計や外郭団体など見えにくいところに問題が隠れて
いる。
(歴史学者・茨城大准教授)
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