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安保改定五〇年。
半世紀に及ぷ例のない「同盟」ですが、その実際の姿を知っていますか?
実はとても危険なもの。
キホンのキから易しく解説します。
Q.1 安保って何ですか? 回答:古関彰一(独協大学)
強いられた条約 日米安保条約は、日本と米国の二力国が任意に締結した条約と思われがちですが、その出発点を考えると、米国に強制された条約だといわざるを得ません。
出発点は、日本が戦争状態を法的に終結した、連合国による対日講和条約(通称サンフランシスコ講和条約、正式には日本国との平和条約)です。講和条約ですから、日本の戦争状態を法的に終結し、占領を終結して、日本の独立を承認することが最大の目的だといえます。逆にいえば、日本は講和条約に調印しなければ独立は出来ませんでした。
ところが、講和条約は占領軍の撤退を定めた後、次のような但し書きを加えました。「但し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない」(六条)。これによって「外国軍隊の駐留」を定める旧安保条約が、講和条約と同日に調印されることになりました。
考えてみれば、講和条約は、日本にとっては必要不可欠な条約です。それに対し安全保障条約は当事者間の、つまり日米の任意の合意に基づくものに他なりません。にもかかわらず、任意の条約を不可欠の条約のなかに押し込めて安保条約は発足したのです。
冷戦の産物 こんな無理難題が可能になったのは、旧条約が、冷戦政策の象徴として、朝鮮戦争の真っただ中でつくられたためです。米国は日本の再軍備を強く望み、日本も米国の陣営に入ることを望んでいました。しかも旧条約と同様の条約は、この時期にアジアでは米韓、米比、アンザス(米、豪、Nz)などで、ヨーロッパではNATO(北大西洋条約機構)など全世界で、まるでネットを張り巡らしたようにつくられました。まさに反共ネットです。
さらに注目したいのは、日米安保に基地条項が含まれていることです。安全保障と基地は、安保条約上切っても切れない関係にあると思われがちです。なにしろ日米安保は半世紀以上、いや、多くの日本人が未来永劫続くのではないかと考えているほどですから、基地こそ安全保障そのものだと考えている人がいても不思議ではありません。
でも、軍事基地が安全保障政策にとって必須であるわけではないのです。安全保障とか相互防衛の条約があっても、その条約と基地条約とを別に定める場合がむしろ通例といえます。
安保条約などの中に軍事基地条項を加えている国は今日では日本と韓国ぐらいでしょう。安全保障政策には様々あり、基地を設置するかどうかは当事国の選択肢の一つに過ぎません。
しかも、基地条項は、旧条約は行政協定で、六〇年条約は地位協定で米軍基地の条件、米軍隊の地位が極めて特権的かつ詳細に定められたのです。
Q.2 1960年 安保「改定」によって何か変わったのでしょうか? 回答:古関彰一
目的の変化 まずは、米軍の駐留目的についてです。旧条約は、「極東における国際の平和と安定の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされる日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため」(一条)と述べています。この点を一言でいえば、米軍の駐留目的は極東の安全と日本の内乱鎮圧のためであったのです。これに対し、六〇年条約は、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」(六条)と、米軍駐留目的を日本と極東の安全のためとしました。
これにかかわり、六〇年条約において、「極東の範囲」が国会で厳しく問われました。なぜならば、当時は仮想敵であるソ連、中国はじめ、韓国、台湾との関係も微妙な問題を持っていたからです。これに対し、政府は「この条約に関する限り、在日米軍が日本の施設及び区域を使用して武力攻撃に対する防衛に寄与しうる区域である。かかる区域は、大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の区域であって、韓国及び台湾区域もこれに含まれる」(一九六〇年二月政府統一見解)との見解を示したのです。
