http://www.asyura2.com/10/senkyo88/msg/890.html
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菅直人と足利尊氏がソックリ似ているとの私の指摘に、「どうして?」と思われる方は多いかもしれない。
確かに人物の大きさは違う。能力の高さも違う。
しかし権力の奪い方はソックリなのだ。似ている。
尊氏は後醍醐天皇の鎌倉幕府に対する倒幕行動に参加し、しかも積極的に参加し、最後には自らが望んでいた幕府設立を成し遂げて、おまけに(実はおまけではなく邪魔だから押し潰したのだが)後醍醐天皇を追放してしまった。
菅直人は先の衆院選で先頭に立ったけわけではない。従って行った人物である。
ところがチャンスが来た時に権力を盗む事については尊氏よりも抜け目がない有様だった。
尊氏は激しく権力を望んだ。従って宗教にのめり込みその情熱を以て後醍醐天皇側の軍と戦った。
菅直人は火事場泥棒である。
知人に大きな家の留守番を頼まれて、これ幸いと家も家財道具も使い放題に使って友人知人も呼び込んで住まわせて所有者が帰って来れないようにした。
尊氏のように傷つかず、ただ図々しく居座ったコソドロである。
民主党のマニフェストをかくも大胆に図々しく踏みつけ破りつけたことは鳩山の普天間基地移転問題の沖縄県民と日本国民の希望への大胆な踏み付けと裏切りにプラスする逆族的行いである。
足利幕府は尊氏と直義の兄弟の争いを直ぐに生み出し、やがては応仁の乱を経て戦国動乱を招き滅びるに至った。
これは足利尊氏の逆賊行為による帰結であった。
足利幕府の消滅の時間的経過と菅内閣の時間的経過は勿論のことであるが同じにはならない。
後者の時間経過は前者より遥かに短いだろう。
足利尊氏は何に対して逆賊であったと言えるのか?
後醍醐天皇に対してであるとの答えは当然であるが表面的なものでしかない。
鎌倉幕府の統治が平安末期の平氏政権以来、天下人民に対し藤原氏の専横に替わるものとして経過し、その理由が国家本来の精神的権威に背き、政治権力を私するものとして私的利害を最優先するものとして存在し、天下人民の福祉に背くものとして存在したが故に、鎌倉幕府への倒幕行動が起こされたものであり、
尊氏の行いは鎌倉幕府へと逆流したばかりでなく、さらに天皇に対し反逆の限りを尽くしたからである。
その意味において尊氏は逆賊だった訳であり、単に狭く後醍醐天皇に対する反逆を以て言う事ではないのである。
菅直人の逆賊とは何か?
民主党政権を支えてきた国民大衆への反逆と謀反である。
足利尊氏が権力の依拠するところは武士達であった。人民大衆に対し権力的に振舞うに至った武士達であった。
菅直人が権力の依拠するところは反国民的対米追随売国官僚勢力と同様の行政組織と追随マスコミである。
これを以て菅直人は国民大衆に対する『逆賊』と言うのである。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue7t-mto/hongi_shoseiryoku_ashikagatakauji.htm
足利尊氏(あしかが・たかうじ) 1305〜1358
室町幕府初代将軍。清和源氏の名門・足利氏の出身で、貞氏の子。幼名・又太郎。母は上杉頼重女。初名・高氏。
初め鎌倉幕府に仕えるが、後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕を果たす。後醍醐天皇の建武政権に反発した武士が蜂起すると(中先代の乱)これを鎮めるが、後醍醐天皇の上洛命令を無視して鎌倉に留まる。このため討伐令を受けるが、合戦の末、後醍醐天皇を京から吉野に追い、光明天皇をたてて征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開いた。
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●鎌倉幕府の滅亡
尊氏は、嘉元3年(1305)、貞氏の妾の子として生まれます。
貞氏には嫡子・高義がいましたが、早世したために妾腹の尊氏が家督を相続することになりました。
