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96年9月、菅直人は「排除の論理」の政変で、さきがけの老幹部を新党から締め出す冷酷な仕打ちを断行する。若い菅直人を厚生大臣に抜擢した武村正義は、裏切られ、丸裸にされて惨めに政界引退へと追い込まれた。菅直人は、今度は小沢一郎を第二の武村正義にして、リンチを加えて屠る気だ。
民主党が悲願の政権交代を果たした原動力は、4年前からの小沢一郎の「国民の生活が第一」の政策転換と、小沢一郎が導入した(支持団体整備とドブ板の)選挙戦略の奏功だったが、言わばその大恩を忘れ、恩に仇で報いるのが政治の常道とでも言うかの如く、小沢一郎から一切の権力を剥ぎ取って地に堕とそうとしている。
小沢一郎は9月の代表選で起死回生の勝利を目指し、3か月の雌伏と養兵に入ろうとするが、菅直人はそれを許さず、小沢派に対する追撃を仕掛け、徹底的な掃討戦で小沢派を壊滅に追い込もうとするに違いない。この政治は、5年前の小泉純一郎の「小泉劇場」の模倣と再現である。あのときの「抵抗勢力」が小沢一郎であり、正義が悪を滅ぼす勧善懲悪の政治ショーだ。
早速、参院選の2人区の立候補者の再調整が宣告された。小沢一郎が設計した選挙戦略は白紙化される。次に、菅直人は昨年の衆院選で当選した小沢ガールを含む1年生議員に狙いを定めて切り崩しをかけ、小沢派から数を削ごうとするだろう。参院選での彼らの応援投入計画を差配し、「ノーサイド」とか「全員参加」を根拠に小沢一郎のコントロールから切り離し、執行部の私兵に変えて行くだろう。
党への政党交付金を仕切っていた小沢派の金庫に査察を入れ、資金を押さえ、小沢一郎の権力の源泉であるヒト・モノ・カネを干上がらせ、軍団を無力化と武装解除に追い込むだろう。3か月あれば十分できる。今度の参院選は、菅新政権にとって自民党との戦いではなく、小沢一郎との戦いであり、民主党から小沢一郎の影響力を消し、小沢派を解体して壊滅させるための選挙戦だ。
敵は自民党ではなく小沢一郎である。それは、あの郵政選挙が、小泉純一郎にとって民主党との戦いではなく、郵政民営化に反対する「抵抗勢力」との戦いであったのと同じ構図である。菅直人と菅政権の幹部たちは、マスコミと結託して小沢一郎への挑発を続け、小沢派が執行部に反旗を翻すように仕向けて行く。意図的に対立を煽って演出する。喧嘩を嗾ける。6/4の夜、小沢一郎は議員会合の席で、9月の代表選には独自候補を擁立して雪辱を期すことを宣言したが、そうした宣言を発しないと、派閥の結束を維持できない状態に追い込まれているのだ。9月勝利の目標を立て、それまでは臥薪嘗胆だと言い含めないと、政治経験のない若い1年生議員は動揺して浮き足立ってしまうのである。
小沢派には派を纏める有能な幹部がいない。頭数は多いが、体育会系とヒヨッコ議員だけの集団である。その小沢派の弱点を熟知している菅直人は、小沢派を挑発して追い込み、組織に手を突っ込んで分断し、小沢派の体育会系議員を党から追い出す攻勢に出る。小泉純一郎が亀井静香と平沼赳夫の一派に仕掛けたのと同じ作戦を採用する。
今、菅直人による衆参ダブル選挙が囁かれている。従来、自民党における選挙目当ての党首挿げ替えを批判し、国民の信を得ていない総理継起の不当性を糾弾してきた民主党は、今回、その同じ論理で批判を受ける立場に回る。菅直人としては、自らが主張してきた正論に従えば、衆院を解散して国民に信を問い、選挙に勝利して政権の正統性を証明しなくてはならない。
この小沢叩きの手法が奏功して内閣支持率が高くハネ上がれば、マスコミの風を武器に菅直人は衆参ダブル選挙に打って出るだろう。まさに、小泉純一郎の手法のコピーだが、それだけではなく、もっと極端な小泉劇場の再現を国民は目にするのではないか。つまり、小沢派の議員の選挙区に刺客を送り込む図である。切り崩しに応じて離反せず、最後まで抵抗を続ける小沢派の側近議員、例えば松木謙公とか、山岡賢次とか、鈴木克昌などの選挙区には、刺客を送り込んで駆逐するのだ。
