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2010年06月07日(月) 13:10
民由合併極秘会談に見る菅と小沢
民主党との合併にともない、小沢一郎の自由党が解散したのは、正式には2003年9月26日のことである。
両党の議員に反対意見があり、難航を極めた合併交渉。その年の1月から協議が続けられたがまとまらず、5月には決裂した。話は壊れたと誰もが考えた。
しかし、7月23日深夜、民主党の菅直人代表と、自由党の小沢党首は、合併の合意書に署名した。7月に入り、菅と小沢が極秘の会談を続けていたのだ。
2003年7月24日午前11時から開かれた自由党常任幹事会は、反発の声が相次ぎ、大もめになった。
極秘交渉を知っていたのは側近数人だけだった。その他の議員は合併合意を伝える新聞、テレビの報道で知った。しかも、合意文書は自由党にとって「屈辱的」な内容だった。
概略はこうだ。「民主党を存続政党とし、菅直人代表ら執行部の顔ぶれを継続、自由党は解散する」。
合意に至るまでの心境を、小沢はこう振り返る。
「自由党のままでいるのが政策的にはいちばん純粋だし、わかりやすい。仲間にとっても自由党でいるほうがハッピーだった。しかし、自由党が多数をとって政策を実現するには時間がかかる。ところが、日本に残された時間はそう長くない。僕もそんなに若くもない」(小沢一郎政権奪取論より)
大荒れを予想してのぞんだ常任幹事会の模様を、小沢の懐刀、平野貞夫は「平成政治20年史」で以下のように再現している。
司会は藤井幹事長、小沢党首が経過を説明して、「日本再生のため残された時間は少ない」と持論を述べ、無条件降伏ならず「無条件合併」の了承を求めた。
突然というより突発で誰もが想定していないことであり、賛成する常任幹事は誰もいない。小沢党首と藤井幹事長が「平野、何か言え」と眼で合図してきた。
ここは何としても全員を納得させなければ、と困り果てた。そこで思いついたのは、敗戦後、倫理運動をはじめた丸山敏雄先生の「得るは捨つるにあり」の教えだった。
「一切をなげうって、捨ててしまう」。そういう心境に立ち至ったとき、人は何物かを得ることができる。平野は小沢の気持ちをこの言葉で伝えたかったのだろう。
常任幹事たちはしぶしぶ了承したが、腹の中は不安でいっぱいだった。衆院の比例区で自由党は500万票以上を獲得していた。民主党と合併すれば、民主党の候補者とともに比例区名簿に載り、競争が厳しくなる。そんな思いもあった。
小沢は、自由党の議員たちの気持ちは痛いほど分かっていた。それでも「政権をとるならしょうがない」と割り切った。
「民主党との話し合いで、僕は何も異論をはさまないで、民主党の言うとおりにしたんです」「我々が耐え忍べば政権への道が開ける」(小沢一郎政権奪取論)
7年も前の話だが、政権交代実現という共通目標を抱いて極秘交渉を続けた菅、小沢の情熱と、自分の軍団の反発は覚悟のうえで不利な条件を受け入れた闘将の忍耐が、民主党を政権政党に押し上げたエネルギーの根源にあることをあらためて胸に刻んでおきたい。
「親小沢」「非小沢」というのは、メディアにとっては話をつくるうえで便利な分類であろう。しかし、人間関係はそれほど単純化できるものではない。人の心は絶えず変化している。
同じグループ、近い思想信条の持ち主の間に「近親憎悪」が生まれることがあり、所属組織が敵対関係でも個人どうしは親しいこともあるというのが、矛盾に満ちた人間社会の面白さでもある。
白か黒か、善か悪か、そのような分類を仏教的には「二見に落ちる」という。二見にとらわれていては、葛藤ばかりで真実は見えない。静かな心であるがままに事実をながめれば、メディアの報道のありようも変わるのだろうが・・・。
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