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〔転載開始〕
支持率低下怖かった
新首相で信頼回復を
政権交代で国民の期待を一手に引き受けて発足したはずの鳩山政権が、8カ月余りの短命に終わってから約10日。なぜ辞任の決断をしたのか。鳩山由紀夫・前首相が政権運営で「政治とカネ」や支持率低迷に苦しみ、普天間問題の対応が稚拙だったことなど、その胸の内を明かした。(聞き手 編集委員・薬師寺克行)
──唐突な辞任でした。なぜ、辞める決断をしたのですか。
「1993年に自民党を離党した時から、政治とカネの問題についてクリーンであることを大切にしてきた。それが私の原点だった。だから首相になって高い支持率を得ても、秘書による政治資金収支報告書の虚偽記載や母親からの資金提供の問題はずっと心に重くのしかかり、ある種の罪の意識を持っていた。一方で新政権に対する国民の高い支持があったので、これにこたえなlければならないとも思っていた」
「その後、私の問題は不起訴になったが、国民からすれば母親から毎月1500万円ももらっていて、それを知らないというのは信じられない話だ。自分たちとは全く違う次元の生活をしている人間に国政を任せられるか、と思っただろう。政策でいくら正しいと思ったことを打ち出しても、国民は聞く耳を持たなくなってしまったので、いずれは辞めざるを得なくなると思っていた。辞任のタイミングが普天間問題の決着と重なったが、それが主な遅由ではない。政治とカネの問題で身の振り方を決めたのだ」
──かなり前から辞任を覚悟していたということですか。
「政治資金問題を抱えていたので、政権発足当初からどこまでやれるだろうかと考えていた。昨年12月ごろ、内閣支持率が5割前後になり、低下に歯止めがかからなくなった。最高で7割もあった支持率が半分に、そして3分の1に落ちる。考えられないような話だ。だからずっと辞めることを考えていた。その場合は幹事長の小沢一郎さんと一緒に辞めるつもりだった。ただ、最終的に決断したのは辞意表明の1週間か10日ぐらい前だ」
──辞任の時期は参院選を意識したのですか。
「参院選の直前に打閣支持率や政党支持率が下がると立候補予定者に迷惑をかける。それは避けなくてはならない。私が辞めることで党を生かすことができるのであれば、辞めるべきだ、と。私は政権交代に対する国民の期待のエネルギー、自民党政治や官傲主導に対する国民の辟易(へきえき)は消えていないと思っていた。よりクリーンな人が首相になれば、国民は必ず聞く耳を持ってくれると信じていた」
──ずいぶん世論調査の数字を気にしていたのですね。
「世論調査で支持率が下がる。メディアはそれを踏まえて政権を批判する。さらに支持率が下がる。こういう負のスパイラルが起きた。この怖さをいやというほど、感じた」
──国民が首相のリーダーシップや政策の混乱に不安を感じた面もあるのではないですか。
「予算は早く成立し、子ども手当、高校授業料の無償化などを実施した。コンクリートから人への転換もできた。外交では普天間はいろいろあったが、日中、日韓、東アジア共同体構想の提案などうまくやったと思う。しかし、政策の実現と支持率は相関していない。とても冷たい数字だと思った。政策をしっかりやっていれば」国民が必ずいつかわかってくれて反転攻勢できるという自信を持てなくなり、ある種のむなしさを感じていたことも事実だ」
──あれほど巨額なお金を受け取っていたことを知らなかったという説明は、理解しにくい。
「経費の扱いはすべて秘書に任せていた。だから、いくら入り、いくら出ているかについては本当に全く知らなかった」
■ ■
──辞任表明直前に小沢幹事長と3度にわたって会談しました。どんな話をしたのですか。
「普天間問題についての日米合意を発表する前日の5月27日、小沢さんに首相公邸に来てもらった。この時は普天間問題と社民党への対応が中心で、『今は日米合意が最優先されるべきだ。社民党党首の福島瑞穂さんには閣僚を続けていただくよう慰留したが楽観できない』と話した。小沢さんは『社民党が連立を離脱しても、連立にとどまっても政権にとって難しい状況に変わりない』と言っていた。この時は辞任の話はしておらず、『追って、相談させていただきたい』と話した」