そして鎌倉幕府執権・北条高時より諱を賜り、「高氏」と名乗り、元服します。
正中元年(1324)、後醍醐天皇は幕府を倒し権力回復を計ろうと企て、失敗します(正中の変)。
後醍醐天皇はその後、再び倒幕を計画したますが、元弘元年(1331年)、計画が漏れ、尊氏は鎌倉幕府の命令で、天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る赤坂城の攻撃に参加することになりました。この戦いで後醍醐天皇は敗れて捕えられ、翌年、隠岐島に流されます(元弘の変)。
幕府は、大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を立てました。
しかし翌元弘3・正慶2年(1333)、後醍醐天皇は隠岐島を脱出、名和長年らとともに船上山に挙兵します。
この事態に、幕府は尊氏に命じて討幕勢力鎮圧のために上洛させます。しかし、尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて天皇方に寝返って挙兵、近江の京極高氏らとともに、京都の六波羅探題を討伐しました。
このとき尊氏の嫡子・千寿王(後の義詮)は人質として鎌倉にいましたが自力で脱出、新田義貞とともに鎌倉幕府を攻め滅ぼしました。
鎌倉を制圧した新田義貞は軍勢を率いて上洛しますが、尊氏は細川和氏・顕氏の兄弟を派遣して鎌倉に入れ、関東諸国を掌握しました。
●南北朝の動乱
尊氏は建武中興に貢献したとして、後醍醐天皇から官位と多くの領地を与えられ、さらに天皇の諱の「尊治」から一字を賜り「尊氏」と改名しました。
しかし、この建武政権では足利家執事である高師直などを送り込み、弟・直義を鎌倉将軍府執権とするなどしましたが、尊氏自身は役職には就かず、政権と距離をおいていました。これは、尊氏が征夷大将軍の宣下を受け開幕するつもりであったからだと考えられています。
ところが、後醍醐天皇の皇子・護良親王が同じく征夷大将軍となることを望んでいたため、尊氏と対立します。護良親王は尊氏暗殺を試みますが、果たせませんでした。報復として尊氏は、後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子と結び、護良親王を捕縛して鎌倉の直義のもとに幽閉してしまいます。
建武2年(1335年)、信濃において北条時行(北条高時の遺児)を擁立した北条氏の残党が蜂起します(中先代の乱)。北条軍は鎌倉を攻撃、尊氏の弟・直義はこれと戦いますが敗北してしまいます。
このとき尊氏は北条氏討伐のための名目として、征夷大将軍の任官を後醍醐天皇に求めます。しかし後醍醐天皇がそれを拒否したため、尊氏は勅状を得ないまま鎌倉へ進発します。そのため、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の称を与えました。
相模川の戦いで時行を駆逐した尊氏は、建武政権による上洛の命令を拒み、そのまま鎌倉に本拠を置いて独自に恩賞を与え始めました。幕府設立の既成事実化を図ったのです。
さらに尊氏は、新田義貞と対立、これを「君側の奸」であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏しますが、後醍醐天皇は逆に、義貞に対して尊氏討伐を命じました。
こうして新田義貞は鎌倉へ向けて東海道を東下、さらに奥州にいた北畠顕家も南下を始めます。尊氏は建武政権に背く気はなかったため、赦免を求めて隠居を宣言します。
しかし新田・北畠軍の攻撃は鋭さを増し、直義、高師直など足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は京極高氏らの薦めもあって建武政権に反旗を翻す事を決意します。
尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破ると、京都奪回をめざして西上を開始します。さらにこの間、後醍醐天皇に退けられた持明院統の光厳上皇に通じ、逆賊の汚名を免れる工作をしています。