しかし、一九九六年の安保共同宣言以来、日米安保が「アジア・太平洋域の安定と繁栄」を維持するとされ、たとえばイラク戦争で在日米軍が沖縄から発進するごとく「極東の範囲」は、事実上無視されています。
つぎに、このような目的を持つ米軍の基地使用についてです。旧条約は、行政協定にゆだね(三条)、六〇年条約では地位協定に委ねています(六条)。両協定とも名称が異なりますが、内容的にはほとんど大差ありません。しかし、どちらの条約も基地の設置を義務付けていますが、設置内容はすべて協定に委ねています。さらに両協定には、米軍の特権的・差別的な規定が定められ、加えて協定内容を特別法でさらに具体化しています。
たとえば、米軍が国有財産を使用する場合、地位(行政)協定により、特別法がつくられており、それによって、国有財産を返還する際の原状回復が定められているにもかかわらず、「合衆国に対し、その原状回復又はこれに代わる補償の請求を行わないものとする」(三条)と定められている等々、これら特権的・差別的規定は他にも数多く存在します。
日米安保は、その下に地位(行政)協定、さらに日本の法律に対し例外的な特別法を持つ法体系の頂点にあります。
偽装された対等性 六〇年条約では、なにかと「日米は対等なパートナー」と謳われましたが、その一つが、四条で脅威に対して「随時協議」を定めたことです。この下で「日米安全保障協議委員会」がつくられました。当初は日本側は外務大臣と防衛庁長官、米国側が駐日米大使と米太平洋軍司令官でした。その下で、有事研究が進められ、七八年には「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」が、九七年には「新ガイドライン」がつくられ、これに連動して周辺事態法がつくられています。
五条も旧安保にはなかった規定です。「日本国の施政の下」で武力攻撃があった場合に「共通の危険に対処するように行動する」ことを定めました。実は、米国側にとって長年の主張でした。
旧安保条約の下にあった行政協定には、つぎのような規定がありました。「日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫した脅威が生じた場合には」、日米両国政府は「必要な協同措置を執」る(二四条)と定めましたが、この条文はそもそも米国側の旧安保条約案に存在しました。しかも、米国案の原文には「日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫した脅威が生じた場合には」、「日本軍は、日本政府と協議のあと合衆国政府によって任命される最高司令官の統一指令部の下におかれる」とあったといいます。日本政府はこの米国案に強く反対しましたが、米国側は譲らず、結局行政協定に入れることで合意し、「統一指令部」等々の表現を変えて「必要な協同措置」と穏当な表現となりました。六〇年条約五条の「共通の危険に対処する」という規定は、そもそもは日米の「統一指令部」から始まっていることがわかります。
最後に事前協議制について。六〇年条約六条に、在日米軍は「極東の平和と安全に寄与する」とあるため、多くの国民は安保改定で「日本が戦争に巻き込まれる」のではないかと危惧しました。これに対し、日本政府は事前協議制を加えることによって国民の危惧を払拭し、日米が対等な関係となると誇示していました。
この事前協議制は、安保条約とは別に、岸首相とバーター米国務長官の交換公文の形で示されました。同交換公文は、「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更並びに日本国から行われる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」ものです。
しかし、同交換公文で述べられている「配置における重要な変更」、あるいは「装備における重要な変更」というだけでは、具体性が欠けるため、藤山愛一郎外務大臣とマッカーサー米駐日大使との間の口頭了解(文書形式でない)でつぎのような了解がなされました(公表は六八年)。「『配置における重要な変更』とは、陸上部隊の場合は一個師団程度、空軍の場合はそれに相当するもの、海軍の場合は一機動艦隊程度の装備、『装備における重要な変更』とは、核弾頭及び中・長距離ミサイルの持ち込み並びにそれらの基地の建設である」。