5年ぶりに再演される真夏の劇場選挙にマスコミと国民は興奮して喝采を送る。マスコミに頭を漬け込まれた国民は、5年前以上にB層的傾向を強くしていて、この子供騙しの政治に涎を垂らして狂喜するだろう。衆参同日選ということは、当然、昨年のマニフェストは破棄され、菅直人による新しい「改革」マニフェストが掲げられる。
目玉は消費税増税。従来の「国民の生活が第一」の政策を財政赤字を招くバラマキだとして否定し、小泉純一郎的な「痛みを伴う改革」の路線を定置する。そして新自由主義的な成長戦略、さらには道州制、場合によっては憲法改正の明記もある。
一般的に、少数派になった政治集団が多数派に包囲されて攻撃を受けた場合、よほど強力なカリスマが中心で集団を統合できないかぎり、集団は攻勢をかける多数派との妥協を図る一派と、逆に強硬な対決姿勢で先鋭化する一派の二つに分裂する運動法則の作用を免れない。イスラエルに包囲され攻撃されているパレスチナがそうだし、福島瑞穂の主戦派と辻元清美の恭順派に分かれている社民党がそうである。日本史で例を探せば、徳川方に攻め込まれた大坂の陣の豊臣方がそうだ。そして、その法則性を熟知した多数派は、少数派の内部に楔を打ち込み、両派の対立と緊張を発生激化させ、狡猾な懐柔によって恭順派を各個撃破して離反に導くのである。
これを調略と呼ぶ。この言葉は、特に戦国期を描いた歴史小説の中で頻繁に登場する。菅直人の手口は、不要なロートルの強硬派に対しては刺客を送り込んで消し、小沢ガールなどの若い1年生議員に対しては甘言で釣って寝返りさせる戦法の二つの使い分けだ。小沢派は、組織を防衛するためには、この小沢派潰しの政局で積極的に多数派との対決姿勢を強調せざるを得ない。
指導者である小沢一郎が、明確なメッセージを派内に発信して、切り崩しに応じずに一致結束せよとフォーメーションを固める必要に迫られる。しかし、そうした組織防衛のための指令の一言一句は、マスコミに攻撃材料として拾われ、執拗に叩かれ、菅執行部による小沢派殲滅作戦に逆利用される。その繰り返しの中で、小沢派はますますハリネズミのように身を固めて異端化する方向に流される。菅直人とマスコミの術中に嵌る。
政治家には、左から右に寄って行く政治家と、右から左に寄って行く政治家の二つがある。これまで私が見てきた政治家の殆どは、前者の類型と範疇の政治家だった。その最も典型的な人物が菅直人である。政治家だけでなく、評論家や政治学者も、悉く、見事なまでの華麗さで左から右に転向を遂げた。
羞恥という言葉を辞書に持たない人間の生き方を見せつけてくれた。生きるということが、自らの思想信条を裏切って地位とカネを貪ることだという真実を、彼らは私に教えてくれた。だから、今では、左から右に流れ動く政治家や論者については、それは社会常態であり自然現象であると映り、軽蔑して鼻先で笑う程度で、特に憤慨や憎悪の感情を覚えるまでには至らない。
「万物は流転す」と言ったのはギリシャの哲学者のヘラクレイトスだったが、日本の現代政治においては「万物は左から右に流転す」である。万物は左から右へ流転するので、すなわち自分も一生懸命に右へ右へ向かって走っていないと、ボーッとしていると、すぐに世間で「左翼」の立場になってしまう。トレーニングマシンのルームランナーのようなものだ。
日米安保に対する是非、自衛隊海外派兵に対する是非、消費税に対する是非、日中友好への反応。これが常識的で中立的な立場だろうと思い定め、世間から指を指されずに済む位置に違いないと確信して安住していると、10年も経たない間に、異端の「左翼」に決めつけられて不審視されてしまう。日本人は不断に自らの立ち位置を右にずらす努力をしないと、周囲と歩調を合わせて右に寄らないと、自己の政治的中立の表象を獲得、確信、安心できない。
