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【世に倦む日々】よりhttp://critic6.blog63.fc2.com/?no=319
民主党の消費税増税策を支持する場合の一般観念として、次のようなものがある。すなわち、右肩上がりの経済成長などというものは、今後の日本ではもう望めず、少子高齢化が進行する社会では、現役世代の負担がきわめて大きくなり、国民は必要な社会保障のために高負担をするのが当然で、消費税増税には積極的に応じるべきだ。テレビの論者からこう言われたとき、否と首を横に振る者はいない。多くの者がこの命題を真として受け入れている。このテーゼは、日本において圧倒的な説得力と信憑性をもって個々に迫り、特に若い世代の意識を制圧(洗脳)している。あと少しして、消費税増税が菅直人と官僚とマスコミの思惑どおり実現したあかつきには、次は上の命題の「消費税増税」のところが、「外国人移民」に置き換わるだろう。新自由主義の政策課題が次々と入り、テレビで国民を折伏し、マスコミの世論調査で多数意見に押し固め、反対の声を駆逐し、その政策を実現してゆくに違いない。しかし、この命題は本当に真なのか。無批判に肯首しなければならない絶対命題なのか。私は、この命題には前提に疑うべき問題が潜んでいると思う。フィクションとトリックがある。それは何か。端的に言って、今、われわれが極端な右肩下がりの経済的現実の中にいるという事実が意図的に捨象されている。ナイアガラ・フォールズのような急降下の経済的現実にあるという前提が隠蔽されている。この命題は、右肩下がりの現実を、恰も平衡しているように共同幻想する錯覚を巧妙に利用したイデオロギーだ。
具体的に数字で反論を試みよう。最も有効な反論材料は、国民一人あたりのGDP値の推移である。資料によれば、日本の順位は次のように変動している。88年−3位、89年−3位、90年−8位、91年−4位、92年−4位、93年−2位、94年−3位、95年−3位、96年−3位、97年−4位、98年−6位、99年−4位、00年−3位、01年−5位、02年−7位、03年−9位、04年−12位、05年−15位、06年−18位、07年−19位、08年−23位。世界の中でも、これだけ経済が急落している国は他にない。GDPが伸びてないのだ。90年代後半から2000年代の初めにかけ、世界経済が順調に拡大する中で日本経済はマイナス成長を続け、97年のピーク値を回復できないまま08年の世界金融危機を迎えている。この現状をわかりやすく図示しているサイトがある。GDPデフレーターの推移を示すグラフが象徴的だ。われわれは急降下するエレベーターに乗っているのと同じで、外から見れば急降下しているのだが、エレベーターの中にいると、その現実を知覚することがなく、これが常態だと錯覚するのである。エレベーターに乗っている者同士が、右肩上がりの経済成長はもう無理だと言い、社会保障のための高負担は当然だと言い合っているのである。自分たちが異常な凋落状態の中にいる真実を認識していない。すなわち、問題は、他の国は一般的な成長を達成しているのに、なぜ日本だけが没落しているのか、何が日本の順調な成長を阻んでいるのかという構造的要因を究明することである。そして、その要因を取り除くことだ。
この間に日本経済で起きたこと、変わったことと言えば、何と言っても、構造改革で新自由主義の労働法制と資本法制が導入され、経済社会が新自由主義化されたという総括に尽きる。格差社会となり、正規の労働者が非正規となり、賃金が激減し、収入が減り、中産階級が没落して、年収300万円以下の貧困世帯が全体の30%を占める惨状となった。ほんの15年前、20年前までは、日本は世界に名だたる一億総中流の王国だったのである。その結果、国民の購買力が失われ、消費が抑制され、内需(民間消費支出)が冷え込み、景気全体が落ち込み、それが疾患として構造的に固定づけられる経済となった。