それから、五〇年が経過しましたが、事前協議は一度として開かれておらず、まさに「絵に描いた餅」となっています。したがって米国の公文書などでは、たとえば「非核三原則」に関して、「核を積んだ艦船などの寄港・通過」を内密に認めていますが、にもかかわらず、事前協議制は全く機能していないとの疑問が出されてきました。二〇一〇年三月になって、政府の公文書から事前協議制が「空証文」に過ぎないことが明確になりました。
歴史的な安保闘争 六〇年の安保条約改定にあたって、民衆による反対運動が組織されました。安保闘争は、日本の近現代史のなかで特筆すべき闘いだったといえます。
闘いの中心は、安保改定阻止国民会議(以下国民会議)でした。国民会議には社会党を中心に、労働組合の全国組織・総評、原水禁などの平和団体など、一三団体で組織されました。共産党はオブザーバーでしたが闘いに重要な役割を果たしました。闘いは一九五九年四月から翌年六月末まで、約二〇回にわたって全国統一行動が組織されたのです。
一九六〇年五月一九日深夜に衆議院で安保条約の採決が行われた際、岸信介首相の下で与党自民党が警察官を導入し、自民党単独で強行採決を行いました。この前例のない横暴な議会運営に、民衆は民主主義の危機を感じ、怒りをもって国会を包囲し、それは二〇万人前後のデモに膨れ上がりました。
アイゼンハワー米大統領を迎える準備のために訪日したハガチー新聞掛秘書を羽田空港でデモ隊が包囲したり、国会内で学生と機動隊が激突して女子学生が死亡し、岸首相は自衛隊の導入を図ったほど危機的状況にありました。その後、条約が批准された直後、岸首相は辞任したのです。
安保闘争は、日本の民衆が歴史上はじめて民主主義を掲げて大規模な反政府運動に立ち上がった時でした。しかしながら、米軍基地に苦しんでいた米軍占領下の沖縄の現状にはまったく触れることはありませんでした。
Q.3 戦争放棄・戦力不保持の立場をとる日本国憲法と安保条約はどういう関係にありますか? 回答:古関彰一
砂川事件 日米安保条約と日本国憲法を対立的にではなく、両立させてきたことを「戦後日本の英知」と考える見方が、長く続いています。しかし、憲法が戦争を放棄し、軍備不保持を定めて、「恐怖と欠乏から免れ」て生きる権利を謳っているのに対し、安保条約は「平和と安全」を掲げつつも米軍の駐留を認め、「武力攻撃に抵抗」することを定め、「軍事力による平和」を基本としていますから、両者は基本理念において対立的だと見ることができます。
それにもかかわらず、安保と憲法が両立しえてきた理由の一つは、最高裁が、安保条約の憲法適合性については、裁判所は判断しないとのお墨付きを出したことによります。その最高裁の判決が砂川事件です。
砂川事件とは、つぎのような事件です。
朝鮮戦争停戦後の一九五七年、極東での軍備拡張を目指した米軍は、東京の米軍立川基地を拡張することとして、国側が土地の強制収用のための測量に踏み切りました。これに反対した労働者・学生らが、警備の警察官と争った際に基地用地内に踏み込んだことが、安保条約(旧)三条に基づく行政協定に伴う刑事特別法二条(施設又は区域を侵す罪)違反とされ、起訴されました。
これに対し起訴された学生・労働者は、次のように安保条約の違憲性を主張しました。刑事特別法は安保条約に基づくものであり、安保条約は戦争放棄を定めた日本国憲法九条に違反し、かつ、米軍基地への侵入は刑事特別法二条違反で最高刑は懲役一年という重罰であるにもかかわらず、本来の日本の法律では「入ることを禁じた場所」への侵入は軽犯罪法三二号に該当し、罰条は「拘留又は科料」にすぎない。両者の罰条の違いは合理性のない差別であり、憲法一四条に定める法の下の平等に違反する、と。
これに対し、東京地裁は反対派の主張を認め、一九五九年三月、日米安保条約は憲法九条に違反するとの画期的な判決(裁判長の名をとって「伊達判決」といわれる)を下しました。
判断を逃げた最高裁 この地裁判決に対し、高裁を飛び越えて最高裁に跳躍上告し、わずか八ヵ月後急きょ逆転判決を下したのです。判決は、憲法九条は「固有の自衛権を何ら否定」していないし、「わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではな」く、外国の軍隊の駐留は、憲法九条の定める「戦力に該当」せず、日米安保条約は、「高度の政治性を有するもので」、その憲法判断は「司法裁判所の判断になじまない」、と。
