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結局、第2次大戦後の世論形成はほとんどメディアに頼ってきたと言っていい。工場で分業体制が生産効率を高めるために採用されたのと同じで、自由主義社会一般で思考と労働の分業がされている。思考はメディアが行い、労働は一般市民が行うと言うものだ。そして、そういった分業体制を維持する装置が教育制度だ。 互いに他者をチェックすることができるシステムが機能していれば、それなりにこういった分業体制は効率的で有効であるはずだが、この30年ぐらいは、マスコミ報道が現実の社会の動きを伝えているようには思えない。本来であれば、マスコミ関係者も同じ市民社会の一員として、市民社会の安全性というか公正性というか、公平性というか、そういったものを維持することを自分の仕事として世論形成をするはずだが、あまりに社会の階層化が進んでしまった結果、一般市民は単にマスコミ報道を受けて、それを単に映し出す鏡のような存在になってしまった。 本来であれば選挙は立候補者が直接選挙民へ訴えかけ、その政策の優劣を競うものであるはずだが、現実にはマスコミ報道が議会活動から選挙での政策アッピールまでを取り込んでしまって、報道の仕方次第でいかようにもその印象を操作できるようになっている。 マスコミ関係者は、それなりにいい待遇を与えられ、今の社会が結構うまく機能しているものと考えているはずだ。しかし、実際は、少なくとも日本だけを見てみても、社会全体で見たら、その生活のしやすさはどんどんと低下しているし、階層化が格段に進み、下の階層へ落とされた人たちはほとんどその日暮らしという状態になりつつある。そもそも、昭和の時代に、駅や公園のトイレで暮らす人々がどれだけいただろうか?問題は、これらの社会階層化を意図的に誘導している人々がいることだ。 互いを富ませるのではなくて、互いに富の分捕り合戦をやっていて、そのゲームが正しいものであり、他者を犠牲にしても勝ったものは幾らでも富を独占していいと考えている点だ。生活が野球の試合や将棋の勝ち負けと同じなら、確かに、勝者が利益をかっさらうのは当然だ。しかし、生活は違う。そこでは、人々が日々暮らし、子供が生まれ、成長し、やがて年老いていくのだ。そういった生活全体を見た場合、富の生産、それも、株式会社に典型的にみられるような短期的な投資効率だけに価値を置いた個人の評価は、まさに社会に住む個人個人の生活を否定し、社会生活というもの自体を広範に否定・破壊していくものになる。子供や老人の生活自体に価値を置くことが本来必要で、それが「生活が第一」という民主党のスローガンになっていたはずだが、少なくとも今のところ、その実現はかなり遠くにあるままだ。 もちろん、今の社会は一般市民とマスコミだけで成り立っているほど単純ではない。だから、さまざまな要素があるのだろうが、それでも、マスコミの力は大きいし、マスコミ関係者が本来背負うべき責任もあるのではないだろうか?何が本来のマスコミの機能であるか、それを今一度考えてみてもいいのではないだろうか?
メディアの影響力と世論
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