「5月31日の会談は、小沢さんのほか参院議員会長の輿石東さんもいた。時間が短かったので、私から『首相を辞任したい。今日は時間がないので、明日、詳細を打ち合わせしたい』と述べるにとどめた。そして、『だれにも一切、話さないでほしい』とお願いした。この時は小沢さんの辞任については触れていない」
「翌6月1日の会談では、辞意表明の日程について『4日の衆院本会議で普天間問題について説明する予定があるので、その場でこの問題について自分の決意を述べるとともに、首相を辞めることを表明しようと思う」と話した。しかし、小沢さんは 「そこまで覚悟しているのであれば表明は早い方がいい。日がたつとこういう話は必ず漏れてしまう』と。それで私は翌2日に記者会見でなく、両院議員総会で表明することにした。
そして、小沢さんに『恐縮だが、一緒に身を引いてほしい』とお願いした。小沢さんは『わかった。自分も辞めると覚悟を決めている』と話した」
── 一緒に辞めることを提起したのは、鳩山さんですか、小沢さんですか。
「私が一緒に辞めてほしいと言った。しかし、小沢さんが同じことを考えていたことはわかった。どちらが先かということはあまり意味のないことだと思う」
──1日の会談後、親指を立てて見せましたね。あのポーズはどんな意味だったのですか。
「カムフラージュだよ。翌日朝刊に私が辞めるということが報道されないため、自分の心を隠すためにあえてやった。同時に自分 の態度を決めたという意昧でもあった。あれを見て辞めると思う人はいないでしょう」
普天間稚拙だった
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──普天間飛行場の移設問題は昨年末に現行案での決着は考えていなかったのですか。
「昨年末ごろの日米間の協議で、自民党政権では実現しなかった環境特別協定の締結や、沖縄本島東部沖の海域に設定されていたホテル・ホテル訓練区域の使用制限の一部解除など、沖縄の負担軽減につながる前向きな変化が見えた。それなら現行案で乗り切れるかもしれないと考えた時期があったことは事実だ。しかし、私は『最低でも県外』と言っていた。
辺野古への移設はどうしても、すとんと落ちなかった。そこに徳之島案が浮上してきた。島の活性化に役立つから受け入れてもいいという関係者の声も間接的に届いていた。ならばより幅広く考えてみようと思って、先送りを決めた」
──社民党との連立維持が延期の理由ではなかったのですか。
「違います。小沢さんが反対したためではないかとも言われたが、小沢さんはいつも『政府が決めることだ。自分は一切口出ししない。任せる』と言っていた」
──徳之島への移設は過去に日米間で検討されて消えた話ですが、そういうことも踏まえた判断だったのですか。
「この話は基本的には牧野聖修議員らの情報だった。過去に一度検討していたという話は入っていなかった。しかし、そうであっても当時とは状況も違うだろう。この案の検討に官僚は使わなかった。できる限り水面下で進めたかった。確かにやり方は稚拙だったかもしれない。もっと正面から情報を集めて、なぜ徳之島なのか冷静な議論をしていたら、とも思う」
──米国との協議も重要だと思いますが、3月あたりまでほとんど進んでいませんでした。
「年が明けると、国会の予算審議に時間を取られ、じっくり普天間問題に集中できなかった。5月末が期限だと言っていながら、本格的に動くことができるようになったのは3月24日に予算が成立してからだった。ところが、そのころにはすでに沖縄も徳之島も反対一色になっていた」
──そもそもなぜ、期限を5月末にしたのですか。
「普天間飛行場の危険性除去を考えると、1年も2年も先延ばしはできない。米国は昨年12月の決着を求めていたのだから、延ばしてもせいぜい半年間だろうと思った。それに参院選がある。そうすると5月未が限度になる」
──だが紆余曲折の末、辺野古に戻ってしまいました。