つまり、最高裁は一般論として安全保障を求めること、外国の軍隊の日本への駐留は憲法に違反するものではないこと、当該安全保障条約は「高度の政治性を有する」ため、憲法判断はしない、との内容でした。一言でいえば、最高裁は安保条約の憲法判断を避けたのです。
この最高裁の影響力は莫大で、その後の安保条約の違憲性を巡る訴えに対し、裁判所は砂川最高裁判決に従ってすべて判断を回避することになったばかりでなく、自衛隊の憲法判断をも、「高度の政治性」を理由に回避することになりました(たとえば、長沼事件控訴審判決)。
最高裁が、日米安保条約の憲法判断を回避し半世紀になろうとしていますが、二〇一〇年に日米安保の憲法判断にかかわって、信じ難い報道がなされています。
東京新聞によれば、東京地裁の一審判決後、駐日米大使が外務大臣と最高裁長官に対し、跳躍上告すべきだなどと直接圧力をかけていたことが、日本側文書でも判明しました(四月三日付)。
こうした事実も知らされず、最高裁のお墨付きのままに判断停止状態でこの半世紀を過ごしていますが、いま、安保と憲法の整合性が改めて問われているといえます。それは何よりも冷戦の終結との関連で戦争形態が急速度に変化したことです。全面戦争から局地戦争へ、国家対国家の戦争から国家対集団の戦争へ、大量の非戦闘員が難民となり、食料を奪われ、感染症が蔓延する戦争、正規軍でない集団によるテロ殺害、陸・海・空に及ぶ環境破壊等々です。
つまり、かつての冷戦下の軍事力では「敵」の抑止にもならず、平和も実現できない時代に入ったのです。軍事力より非軍事的手段によってこそ、平和を実現できる時代です。従って、安全保障は軍事力中心から非軍事的手段による安全保障が求められています。その意味では、日本国憲法が謳う、戦争を放棄し、軍備を持たず、恐怖と欠乏のない平和な社会が実現可能性を持ち始めたと言えるでしょう。つぎの一歩に向かってどう歩みだすのか、一国だけでなく、共同の連帯が求められています。
Q.4 なぜ米軍基地は沖縄に集中しているのですか? 回答:屋良朝博(沖縄タイムス)
「なぜ」ではなく「だから」 「なぜ」を考えるほど、辺境を切り捨てる国家意思に突き当たります。「なぜ沖縄か」ではなく、「沖縄なら」「沖縄だから」なのでしょう。戦略的に重要な位置にある、という論理が、国民にすり込まれました。マスコミも思考停止に陥っています。
神がそこに島をお造りになったからだ---。そんな得体の知れない宿命論に政府は逃げ込むのです。「抑止力」「地理的優位性」といったマジカルワードが思考力を吸い取ります。そして沖縄は漂うのです。
そもそも、外国軍の基地をどこに置くかは受入国が決めるもの。駐留米軍の運用所要を聞いて、条件が合う場所を日本が提供するものです。派遣国が決めては「占領」になります。だから、戦中戦後のいきさつはあるにせよ、「なぜ沖縄か」というと、一義的には日本がそうさせているからにほかならない。それをストレートに言う勇気がないため、神の仕業(地理)にしているのではないでしょうか。
一九九五年の米兵による少女暴行事件をきっかけに沖縄問題がクローズアップされました。米国政府は日本側が望むなら兵力の本土移転も検討する腹積もりでした。当時のペリー国防長官が議会で「日本のすべての提案を検討する」と証言し、その意味についてジョセフ・ナイ国防次官補は「兵力の本土移転も含む」と説明していました。
米軍再編で沖縄の負担を軽減するために米軍普天間飛行場を本土へ移転する案を米側は日本へ打診したことがあります。安保負担を分かち合おうという試みを拒否し続けてきたのは日本なのです。
言論空間の歪み 鳩山由紀夫首相は米軍普天間問題を五月末までに決着させると公言しました。いまこの期限が国家の一大事になって、民主党内からも「期限内に解決できなければ内閣総辞職」という声が上がっています。
しかし、いったい誰のための期限なのでしょう。
沖縄のためでないことは分かり切っています。急いて結論を出せば、普天間は沖縄県内に押し込められるのですから。
