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菅直人政権には国家社会主義的傾向がある
「最小不幸社会」を掲げる菅直人首相。佐藤優の眼光紙背:第75回
http://news.livedoor.com/article/detail/4841008/
6月21日の記者会見において菅直人総理がこう述べた。
<首相は消費増税について、「早期に超党派で議論を始めたい。その場合、自民党が提案している10%を一つの参考にしたい」と改めて表明。「そのこと自体は、(参院選の)公約と受け止めて頂いて結構だ」と述べた。その上で、参院選では自らが掲げる経済・財政・社会保障の一体的立て直しが問われるとの考えを強調した。
一方で、参院選後ただちに税率引き上げに踏み切るのではないかという見方に対しては「まったく間違いだ」と否定。「少なくとも2年、3年、あるいはもう少しかかるのではないか」との見通しを示した。
首相は、低所得者ほど負担感が増す逆進性を緩和するため、生活必需品の税率を軽減する複数税率や税金を還付するための納税者番号制度の導入の検討が必要だという認識も明らかにした。>(6月22日asahi.com)
6月21日朝日新聞朝刊には、同19〜20日、電話により行った全国世論調査の結果、<菅内閣の支持率は50%で、1週間前の前回調査(12、13日)の59%から下落した。不支持率は27%(前回23%)。「消費税率10%」に言及した菅直人首相の発言には「評価しない」が50%で、「評価する」の39%を上回った。首相が引き上げに前向きと取れる発言をしたことで、消費増税に反対の人たちの離反を招いているようだ>という記事が掲載されている。記者会見における菅総理の発言は、この朝日新聞の記事を読み、消費税問題に焦点をあてることが参議院選挙において民主党に不利になるということを十分踏まえた上での、「確信犯的」発言だ。この発言から、菅政権が、恐らく無意識のうちに、国家社会主義体制に日本を転換していこうとする傾向が浮かび上がってくる。そのポイントは、以下の3点だ。
第一に自民党が提案する消費税率の10%を「一つの参考」すなわち、基準点にすることによって、与野党の争点から消費増税問題を外そうとしている。「財政再建に与党も野党もない」という全体の代表となることを菅政権が無意識のうちに指向している。
政党を英語でポリティカル・パーティーと呼ぶように、政党とは社会の一部(パート)を代表する結社である。税問題は、国家観と表裏一体の関係にある。政党を差異化する上で、重要な問題である消費増税について、最初から野党が提示した数値を基準とするという菅総理の発想自体に、部分の代表(政党)が開かれた場(国会がそこにおいて重要な機能を果たす)における討論で、切磋琢磨して合意に達することを避けようとする傾向が認められる。
第二に、低所得者への税率軽減や税金の還付が想定されていることだ。結果として、国家(官僚)による社会への関与が増大する。
第三に、日本国民だけでなく日本に居住する全ての人を対象とする納税者番号制度の導入が検討されていることだ。事実上の総背番号制、国家(官僚)が個人の経済状態を詳細に把握することになる。
菅直人氏を左翼、市民派と見なす論調が多い。フランス革命における左翼には、理性を絶対視し、合理的な設計によって、社会を構築するという了解があった。その意味で、菅氏の思想がこの系譜に属する政治家であることは間違いない。しかし、菅氏はマルクス主義的左翼とは本質的に異なる。日本の非共産党系左翼においては、伝統的に労農派マルクス主義の影響が強かった。旧社会党において、労農派マルクス主義者は平和革命を主張する社会主義協会というグループを作っていた。このグループに属する人々は、共産主義社会をつくるというユートピアをもっていた。菅氏はこのようなユートピアをもたない。菅氏は社会主義協会と闘う中で世界観を形成した非マルクス主義的左翼である。
<本来、政治は夢を語り理想を語り、ユートピアを語るわけですが、私の言い方で言うと不幸を最小化する仕事であって、幸福というユートピアを強制的につくると『Brave New World』(引用者註*イギリスの作家オルダス・ハックスレーの小説『すばらしき新世界』のこと)のようになってしまう。当時、学生運動でもマルクス主義なんかの連中と議論すると、彼らはユートピア社会を語るわけです。階級がなくなればすべてが解決するんだ、みたいなことを言っていた。でも、階級がなくなってすべてが解決するなんてとても思えなかった。だから僕はマルクス主義には最初から懐疑的でした。>(五百旗真/伊藤元重/薬師寺克之編『90年代の証言 菅直人 市民運動から政治闘争へ』朝日新聞社、2008年、15〜16頁)
菅氏は、「不幸を最小化する仕事」を国家が社会に介入することによって実現できると信じている。ところで、国家とは抽象的存在ではない。官僚によって担われている。従って、菅氏の発想を図式化すると「よき官僚によって、不幸がミニマム化された社会がつくられる」ということだ。菅氏は官僚を価値中立的な道具ととらえている。ナイフが人殺しに使われたといっても、それは道具であるナイフが悪いのではなく、ナイフを使った人間が悪い。自民党の政治家は、官僚を悪用していた。民主党政権は、官僚を善導し、よい目的のために用いることができるという了解を菅氏はもっている。
菅氏の発想は、先行思想と比較すると19世紀ドイツのフェルディナント・ラッサールの国家社会主義(シュタート・ゾツィアリスムス)に近い。日本では、陸軍と提携して「上からの社会主義社会」の構築を考えた大正時代から昭和初期に活躍した高畠素之と親和的だ。高畠は自らの思想を国家社会主義と名づけた。もっとも、マルクスの『資本論』全3巻をはじめて日本語に訳した高畠は、官僚を道具的な存在とはとらえず、国家悪を体現した危険な存在なので、社会によって官僚に対して圧力をかけることが不可欠と考えた。
菅政権下、日本は国家社会主義に向けて舵を切ろうとしている。国家社会主義には、北欧型の福祉国家からイタリア型ファシズムまでの幅がある。ここで重要なのは官僚よる社会への介入をどのようにして、防ぐメカニズムを構築するかであるが、国家を中立的存在と見ている限り、このようなメカニズム構築の必要性がわからない。
マルクスとマックス・ウエーバーは、論理構造は異なるが、暴力を合法的に独占するところに国家の本質があると考えた。この視座をもたないと官僚の危険が見えない。菅氏が道具主義的に官僚を使おうとすると、そこから「よき官僚たち」によって無知蒙昧な国民を保護することを真面目に考えるファシズムが生まれる。
もっともマルクス主義理論に通暁している仙石由人内閣官房長官が、菅氏の世界観的限界を補うことが想定されるので、そう簡単に日本がファシズムに転換することはないと筆者は考える。いずれにせよ、菅氏が、恐らく無意識のうちに国家社会主義的傾向を示していることを軽視してはならない。(2010年6月22日脱稿)
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