「米側は徳之島に強く反対した。海兵隊の一部を遠くに移せば抑止力や機能の低下につながるという。海兵隊はトータルなパッケージとして機能させる必要があるので、一部を切り離すことはできない。すべてを沖縄から移すか、すべてを残すかしかないと主張した。海兵隊の運用の仕方などは反論しようがない。結局、二者択一になってしまい、すでにアセスメントを実施している辺野古を中心に考えるしかなくなった」
──両院議員総会では日米安保について「米国に依存し続ける安全保障をこれから50年、100年続けて良いとは思わない」と発言しました。
「日本の防衛を米軍という他国に依存していることが未来永劫続くのは、国のあり方としては望ましくないと考えていたためです。もちろん今、自衛隊だけで日本を守ることはできない。米軍には感謝すべきだと思う。しかし、いつまでも依存していてはだめだ。最終的に移設先を辺野古にしたが、県外、海外という道を追求し続けるべきだと思っている」
──政権交代で、自民党政権時代とは異なる統治システムのあり方を追求しましたが。
「国民が参加する政治システムを作りたかった。そのために政治家が官僚に代わって政策を決める。各省の政務三役にもっと力を与える。閣僚委員会を作って事務次官会議がやっていたようなことを閣僚で決めるようにした。事業仕分けもやった。一方、官邸の権限を強化し、霞が関の縦割りをなくすため、国家戦略局や行政刷新会議の法定化、官邸に人事権を集中させる法案などを出したがこれらは成立しなかった。マネジメント作りは未完成のままだ」
──政治家と官僚の関係は必ずしもうまくいっていなかった。
「これは反省する必要がある。政治主導というのは意思決定の最終的責任を政治が負うことであって、何でもかんでも官僚を排除することではない。それは政治主導のはき違えだ。
「ぶら下がり」不本意
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──1日に2回のいわゆる「ぶら下がり取材」で首相の発言が混乱を招いた面がありました。
「小泉純一郎首相は簡潔に発言して、ぶら下がりをうまく使った。私は丁寧に質問に答えたため、同じような質問に対して少しずつ言うことが変わったと言われ、本質ではないところで発言がぶれたと批判された。また、その時々の国民の関心に話が集中し、一部が切り取られて報じられることもあった。その結果、本意ではないことが伝えられた」
「ぶら下がり取材については、何度もやめるように秘書官らに指示したが、大変大きな抵抗にあって実現できなかった。官邸では官房長官が毎日会見している。そのうえに首相がぶら下がりをする。これはあるべき姿ではない。やるならば会見を定例的にやり、それも記者クラブの中ではなくオープンに開くべきだと考えていた」
──ならば、最後に辞任の記者会見をすべきだった。
「私は両院議員総会ですべてを申し上げたつもりだ。これ以上、自分の意思表示の必要があるとは思わなかった。それに、あのとき会見すると、小沢さんとの会談などに質問の焦点が集まり、両院議員総会で私が言いたかった部分は消えてしまうと思った」
──ところで、鳩山さんが最近ツイッターに「私に続いて裸踊りをしようと立ち上がって下さった皆さん、有り難う」と書き込んだため、ネット上で「裸踊りって何だ?」と大騒ぎになっています。
「あれは13日に『新しい公共』をみんなで担おうという若者の集会があったので、その人たちへのメッセージ。上半身裸の男性が1人で踊り出したところ、他の人が次々とまねて全員が踊り出したという有名な映像があり、そこからとった表現です。最初はみんながついてこなくても、大事なことは理解され、やがて大きな流れになっていくという意味です」
──これからどうするのですか。
「首相経験者は、辞めた後に長く影響力を持つべきではない。その弊害も見てきた。次の総選挙には出ないと言ったが(直ちに議員を辞めるわけではなく、任期途中で投げ出すことはしない。議員バッジの有無にかかわらずやりたいのは国際関係だ。領土問題を抱えている日口関係、それから日中韓を中心に東アジア共同体にも取り組みたい。求められればこうした外交問題に引き続き身を投じていきたい」
〔転載終了〕
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