今後も同規模の米兵力を日本に駐留させる必要は何かを含めてじっくり議論すべきでしょう。しかしこの国は本質論が嫌いなのか、自民など野党は「期限が守れなければ総理は辞任すべきだ」と鳩山首相を辞任に追い込もうとする。早く決めてしまえ---の大合唱です。総理は発言の責任を負うにしても、外国軍の基地問題に国のトップが首を賭せ、という発想に背筋が寒くなります。政治決定に従うのが軍隊であって、政治が軍事に振り回されると文民統制が死にます。
期限にどれほどの意味があるのでしょうか。自民党は一九九六年に普天間返還を決めた橋本龍太郎元首相が当時、「五ないし七年内に返還を実現する」と公約したことを忘れているのでしょうか。あれから一四年も経っています。
基地問題の中身を論じることなく、「さっさと沖縄で決めてしまえ」という切り捨て論にこそ、「なぜ沖縄に」という問いへの答えがあるのです。
抑止力? 沖縄に基地が集中した歴史背景を振り返るには紙幅が足りませんが、ひとつ確認しておきたいのは、海兵隊はそもそも岐阜県、山梨県に駐留していたことです。地域住民の反対運動で迫い出されるように沖縄に漂着したのです。それは軍事的な理由ではなく、政治判断でした。
そしていま、在沖米海兵隊(約一万八〇〇〇人)のうち、司令部と補給要員の計約八〇〇〇人のグアム移転が決まりました。海兵隊にとって半世紀ぶりの大きな移転ですが、今回も同様に政治決定でした。
海兵隊は今後、グアムを司令塔に沖縄、岩国(山口県)、ハワイにある地上、航空部隊を遠隔運用することになります。ジェット機など固定翼機がある岩国には、再編で普天間から空中給油機が移転します。沖縄には歩兵、砲兵と普天間のヘリコプターが残るのです。
遠隔運用は輸送や通信などランニングコストが高くなるため、海兵隊は乗り気ではありません。それでも日米両政府の政治決着に従い新たな運用方式を組み立てるのです。軍事合理性が文民統制を超えることはありません。彼らは政治が与えた条件下で、しっかり任務をこなす。それだけのことです。
グアムを軸にするのだから、支点が沖縄だろうが別の地域だろうが大きな違いはないはずです。
朝鮮情勢や台湾海峡で有事が起きる可能性を理由に、海兵隊の沖縄駐留は不可欠だ、と主張する政治家や専門家がいます。それが事実ならば司令部をグアムへ移転して大丈夫なのでしょうか。もし信念あって沖縄基地の必要性を主張するのなら、体を張ってでも機能分散を阻止すべきだが、何も言いません。
小泉純一郎元首相は正直でした。米軍再編で普天間問題をめぐる日米交渉が難航したとき、「国外移転、本土移転の両方を考えていい」(二〇〇四年一〇月七日)と述べ、沖縄側は大いに期待しました。ところが、翌年六月二三日の沖縄戦終結の「慰霊の日」に沖縄で開かれた戦没者慰霊祭で、小泉首相は記者団に県外・国外の可能性について聞かれ、あっさり言い放った。「総論賛成、各論反対。自分の所にはきてくれるなという地域ばかりだ」(二〇〇五年六月二三日)。
結局、それが本土の本音でしょう。沖縄の基地問題はそもそも国内で解決できないイシューになっています。
Q.5 安保とセットでよく耳にする「日米地位協定」とはどんなものですか? 回答:明田川 融(法政大学沖縄文化研究所)
広範な協定内容 米国は、安保条約第六条にもとづいて日本が提供する基地に軍隊を駐留させています。その駐留の在り方や基地使用の仕方などを定めるものが地位協定です。同協定には、その対象となる米軍人等の定義にはじまり、「施設及び区域」(「基地」という語は、外国の治外法権下にある要塞地帯のような印象を与えるということで使われていません)の提供・排他的管理・運営、おなじく返還と原状回復、米軍の出入、刑事裁判権、民事請求権、協定運用にともなう経費分担、協定実施について協議する合同委員会、などに関する内容が二八箇条にわたって定められています。
条文改定か運用改善か「よく耳にする」のは、在日米軍専用基地の七五%、兵力の七〇%が集中する沖縄県をはじめ、基地をかかえる自治体が地位協定の問題点を訴え、その抜本改定を求めているからです。なかでも問題とされているのは、事件や事故をおこしてしまった米軍人等で、日本が裁判権を行使すべき者の拘禁は、身柄が米国側にあるときは、日本側が起訴するまで、米国側が行うという規定です。たとえば、沖縄県はこれを「合衆国の軍隊は、日本国の当局から被疑者の起訴前の拘禁の要請がある場合には、これに応ずる」と改めるよう求めています。本土復帰以降の三五年間に凶悪犯・粗暴犯・窃盗犯が四〇〇〇件をこえ、生命・安全・財産を棄損されても、被疑者が基地に逃げ込み、証拠隠滅やアリバイ工作をはかり、はては本国に帰ってしまうなどの辛酸をなめさせられてきた同県民にとって、容疑者の身柄の迅速な確保と適切な法手続きによる処罰は最低限の要求です。これにたいして日本政府は、「凶悪な犯罪」の場合に、日本側による容疑者の起訴前の移転要請に米側が「好意的考慮を払う」という運用改善で対処する立場をとりつづけています。