民間に購買力がなければ消費は活発化しない。店はできない。モノは売れない。売れないから作らない。作れない。この15年間の日本経済の異常な低迷と凋落は、所得と消費の縮小によって説明づけられる。労働者の給料と中小企業の収益が切り下げられたことが原因で、それによる総需要の減少と総生産の減少の運動が続き、負のスパイラルにブレーキがかからないのだ。労賃と中小企業の収益が削減された分は、大企業の増益となって蓄積され、膨大な内部留保となった。内部留保は経済を活発化させない。せいぜい、少数富裕層への株式の配当や売却利益にしかならない。この循環を断ち切り、逆回転させて拡大循環にするには、構造を転換するしかなく、労働者と中小企業に所得が入るようにしなくてはならない。日本に中産階級を復活させなくてはならない。つまり、池田勇人的でケインズ的な高度経済成長を復活させなくてはならない。
内部留保と富裕層に流れ込む冨の経路を遮断し、それを労働者と中小企業と地方経済に流し込むことである。もしも、もしも日本人に能力があり、国民一人当たりのGDPでフランスや英国や米国を追い抜いていいはずだと思うのなら、10年前の水準が普通で当然じゃないかと思うのなら、少なくとも、現在の1.3倍の価値(冨)を生産していなくてはいけないことになる。06年の実績をベースとするなら、国民一人当たり3万4千ドルの生産額を米国並みの4万3千ドルに引き上げなくてはいけない。米国人並みに4万3千ドルを生産して当然なのである。このことは、逆もまた真で、われわれの生活水準が、10年前に比べて80%以下に落ちて貧しくなっている真実を鏡のように映し出している。つまり、国民一人当たりのGDPで米国並みの世界第7位に位置につけようとすれば、GDP(国民総生産)は547兆円ではなく、1.3倍の711兆円でなくてはならないのだ。711兆円のGDP規模の生産をしているとき、日本人は普通の暮らしを送り、普通の「中福祉」の社会保障を得られるのである。貧困問題はなく、湯浅誠の出番はないのだ。国民新党の亀井静香などの主張は、基本的にはこの経済認識と経済政策に他ならない。GDPが小さすぎるのだ。経済が拡大してないどころか、逆に萎縮しているのであり、世界の中で例外的に萎縮ばかりの経済を続けているのだ。結論として言えば、日本国民は711兆円の経済規模(GDP)を速やかに達成しなくてはいけない。それは、言い換えれば、「高度経済成長」と言うしかないではないか。「右肩上がりの経済成長」と言う以外の言葉があるのか。
この経済認識の問題に関連して、また、菅直人と神野直彦の「第三の道」のレトリックの欺瞞性とも関連するが、民主党や現在のマスコミ一般による、60年代から70年代の高度成長に対する、悪辣なネガティブ・イメージの糊塗と演出がある。現在、異常なほど「高度成長」の政策を嫌悪し敵視するプロパガンダがシャワーされている。高度成長の日本を田中角栄と二重映しに重ね、さらにそれを小沢一郎の悪のイメージに重ね、小沢一郎を叩き、田中角栄を貶し、高度成長期の日本を丸ごと否定するという論理で印象操作が行われている。政治的な思惑で「高度成長」の歴史像が失墜させられ、消費税負担の正当化が説得され誘導されている。小沢一郎と田中角栄と高度成長が三位一体の悪性表象にされて攻撃されている。それは、農村や地方を敵視する都会人の新自由主義的な視線でもある。俺たちの税金を吸い取られているという、新自由主義に植え付けられた被害者意識の不満である。このとき、なぜ日本人を幸福にしたはずの高度成長が悪性表象に転化されるかと言えば、91年のバブル崩壊があり、バブル崩壊後の日本人一般の長い痛みの現実があり、バブルとバブル崩壊に至った元兇が、高度成長にあるかの如き説明と観念が定着しているからである。つまり、バブルとバブル崩壊という不幸と厄災をもたらした犯人が、田中角栄と高度成長だとスリカエられて指弾されている。無論、この認識は誤りである。バブル経済をもたらした主犯は、実は中曽根康弘の新自由主義政策にある。中曽根康弘による規制緩和と金融自由化、そして長期の超金融緩和策により、国内で余ったカネが土地と株の投機に向かった。
