http://www.asyura2.com/10/senkyo87/msg/914.html
Tweet |
「東洋経済学入門」伊藤 肇(評論家)ゴマブックス より以下転載します。
「備ワランコトヲ一人二求ムルコトナカレ」(孔子)
──完全無欠の人というのは世の中にいないのだから、ひとりの人に才能も徳もすべてかね備えていることを要求してはいけない。
世の中には、欠点をうまく身に着けている人もあれば、長所をもてあましている人もいる。何でも知っていることは、実は何も知らないに等しい。逆説的ないい方をすれば、あまりにも完壁すぎる人間には、人間的な面白さがないともいえる。長所の裏返しが短所であり、短所の裏返しが長所なのだ。孔子のいうように、完全無欠の人というものは、世の中にはいないのだから。まして部下に完全無欠を求めてはいけない。
これに相当する言葉は『菜根譚』にもある。
「人の悪を責めるのに、ひどく厳しくしてはならない。その人が受け取って背負うことができる程度にするように考える必要がある。人に善を教えるのに、ひどく高い理想を示してはいけない。その人が、きっと実行できるように、と考えてあげるべきだ」
アナトール・フランスは、「はたして人は不徳なくして徳を、憎しみなくして愛を、醜なくして美を考えることができるだろうか。実に、悪と悩みのおかげで地球は住むに耐え、人生は生きるに値するのだ」といい、
日本で初めて名古屋に地下街をつくった山口達郎(故人)も遺著となった『天鼓雑記』で「善事をなし得ざる善人よりも、むしろ善事をなし得る悪人を買いたい」という名言を吐いている。
歴史をふり返ってみても、温室育ちの、善事をなし得ざる善人よりも、犯罪や退廃の中から奮起した人物のほうが、ずっと魅力的だし、迫力もある。
ジプシー・スミスは、十三の乞食少年の時代、ふとした動機で聖書を読んで発奮、ついに幾万人もの人びとを信仰に導いた大説教家に成長したし、
ジェレミー・マッコーレーは、前科二十四犯の大盗賊だったが、一念悔悟して発心し、ニューヨークの貧民窟で無頼漢の間を専門的に伝道して歩く立派な宗教家となった。
日本でも、菊池寛の『恩讐の彼方に』にでてくる、凶悪な追いはぎの市丸郎が前非を悔いて仏門にはいり、名を了海と改めて、二十一年の歳月を費やしてノミ一本で山国川の洞門を掘削した。
高島嘉右衛門といえば、横浜貿易港を完成させ、今でも横浜には高島町、嘉右衛門町の名が残っている人物であると同時に、高島易断の元祖として名高い。その嘉右街門も、銀の密輸で投獄され、獄中、易経二巻を読破して裕然大悟、出放後、まともな事業にのり出した。
何も犯罪に結びつく悪とはいかなくとも、悪を経験し、それを乗りこえた善の魅力は強烈である。
「悪いことのできない人より、悪いことができて、悪いことをしない人が成功する。事業界とはそういうものです」(阪急電鉄相談役 清水 雅)
P-93
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK87掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。