そうした中で、きわめて例外的に、右から左へ動いていると判別される政治家像が二つある。亀井静香と小沢一郎だ。亀井静香がテレビ番組でゲバラを絶賛するのを聞いたときは驚いたが、20年前の亀井静香は清和会四天王(森喜朗・三塚博・加藤六月・亀井靜香)の一人の武闘派で、典型的に右の世界の政治家だった。
郵政民営化に反対して小泉純一郎に斬られた5年前も、派閥は志帥会で、平沼赳夫や中川昭一が所属するグループのボスだった男である。警察官僚出身という不気味な経歴が、いかにもその思想的立場をよく説明していた。通常、9条系の政策軸(安全保障・歴史認識・教育)で右側に立つ者は、25条系の政策軸(社会保障・労働法制・資本法制)でも右側、すなわち新自由主義の陣営に立つ。例外はない。
ところが、亀井静香の現在の政策は、25条系の軸線のセグメンテーションでは明らかに左側に立っている。小沢一郎についても同様な指摘ができる。小沢一郎の9条系の政策軸について言うと、従来より「普通の国」の改憲論者で、特に集団的自衛権については、それを明文改憲あるいは解釈改憲と立場を変えつつ、この20年間、集団的自衛権を合憲化する策動の先頭に立ってきた。
だが、25条系の軸線については、4年前に民主党の代表に就き、そこで小泉・竹中の構造改革路線を否定する立場に立ち、亀井静香と同じような左側の表象属性を際立たせるに至っている。否、9条系においても、例えば「第七艦隊以外は不要」の発言や、日中関係へのコミットメント、さらに普天間問題についての姿勢など、党内で相対的に左の印象を浮かび上がらせる政策スタンスが注意を惹く。
無論、これには背景があり、小沢一郎が選挙の集票基盤として組合(連合)と結びついている事情がある。が、いずれにしても、政治の全体が新自由主義の方向へ靡く中で、地方経済や中小企業に目配りし、官僚やマスコミの妨害を阻止して弱者への再分配に動く小沢一郎と亀井静香の政策姿勢は、積極的な評価が与えられてよい。
もう一つ、この2人の政治家には注目すべき点がある。それは、やはりマスコミと政治の問題である。現在、マスコミが目の敵にして攻撃している政治家が、小沢一郎と亀井静香だが、マスコミがこの2人を叩くには理由がある。それは政策だ。25条系の政策軸で、相対的に左側の政策を掲げているため、マスコミはこの2人を敵視して悪性表象を貼り付けるのである。政治とカネの問題は二の次で、それは口実に過ぎず、真の問題は、マスコミが糾弾の言葉で言うところの「利益誘導の政治」にある。
「利益誘導の政治」。法人税を減税し、労働法制を規制緩和して労働者の賃金を下げ、大企業の当期利益と内部留保を膨らませて、大企業や外資系金融機関に巨額の役員報酬で利益誘導する政策は、マスコミは「利益誘導」だとは言わない。資本法制を規制緩和して、ヘッジファンドと外国人投資家にM&Aをやらせ、たっぷり儲けさせてやることは、マスコミはそれを「利益誘導の政治」だとは言わない。
過疎地に道路を敷いたり、過疎地の学校や病院やバス路線が閉鎖にならないように補助金を出すことを、マスコミは「利益誘導の古い政治」と呼ぶ。そこには、田中角栄以来の経世会の政治表象が塗り込められ、それが絶対悪として糾弾対象に据えられている。私は、現在の日本の民主主義政治において、最も癌の存在はマスコミだと考えている。
したがって、今の日本で政治家を評価するときは、その政治家がどれほどマスコミからバッシングされているかが、逆説的ながら、市民の採点の重要なメルクマールとなる。その基準と観点は、この国の民主主義を守り健全化させる上で有効なものだと私は考える。政治とカネなら、鳩山由紀夫にも同じ問題があり、森喜朗や安倍晋三や麻生太郎にも多くの黒い疑惑があった。彼らの疑惑はマスコミによって叩かれず、追及もされず、検察によって捜査もされない。
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