尊氏は京都占領をめぐる戦いで、北畠顕家・楠木正成・新田義貞に敗れます。新田義貞は西下する足利軍を追撃しますが、赤松円心の働きにより尊氏は虎口を脱し、九州に落ちびます。
尊氏は長門の少弐頼直、筑前の宗像氏範らの支援を受け、多々良浜の戦いで菊池武敏を破って九州を制圧します。
勢力を建て直した尊氏は、再び上洛を開始、光厳上皇の院宣を掲げ、西国の武士を傘下に収めました。
尊氏は湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破って京都を制圧、その後、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れました。やむなく和議に応じた後醍醐天皇は、光厳上皇の弟・光明天皇に皇位を譲ります。
こうして尊氏は建武式目を定めて武家政権の設立を宣言、一方の後醍醐は、三種の神器を持って京都を脱出すると吉野へ逃れ、自らが正等の天皇であると宣言して南朝を開きました。
こうして大覚寺統・後醍醐天皇の南朝と、尊氏が奉じる持明院統・光明天皇の北朝が対立する南北朝時代がはじまりました。
● 観応の擾乱
延元3・暦応元年(1338)、尊氏は光明天皇から正式に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。翌年には後醍醐天皇が吉野しますが、その死を悲しんだ尊氏は、慰霊のために天龍寺造営をはじめ、その資金調達のために元王朝に対して天龍寺船を派遣しました。
この頃から、尊氏の弟・直義と執事・高師直らの対立が表面化します(観応の擾乱)。尊氏は当初傍観者的立場を取りますが、師直派にかつがれる形となって弟・直義と対立することになりました。
正平4年・貞和5年(1349)、師直軍の襲撃を受けた直義が、尊氏の邸に逃げ込み、さらに師直が尊氏邸を包囲するという事件が発生します。この事件は、直義の出家により解決し、直義は政務を退くことになりました。
その後、尊氏は直義のかわりに嫡男・義詮を鎌倉より呼び戻して政務を担当させ、鎌倉には次男・基氏を下して鎌倉府を設置、関東を慰撫します。
ところがこの後、直義の猶子・直冬(尊氏の庶子)が中国地方で反乱を起こします。正平5年・観応元年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために遠征しますが、この隙に直義が京都を脱出、南朝方に付いてしまいます。
直義軍は有力武将を味方につけて強大になり、義詮はその勢いに押されて京を追われることになります。軍を返した尊氏も摂津国で直義に敗れたため、正平6年・観応2年(1351)、尊氏は高師直らの出家を条件に直義と和睦しました。高師直らは、護送中に謀殺されてしまいます。
こうして発言力を増した直義に対して危機感を覚えた尊氏・義詮は、京極高氏のすすめもあって一計を案じます。その計略というのは、京極高氏が謀反を起こし、その征伐のために尊氏・義詮が出陣して京を脱出、南朝方と和睦して南朝を味方につける、というもので、これは尊氏が南朝に降伏するかたちで実現、元号を南朝のものに統一し、北朝方の崇光天皇は退位して上皇となりました(正平の一統)。
尊氏のこの動きに危機を感じた直義は京都を脱出、尊氏はこれを追撃して駿河、相模などで戦って破ります。捉えられた直義は鎌倉に幽閉され、正平7年・観応3年(1352)に急死する。尊氏による毒殺と言われています。
しかしこの同年、尊氏の留守を狙って南朝の軍が京都を制圧し、守備していた義詮は追い出されてしまいます。南朝は北朝方上皇を奪って幽閉、正平の一統が破綻してしまいます。
尊氏は、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)や新田義興・義宗(義貞の子)、さらに北条時行などの南朝方を武蔵国各地で撃破して関東を制圧、東上して京都を奪回します。
その後、足利直冬が南朝に通じて京都へ侵攻しますが、結局・直冬は九州へ去ります。正平9年・文和3年(1354)、南朝軍はふたたび京都を制圧しますが、翌年には尊氏が奪還しました。
尊氏は自ら直冬討伐を宣言しますが、それを果たさないまま正平13年・延文3年(1358)、京都二条万里小路邸で死去しました。死因は、背中に出来た悪性の腫物のためと記録されています。