運用改善の限界 しかし、二〇〇九年一一月に沖縄県読谷村でおき、六六歳の男性が死亡したひき逃げ事件では、またも運用改善では不十分なことが示されました。沖縄の新聞をたよりに、容疑者逮捕までの経過を追うと次のようになります
一一月九日 県警、修理工場に持ち込まれた米軍関係者使用車両(Yナンバー車)を押収、米軍に捜査協力要請
一一月一一日 県警、Yナンバー車を持ち込んだ米陸軍通信施設の軍曹を任意で事情聴取
一一月一三日 軍曹、那覇地方検察庁に取り調べの可視化(全面録音・録画)を申し入れ、供述拒否
一一月一四日 軍曹、出頭拒否をはじめる
一一月一七日 県警、軍曹を容疑者と断定
一一月二五日 中井洽国家公安委員長、「起訴前の身柄引き渡しを要求する段階にない」との認識を示す
翌年一月四日 県警、軍曹を自動車運転過失致死容疑で書類送検
一月七日 地検、軍曹を起訴、軍曹の身柄が日本側へ引き渡される
一月八日 県警、軍曹をひき逃げで逮捕
地位協定は、捜査・証拠収集などは、まず日米の”相互援助”に委ねるとしています。今回、日本側は米側の援助姿勢に配慮して起訴前の身柄引き渡しを求めませんでしたが、米側の援助は不十分でした。引き渡しを求めても、米側の「好意的考慮」が示されたか疑問です。結局日本側による容疑者の身柄確保は、その断定から二ヵ月を要してしまいました。この間、軍曹は基地内で通常どおり任務に従事し、携帯電話をかけることもできた、と報じられています。沖縄県民の多くが「遅すぎる」と声をあげ、運用改善は効力の面で”不安定”なことをあらためて実感しました。
現実にあわなくなった地位協定 問題はこれにとどまりません。基地が返還されても米側による原状回復や保証義務は免除されています。沖縄国際大学へのヘリ墜落事故では、基地の外の警察権は原則的に日本側にありながら、実際には米軍が自国財産(ヘリ)の”不可侵性”や事態収拾の”緊急性”をタテに強権的に治外法権を行使するさまがまざまざと示されました。二〇一〇年三月に名護市の公道で米海軍兵が起こしたひき逃げ事故でも、事情聴取を求める県警をおさえて米軍憲兵が兵士を連行しています。さらに、Yナンバー車の自動車税免除に象徴される種々の減免措置。米国と他国との地位協定では標準化している環境保全条項の欠落。合同委員会の密室性、と数えればきりがありません。
数々の問題点とそれらにたいする改定要求をともないながら、地位協定は一字一句改定されることなく締結から半世紀がたちました。
Q.6 「密約」で何が秘密にされてきたのですか? 回答:明田川 融
密約の位置づけ 日米安保の一つのとらえ方は、安保条約やそれに関連する取り決めを実行することによって成り立つ安全保障上の関係とするものです。
同条約第六条は、米軍基地の使用や米軍人の法的地位などは地位協定と「合意されるその他の取極」によって規律されると規定しています。「他の取極」として重要なのが「条約第六条の実施に関する交換公文」です。
同文書には、在日米軍の「装備における重要な変更」(核兵器の持ち込み)ならびに日本が直接武力攻撃を受けていない有事に「日本国から行われる〔米軍の〕戦闘作戦行動」(域外出撃行動)のための基地使用は、日米両政府の「事前の協議」(事前協議)の主題となることが含まれています。 安保の根幹に米軍の日本駐留があるとすると、右の内容はその核心ということになります。核兵器の持ち込みは、実戦で唯一の原爆被爆国である日本の国民感情にかかわることですし、域外出撃行動は、日本も戦争などへの関与を余儀なくされるのではないか、という問題にかかわってきます。
ほんらい事前協議とは外国軍隊による基地の自由使用にたいし主権国としての主体的判断に途をひらくはずのものです。米国側公文書を精査した日本の専門家たちは、これらの重要点について国民に伏せられた政府間の秘密の約束があると指摘してきました。歴代政権が完全否定してきたことです。