それがバブル経済であり、投機の結果である巨額の不良債権が残ったのがバブル崩壊後の後遺症である。バブルとバブル経済を悪性表象として扱うときは、誰よりも中曽根康弘が名指しされなくてはいけないし、中曽根康弘の新自由主義政策こそが、バブル発生の根幹要因だとされなくてはいけない。ところが、こうした現代経済史の一般認識が、今の民主党支持者にはなく、消費税増税賛成派にはない。公共投資や高度成長に対して、ネガティブな評価と印象だけで凝り固まっている。バブル崩壊とその後の停滞という経済の失敗が、それとは無縁の田中角栄と公共事業に原因づけられる世論操作が行われている。まさに冤罪。若い世代の日本人は、基本的に自分たちを被害者だと思っている。それは間違いではないが、被害者意識を持つ場合は、犯罪事実を正確に認識することが必要で、犯人を間違ってはいけない。実のところ、同じような「説明」は、竹中平蔵とその時代の新自由主義者によっても与えられていた。昔の自民党の高度成長政策が槍玉に上げられ、財政が厳しいからバラマキの社会保障はできないと言われ、今後は国民が負担をする時代なのだと説教された。小泉・竹中の時代が終わり、ようやく日本も構造改革の悪夢から抜け出したかと思っていたが、簡単にその復活を許してしまう局面となった。新自由主義というのは、労賃を切り下げて企業の利潤に奪い取るため、消費を拡大させて経済成長させることができないのである。一般国民にとっては、我慢と耐乏の生活が基調となり、負担増を生活の切り詰めで凌ぐ処世が常態となる。そうした心構えを前向きに観念づけさせるため、イデオローグたちは、「もう昔のような右肩上がりの経済成長はない」の言説を連呼するのだ。
太平洋戦争中の「欲しがりません、勝つまでは」のプロパガンダと同じである。6/11の施政方針演説の中の「第三の道」論でも、「公共事業中心の経済政策」が「第一の道」とされ、政策上の悪役にされている。本家のブレアの唱えた「第三の道」論では、「第一の道」は「福祉国家」だったが、日本では「福祉国家」の経験や段階はなく、また、「福祉国家」を悪役に据えるという政治言説の論理設定ができず、結局、60年代から70年代の経済政策が悪役に措定された。尤も、以前の記事で指摘したとおり、菅直人の知恵袋の神野直彦は、「第一の道」について、「重化学工業を機軸とする産業構造を基盤とした福祉国家」だと規定していて、ギデンズ=ブレアの本家の理論をモディファイしてアクロバティックに基礎づけている。結局、ブレアから神野直彦への修正を経て、「福祉国家」を批判対象にしない菅直人の理論に転がった。神野直彦の「第三の道」は、きわめて牽強付会的だが、菅直人の「第三の道」も負けず劣らずである。要するに、適当に言葉の上っ面のコピーだけを借用したレトリックの政治言説にすぎず、政策科学の概念としての中身は何もない。菅直人は政治家だから、こうした(中身のないレトリックの)方法も多少は許されると思うが、学者である神野直彦の「第三の道」論は支離滅裂だと非難せざるを得ない。神野直彦が4年前の著作で「福祉国家」を悪者にできたのは、竹中平蔵ら構造改革勢力が、70年代以前の日本を「福祉国家」の表象で捉え、それを批判し、その批判が社会的に有効だったからだ。つまり、当時は新自由主義が社会の常識であり、社会の支配的イデオロギーだったからである。
その後、新自由主義への批判が高まり、北欧モデルが浮上するとともに、「福祉国家」は理念的な言葉になり、積極的な表象を帯びるように変わった。政府の公共事業は「第一の道」として否定されているが、クリーンエネルギーへの転換や電気自動車の普及や農業の再建を本格的に実行するとき、政府の公共事業なしでできると思っているのだろうか。
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