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2010年6月20日 (日)
密使 若泉敬 沖縄返還の代償
昨日19日土曜日のNHKスペシャル「沖縄返還密使・若泉敬 日米外交戦の舞台裏」(http://www.nhk.or.jp/special/onair/100619.html)には、本当に感動した。いま、この番組のことを思い出すだけで、涙が出てくる。
若泉氏の沖縄に向き合う思いは、終始一貫して、全く打算のない「良かれ」と思ってものだったと信じる。その清らかな意思で「他策ナカリシ」と妥協し密約した「沖縄返還」だったが、最初から密約ありきの交渉だった。
当時、アメリカは、核ミサイルをどこからでも発射できる用意をしつつあった。沖縄に核を置き続ける必要がなくなっていた。「沖縄返還」交渉においてのアメリカの狙いは、沖縄に核を置き続けることではなく、満足のいく合意があれば核の撤去はする用意があった。「核の撤去」は、日本の軍事基地を、台湾、ベトナムとの関係で自由に使用できることを希望するために、交渉カードに使われたものだった。アメリカは、唯一の被爆国の反核感情を計算に入れて交渉に臨んでいたのだ。
アメリカの狙いは、「日本の軍事基地を、台湾、ベトナムとの関係で自由に使用できること」にあり、「核の再持ち込み」にあった。
<佐藤栄作氏の死後、官邸から持ち帰った執務机の中から発見された合意文書>
米側:ニクソン大統領
我々の共同声明にあるように、沖縄の施政権が実際に日本に返還されるまでに、沖縄からすべての核兵器を撤去するのが米国政府の意図である。それ以降は、共同声明で述べているように、日米安全保障条約、および関連する諸取り決めが沖縄に適用される。
しかし、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負う国際的責任を効果的に遂行するため重大な緊急事態に際して米国政府は日本政府との事前協議の上、沖縄に核兵器を再び持ち込み、通過させる権利が必要となるだろう。米国政府は好意的な回答を期待する。米国政府はまた、現存の核兵器貯蔵地である沖縄の嘉手納、那覇、辺野古、ナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも使用できるよう維持し、重大な緊急事態の際に活用することが必要となる。
日本側:佐藤栄作首相
日本政府は、大統領が上で述べた重大な緊急事態に際し、米国政府が必要とすることを理解し、そのような事前協議が行われた場合、遅滞なくこれらの必要を満たすだろう。大統領と首相は、この議事録を2通作成し、大統領と首相官邸にのみ保管し、米大統領と日本国首相との間でのみ、最大の注意を払って極秘に取り扱うべきものとすることで合意した。
アメリカは、置き続ける必要がなくなった「核」の撤去を交渉カードとして切り、この合意で、得たいものすべてを手に入れた。比して、日本政府は、アメリカの条件すべてを飲み、勝ち取ったと思ったものはカードだったわけで、何も勝ち取っていない。しかも、日本政府が、この交渉で最も重要と考えていたのは、「大統領と首相は、この議事録を2通作成し、大統領と首相官邸にのみ保管し、米大統領と日本国首相との間でのみ、最大の注意を払って極秘に取り扱うべきものとする」というところにあったと思われる。事実、若泉は、佐藤首相に、文書の取り扱いについて注意を促している。
若泉は交渉にあたって、ホワイトハウスにいる友人モートン・ハルペリンに、「核を撤去できるか」と尋ねる。モートンは、ある条件が必要と伝える。アメリカ政府が核の再持ち込みを求めるとき、日本がそれを認めることを秘密の了解事項としておかないと議会を説得できないと。
ということは、そもそも、この秘密合意文書は、アメリカにおいては全く秘密ではなかったということではないかと私は思うけど。
アメリカ側は、強硬な姿勢を変えず、核抜きを可能とするのは、唯一「核再持ち込み」を密約する場合であるとした。若泉は、佐藤栄作が打ち出していた非核三原則の中、苦しい交渉を迫られ、これが不可避な現実なのだとの結論に至る。密約を結ぶよう佐藤に進言する。キッシンジャーと協議を重ねた。ニクソンと佐藤とで密約を結ばせ、返還合意をした。
若泉は、「他策なかりし」と苦しい思いして密約を進言し、沖縄密約が合意されることになった。
密約は、1969(昭和44)年11月の日米首脳会談の最後に大統領執務室に隣接する小部屋でかわされた。1972(昭和47)年5月15日本土復帰の際には、日米合同委員会が開催され、日米両国は沖縄県における米軍基地の嘉手納、普天間、88か所のほとんどが期限を定めず使えるという取り決めがなされた。日米合同委員会の合意議事録は秘密事項とされ、公にされなかったが、1997年に公表された。内容は、こちら。(http://www.jca.apc.org/HHK/Tsushin/121/121_ap.html)
アメリカは、アジアでの戦争のために日本の基地をより自由に使うことを密約で外交的に勝ち取ったが、さらに返還当日に日米合同委員会で沖縄の無期限自由使用を確認しているということだと思う。
沖縄返還によって、これが現在まで続く基地利用となった。
1974年12月、佐藤栄作は、非核三原則制定を評価され、「ノーベル平和賞」を受ける。