なお、一般的に知られている尊氏を描いたとされる騎馬武者像(神奈川県立歴史博物館所蔵)は、実際には尊氏ではなく高師直、或いはその息子の高師詮を描いたという説があり、現在では尊氏を描いたものではないとされています。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1/
応仁の乱(おうにんのらん) [ 日本大百科全書(小学館) ] (全3件)
1467年(応仁1)〜1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)(山名宗全(そうぜん))とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明(ぶんめい)の乱ともいう。
応仁の乱の両軍勢力分布
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応仁の乱
乱の原因
乱の経過
乱の結果
1. 乱の原因
室町幕府は基本的には、守護領国制を基盤とする有力守護大名の連合政権的性格をもつが、将軍権力も奉行人(ぶぎょうにん)、奉公衆(ほうこうしゅう)など独自の権力基盤をもち、有力守護の勢力均衡のうえに幕政を展開していた。将軍親裁権を最高度に発揮した将軍義満(よしみつ)の代を過ぎると、幕政は主として三管領(さんかんれい)、四職(ししき)家を中心とする有力守護大名で構成される重臣会議が政務議決機関として機能していたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)を経過すると、大名間の均衡が大きく崩れてきた。1433年(永享5)に斯波義淳(しばよしあつ)が死去するや、将軍義教(よしのり)が家督相続に介入、一族の内紛を誘発させて同氏を弱体化し、嘉吉の乱によって赤松氏も没落。1454年(享徳3)には畠山(はたけやま)氏も当主持国(もちくに)の家督継承権をめぐって内紛が起こった。すなわち、幕政に参与しうる有力大名家が淘汰(とうた)された結果、重臣会議の機能は麻痺(まひ)するに至ったのである。ここにおいて将軍の生母日野重子(ひのしげこ)や、乳人(めのと)今参局(いままいりのつぼね)など側近の女性が幕政に容喙(ようかい)する現象を生じ、今参局が処刑されてのちは、政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(いせさだちか)や相国寺(しょうこくじ)蔭凉軒主(いんりょうけんしゅ)季瓊真蘂(きけいしんずい)ら守護家でない側近勢力が台頭して、幕政は混乱状態に陥った。加うるに、1441年(嘉吉1)以来数年ごとに徳政一揆(とくせいいっき)が頻発して、幕府の財政基盤である土倉(どそう)、酒屋などの経営に打撃を与えた。地方では関東の幕府離脱、戦乱長期化や、国人(こくじん)層による幕府直轄領、五山禅院領を含む荘園(しょうえん)押領が相次ぎ、幕府の財政基盤も不安定の度を加えていったのである。このような状況のなかで、山名氏は嘉吉の乱によって赤松氏の遺領を継承して、山陰山陽にわたる7か国の分国をもつ有力守護に成長し、細川氏もまた畿内(きない)、四国、山陽に8か国の分国を、一族の内紛もなく無傷に維持し、この両守護家が、瀬戸内制海権を両分する形で幕政の主導権を争う形勢となった。この両勢力の領袖(りょうしゅう)は、赤入道とよばれた前侍所頭人(さむらいどころとうにん)の山名持豊と、管領細川勝元である。