この佐藤栄作のノーベル平和賞受賞(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C#.E3.83.8E.E3.83.BC.E3.83.99.E3.83.AB.E5.B9.B3.E5.92.8C.E8.B3.9E.E3.82.92.E3.82.81.E3.81.90.E3.81.A3.E3.81.A6)をめぐっては、「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」との批判がある。
平和賞を選考するノルウェーのノーベル賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と述べたという
若林は、佐藤の自宅を訪れ、佐藤の日記閲覧を申し出る。
11月6日に注目した。が、書かれているのは、「沖縄や、2,3の連中が、余の激励にやってくる」。これだけ。
認識の違いを痛感する。
やがて、若泉氏は、中央政界と距離を置き、表舞台から姿を消す。
沖縄復帰20周年 東京で日米の政府関係者が集まり記念式典を開いた。若泉はこの時12年ぶりに公の場に姿を現した。
合わせて開かれた沖縄返還会議に出席。
その席で、機密解除された機密文書NSDN13号が開示さる。
若泉は、この戦略の全貌を初めて知り愕然とした。
たびたびの会談で、その感触すらつかめなかった。日本政府の誰ひとりとして正確には知らなかった。
若泉がかかわった返還交渉によって、アメリカは望むものすべてを得ていた。
密約までして果たした沖縄返還であったが、結果的に、沖縄の基地の固定化を招くことになった。
自ら果たした役割に疑問を持ち始めた若泉は、何を考えどう行動したのか。友人あての手紙から浮かび上がる。
大学時代から40年代の友人福留氏によると、
あれから沖縄へ鎮魂の旅をした。
大きな決断を迫られているように感じた。
基地の固定化を招いた責任は自分にもあるのではないと、何度も沖縄を訪れる。
最も戦闘が激しかった沖縄南部。
おびただし数の遺骨が散乱。戦後生き残った連中が初めて立てた魂魄の塔。
唯一、住民を巻き込む戦闘の場だった。
見たのは、本土のために一方的に負担を背負わされている沖縄の姿だった。
沖縄へ行くたびに感じる。
平和を享受しながら、沖縄へ目を向けようとしない本土のことを、「愚者の楽園」という。
やがて、沖縄交渉のすべてを批判を覚悟にすべてを明かすことにした。
『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年/新装版, 2009年)を発表する。
編集者にあてた手紙に、そろそろ時効だからと、そろそろ語ろうとはしたくないとある。
歴史へのささやかな意志。
著書出版で国会へ呼ばれることを覚悟していた。日本国全体で問題視するだろうと期待していた。日本の安全保障について議論が高まるのではないか、それによって、日本の人々が問題意識を持つのではないかと。
しかし、当時外務省は、密約はなかったと真っ向から否定。
元外務事務次官、斎藤邦彦は、もう済んだ問題だと。とにかく、沖縄が核抜き本土並みで帰ってきた。外務省全体として同じ感じ方だと。
国会でも当時の秘密交渉について問題にすることもなく、社会も関心を持たなかった。
無視黙殺された現状。政治家、官僚、学者、その他みんな逃げてしまった。
福井に住む友人は、「失意失望です。形の上では私の昔やった仕事を公表しただけで終わってしまうのか、そういうことではなかったんだ。日本国民の目を覚ます、どんな立場、これから日本をどうすればいいのか、真剣に考えてほしかったんだ。なんでこうなんだろうか」と。
若泉が著書を発表した翌年、沖縄では、12歳の少女がアメリカ海兵隊兵士に拉致され暴行を受ける。基地に対する沖縄の怒りは頂点に達した。
若泉が切り抜いていた新聞記事。自宅の書斎で見つかる。
若泉は、沖縄の地元紙を毎日取り寄せ、人々の怒りを感じ取ろうとしていた。
一向に変わらない基地の負担。自責の念は深まる。沖縄慰霊の日の6月23日、戦没墓苑でたたずむ姿があった。
沖縄の人々に対する責任を繰り返し口にしていた。
本当に本土復帰してみなさんよかったんでしょうかという思いがあった。沖縄に来て、町の人によく問いかけておられた。
返還をしたから自分のしたことは終わったのだというような気はなかった。
そして重い責任を沖縄の現状に結果責任を感じておられたのだろう。
末期のがんに侵されていた。余命わずか。死期が迫る中、沖縄に対する自らの責任の取り方を考えていた。
沖縄県の皆様
太田昌秀知事
あての手紙を書き、歴史に対して自分が負っている結果責任を取り自ら命を絶つ。
手紙は関係者を通じて太田さんの手元に届く。
太田さん:
申し訳ないという思いがひしひしと伝わってくる。
日本の政治家にそういう人は一人もいなかった。
1996年7月11日 友人は、最後に立ち会う。
著書を海外でも出版するため関係者を自宅に招く。午後2時20分 周りの人に冷たい水を進め、若泉も飲む。突然、何かを口に含む。
自然な死に方ではなくて、自らが選ばれた死だという風に友人は思っていると。
その解放は日本の独立を完成する。
本土復帰を訴える沖縄の女性の写真。アメリカの統治の下、日の丸を掲げて立つ女性。「小指の痛みを全身の痛みと感じてほしい」との言葉がある。
この写真が、30年私の書斎にあり、心の支えだったと。
他の方法がなかったと密約までして返還を果たした。沖縄の人に尽くしたと思ったが、沖縄返還から、38年、基地は残り、沖縄は今も負担を追い続けております。
沖縄返還とは何だったのか。その代償を誰が払うのか。若泉の問いは私たちに突きつけられています。
と、NHKは結んだ。
太田元知事もおっしゃっているが、若泉氏ほど、沖縄について一生懸命に考えた人がかつていただろうか?