前記のような幕政の動向、有力守護の勢力関係を背景とはしつつも、乱勃発(ぼっぱつ)の直接的原因は別のところにあった。侍所頭人とともに京都を軍事的に押さえる要職であった山城(やましろ)守護職は、1449年(宝徳1)以来、畠山氏が兼務していたが、1450年畠山持国は、実子の義就(よしなり)に所領を譲り、養子の政長との間に対立が生まれた。政長は細川勝元を頼り、その結果1460年(寛正1)に義就は幕府を追放され、追討を受ける身となり、大和(やまと)に亡命した。そのためその後畠山氏の家督と山城守護を継承した政長に対し、義就は激しい敵意をもち、家督と山城守護奪回の機をねらっていたのである。この畠山氏内訌(ないこう)に、細川勝元は終始政長を支持し、山名持豊も当初は勝元に従ってはいたが、幕軍を相手に孤軍奮戦する義就の軍事的才幹に注目し、ついには義就派に回ることになる。乱の直接的契機としては、ほかに斯波義廉(しばよしかど)・義敏(よしとし)の対立、実子義尚(よしひさ)の誕生による将軍義政(よしまさ)と跡目義視(よしみ)の反目があるが、乱の経過からみてさして重要な意味はもたない。両軍対立の基本はあくまで畠山義就・政長の争いと、それに加担する山名、細川らの有力守護家の角逐である。
2. 乱の経過
1466年(文正1)9月、将軍義政は伊勢貞親、季瓊真蘂らの意見具申に基づいて、斯波家の家督を義廉から義敏に更迭し、あわせて足利義視を暗殺しようとして諸大名を刺激した。義廉派の持豊、義視派の勝元は分国の軍勢を京都に集中し、貞親、真蘂は近江(おうみ)(滋賀県)に逃亡した。これが文正(ぶんしょう)の政変とよばれる事件で、義政の側近政治は崩壊し、幕閣は勝元、持豊が激しく対立抗争する主導権争いの場と化した。京都への兵力集中は持豊派のほうが迅速で、同年末には驍将(ぎょうしょう)畠山義就の大軍が大和から入京するに至り、持豊は義政に強請して斯波義廉を越前(えちぜん)、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)3国の守護職に還補せしめ、1467年(応仁1)1月には義就が畠山氏の家督に返り咲いた。このため窮地に陥った政長は同月18日、山城上御霊(かみごりょう)において義就軍に挑戦、ここに前後10年に及ぶ戦乱の火ぶたが切られた。しかし、緒戦に立ち遅れた政長はあえなく敗走し、持豊派は完全に幕府を掌握した。勝元は、戦勝気分に油断している持豊派のすきを縫って地方で反撃に転じ、分国軍勢を入京させる一方、赤松政則(あかまつまさのり)に播磨(はりま)、備前(びぜん)、美作(みまさか)3国を衝(つ)かしめて山名氏を牽制(けんせい)、また斯波義敏には越前(えちぜん)を、武田信賢(たけだのぶかた)には若狭(わかさ)を、土岐政康(ときまさやす)には伊勢と持豊派守護の分国に侵入させ、同年5月には幕府奉公衆の援助を得て花の御所を占拠することに成功した。この将軍邸占拠で勝元は緒戦の不利を取り戻し、やむなく持豊方は堀川(ほりかわ)の西に陣を構えた。以後、勝元一派を東軍、持豊派を西軍と称することとなった。東軍に参加した守護は細川氏、畠山政長、武田信賢、京極持清(きょうごくもちきよ)、赤松政則、富樫政親(とがしまさちか)、斯波義敏らで、西軍は山名氏、畠山義就・義統(よしむね)、斯波義廉、六角高頼(ろっかくたかより)、一色義直(いっしきよしただ)、土岐成頼(しげより)、河野通春(こうのみちはる)、大内政弘(おおうちまさひろ)という面々で、九州と信濃(しなの)(長野県)以東の大名は加わっていない。東軍は将軍を擁する有利な立場から、西軍諸大名の守護職を逐次剥奪(はくだつ)し、自派の一族や大名に補任(ぶにん)したが、西軍大名も実力をもって新任守護に抵抗し、戦況は長期化、膠着(こうちゃく)状態の様相となった。
1467年(応仁1)5月26日、京都市街戦が決行される。東軍が一色義直邸を包囲して戦火が拡大し、一時は勝元側が優勢にみえたが、同年秋に山名、大内の大軍が入京したため西側が盛り返し、西軍は将軍邸、相国寺など洛中(らくちゅう)の要所を占拠して東軍を洛外へ追い払った。なかんずく畠山義就軍は東寺から西岡(にしおか)一帯を占拠し、自ら「山城守護」と称して乱終息時まで10年近く洛南地方を実力で支配した。1468年には洛外の主要社寺もほとんど兵火にみまわれた。これらは「足軽(あしがる)」「疾走(しっそう)の徒」とよばれる傭兵(ようへい)集団の活動によるもので、東軍では侍所(さむらいどころ)所司代(しょしだい)多賀高忠(たがたかただ)の配下骨皮道賢(ほねかわどうけん)、西軍では山城土豪御厨子(みずし)某といった人々が彼らを差配した。この内乱は、傭兵集団が主要戦力を構成した最初の大規模な戦乱であるといわれる。東軍16万、西軍11万という『応仁記』の両軍の動員兵力には誇張があるとしても、各荘園、郷村からは荘官、在地土豪層を中心に騎馬、半甲冑(はんかっちゅう)、人夫で構成される兵団が徴発され、さらに京都周辺では京中悪党、疾走の徒など足軽傭兵が補充された。後者の活躍が目だったのは、地方の農民軍隊では長期の在京が困難だったからである。