私たちは、本当に平和を享受しながら、沖縄へ目を向けようとしない「愚者の楽園」に住んでいる。
「愚者の楽園」の民主党政権は、負担軽減をと口先では言っているが、していることは、負担の拡大である。しかも、アメリカと組んで強権的にすら見える。
●結局、辺野古「埋め立て」へ…普天間移設(http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100518-OYT1T01222.htm)
米軍普天間飛行場移設問題で、政府は、沖縄県名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸部に建設する代替施設の工法を「埋め立て方式」に戻す方向で最終調整に入り、米政府側に伝えた。
●普天間移設:「沖縄の理解なくても工法選定」岡田外相(http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100609k0000e010038000c.html)
岡田克也外相は9日未明、外務省で記者会見し、米軍普天間飛行場の移設先として沖縄県名護市辺野古崎付近と明記した日米共同声明について、「8月末とは技術的な検討のタイミングであり、それまでに沖縄の理解を求めなければならないというものではない」と述べ、地元の理解が得られなくても、施設の位置や工法を選定する考えを表明した。
一方で、岡田氏は「沖縄のみなさんが、『これならやむを得ない』と思っていただく状況をつくりだすことが重要だ」と指摘、沖縄住民の理解を求めるため、粘り強く説得を進める意向も強調した
●鳩山前首相の口ぐせ「対等な日米関係」…「あまり使いたくなかった」と岡田外相(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100618/plc1006181923009-n1.htm)
岡田克也外相は18日の記者会見で、鳩山由紀夫前首相が掲げた「対等で緊密な日米関係」とのキャッチフレーズについて、「今は対等ではないと認識されかねないので、あまり使いたくなかった」と述べ、内心では否定的だったことを明らかにした。岡田氏は「私が鳩山政権の外相ということを離れて過去に『対等な日米関係』という言葉を使ったことはほとんどない」と述べた。
●菅首相「基地問題どうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」と発言 喜納参院議員が暴露(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100615/plc1006152358024-n1.htm)
この中で喜納氏は政権交代後、沖縄の基地問題に関して菅首相と交わした会話を紹介。喜納氏が「沖縄問題をよろしく」と言ったところ、首相は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と漏らし、最後は「もう沖縄は独立した方がいい」と言い放ったという。
●民主、擁立見送り=沖縄【参院選情勢】(http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010062000220)
民主は、米軍普天間飛行場の沖縄県内移設への県民の反発が強く、独自候補擁立を断念した。自民の現職島尻は、選対本部長に就いた県知事仲井真弘多の全面支援を取り付けた。公明県本部と政策協議に入っており、支援を得られる見通し。無所属の新人山城は社民から、やはり無所属新人の伊集は共産から、それぞれ推薦を受る。(2010/06/20-17:52)
鳩山氏が、「国外最低でも県外」と盛んにおっしゃり、県民に希望を持たせたのち、一転、巨大辺野古新基地建設合意、この合意を踏襲すると菅首相、沖縄はどうにもならないと言い放つ。岡田外務大臣は、沖縄県民の理解を得なくても工法を選定し、『これならやむを得ない』と思っていただく状況をつくりだすと言い放つ。
もう本当にこれが日本国民を代表する政治家かと思うほどに、民意を無視し沖縄に基地を押し付けてしかも米国に気を使い住民に冷淡態度を取っている。
マッカーサーが、日本人を12歳だと揶揄したが、今は、もっと低年齢化しているのかもしれない。こんなレベルの低い政治家に政治を託さなければならない日本人は大変に不幸だ。選んだ政治家が国民の側に立たず、米国側や官僚側にいってしまう。これは、ひとえに、国民の側に立つ優れた政治家が、検察とマスゴミによって悪者に仕立て上げられ葬り去られるという日本マトリックスシステムによるものだと私は思っている。
しかし、日本マトリックスに、このようなすぐれた番組を作成するNHKを発見したことは、とてもうれしい。まだまだ、日本は捨てたものじゃないですね。
2010年6月20日 (日)
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