3年目を経過すると、戦局の中心は地方に移ったが、1471年(文明3)、越前守護代朝倉孝景(あさくらたかかげ)の幕府帰参は東軍の優勢を決定づけ、1473年に両軍の総帥持豊と勝元が相次いで死去すると、両軍首脳には厭戦(えんせん)気分がみなぎった。ことに山名氏惣領(そうりょう)の政豊が東陣に帰参し、幕府から山城守護に補任されるに及んで、細川、山名両氏の対立という初期の構図はまったく色あせ、本来の立役者政長・義就の両畠山氏が両軍を代表した形で徹底抗戦を叫ぶ状況に変化したのである。かくして1477年(文明9)9月、畠山義就が長期にわたり占領していた山城を退去し、同年11月に大内政弘、土岐成頼らが分国に引き上げることにより、京都を中心とする戦乱はようやく収束にこぎ着けた。政弘、成頼らは乱前に保持していた守護職を還補されたが、義就のみはついに赦免されず、実力で地盤を構築するほか存立の道をとざされたため、奮迅の勢いで河内(かわち)の政長軍攻撃に乗り出す。したがって、河内、大和、南山城ではなお戦火が続行、拡大し、義就は同年中には完全に河内を制圧、大和を勢力下に収めて、1482年(文明14)には南山城に侵入、翌年には宇治川以南を実力占拠し、やがて山城国一揆を引き起こす。
3. 乱の結果
応仁の乱をこのように義就、政長の抗争を軸としてみると、真に大乱が終息するのは1485年(文明17)の山城国一揆成立であり、畿内(きない)の農民、土豪の自立、成長が、無意味な守護大名の抗争に終止符を打ったという評価もできよう。以後、大乱に参加した諸大名は、幕府の権威による分国支配が困難となり、実力による領国統治権の確保の必要性に迫られることになった。また幕府の実質的支配領域、すなわち幕府の威令の届く範囲も漸次縮小され、1487年(長享1)の六角征伐、1493年(明応2)の河内出陣を通じて幕府の動員兵力は畿内近国の守護軍と奉公衆に限られるようになり、幕府の裁判権行使も畿内に限定されてくる。このように事実上、畿内政権と化した室町幕府を、実力で押さえるようになるのが細川氏であった。同氏は他の大名と異なって、家督紛争を起こさず族的結合を維持し、乱中乱後を通じて首脳部が京都に常駐し、1493年4月の政変で将軍の廃立を強行し、政敵畠山政長を暗殺してからは完全に幕閣の主導権を掌握した。細川氏が畿内において戦国大名化の道を踏み出したこの年を、戦国時代の始まりとする説が有力である。政所執事、侍所開闔(かいこう)、右筆方(ゆうひつかた)など幕府の諸機構は、事実上、細川氏の行政機関化するに至る。
地方では荘園制の解体が決定的となり、守護代層や有力国人が台頭し、彼らのうちには自ら戦国大名化する者も出現した。荘園制と在地領主制を基軸とする中世国家の枠組みが最終的に崩壊するのも、この乱の重要な結果である。したがって、日本の歴史を二分する大きな時代転換の契機をこの大乱に求める説が有力である。一方、戦争による混乱にもかかわらず、義政の浄土寺山荘を中心に東山(ひがしやま)文化という公家(くげ)、武家、禅の融合による新しい思潮、芸術が発生し、戦乱を地方に避けた僧侶(そうりょ)や公卿(くぎょう)たちによってそれが地方に伝播(でんぱ)された。この文化は、庶民の生活様式のなかに定着するという重要な一面をもち、近世庶民文化の源流をなす意義をもつ。また、戦火を免れた奈良は京都に次ぐ大都市として発展し、一条教房(いちじょうのりふさ)が乱を避けた土佐(とさ)中村や、京の禅僧が多く流寓(りゅうぐう)した周防(すおう)山口、出雲(いずも)富田(とだ)は、戦国大名の庇護(ひご)とも相まって、西国における新興都市として文化の中心地となっていった。
[ 執筆者:今谷 明 ]
ぎゃく‐ぞく【逆賊】
主君に背く者。謀反をなす者。
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