「いわゆる『密約』」問題 安保の重要点にかんする「いわゆる『密約』」とは、
@一九六〇年の安保改定時にかわされた、核兵器持ち込み密約。
Aおなじく、朝鮮半島有事のさいの戦闘作戦行動にかんする密約。
B一九六九年の日米首脳会談時にかわされた沖縄返還後の核再持ち込み密約。
C沖縄返還時の土地の原状回復補償費肩代わり密約、の四つです。
鳩山(由紀夫)政権下の外務省によって行われた調査の”まとめ”である「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会報告書」(二〇一〇年三月九日)は、日米「密約」を、両国間の合意・了解で「国民に知らされておらず、かつ、公表されている合意や了解と異なる重要な内容……を持つもの」=狭義の密約、「暗黙のうちに存在する合意や了解であるが、やはり、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つもの」=広義の密約と定義したうえで、次のような「結論」や「考察」にいたっています。
@核搭載艦船の寄港などを事前協議の対象外とする内容を持つ文書の写しと思れるものが発見された。しかし、その内容にかんする日米間の認識の不一致という問題点を双方とも深追いせず曖昧にした結果、お互いに抗議しない暗黙の合意という広義の密約があった。
A戦闘作戦行動のために日本の施設・区域を使用し得る内容の非公開文書の写しと思われるものが発見された。日本側の交渉当事者や岸政権が同議事録の密約性を認識していたことは確実だ。
Cすでに米国で公表されている原状回復補償費用四〇〇万ドルを日本が肩代わりする内容の文書は発見されず、その作成の有無も確認されなかった。しかし、同費用を日本側が負担することや四〇〇万ドルを日本が追加することにつき双方が了解していたことは確認できるので、広義の密約に該当する。
沖縄核再持ち込み合意議事録 Bについては次のような結果が出ました。二〇〇九年一二月、佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領の署名したとされる、米国が「重大な緊急事態が生じた際」に核兵器を再び沖縄に持ち込むことに対し日本政府が「その必要を満たす」内容の「合意議事録」が佐藤元首相の遺品から発見されていたことが報道された。しかし、調査した外務省記録からは合意議事録等は発見されなかった。文書の後継内閣への拘束力については、佐藤元首相が文書を私蔵したまま引き継いだ節が見られない点などから否定的に考えざるを得ない。また、文書は六九年一一月の日米共同声明の内容を大きく超える負担を約束したものとはいえないので(「重大な緊急事態はイエスと言う」合意議事録は、「全部ノーではない」という共同声明と大した違いはない、という意味)、必ずしも密約とはいえない。
この結果に、復帰運動などにかかわってきた沖縄県内の関係者たちは、「普通の人には理解できない。言葉遊びだ」「また沖縄をだまして犠牲にするのかと思った」「密約である条件は整っている」などの声を上げました。
さらに、外務省元高官のなかからさえ、言葉の「通常の意味で」約束であり、「それが国民に伏せられて」いるのだから、「密約だと言える」との意見がでています。
密約の深淵 報告公表直後にも、沖縄返還時の通貨切り替えなどによって生じた一億三〇〇〇万ドルあまりを大蔵省(当時)ならびに日銀が、ニューヨーク連邦準備銀行の口座に、一九七二年から九九年まで”無利子”で預金していたことが確認され、そのような措置は「広義の密約」にあたるとする財務省の調査結果が発表されました。
また、地位協定(前身である行政協定を含む)の刑事裁判権についても、日本側は米軍人に対し「日本にとって著しく重要と考えられる事件以外は第一次裁判権を行使するつもりがない」ことや、米側の管理下にある法違反者の引き渡しに関して「違反者が日本の当局により身柄を保持される事例は多くならない」とする非公開議事録が米国公文書から発見され、波紋をひろげています。
日本側重要文書の多くが破棄された可能性や、見つからない事態があるなかで、密約の広がりと深さを知るのは容易ではありませんが、まず、主権者であり安保政策の影響が良くも悪くも届く国民の知る権利を前提に、政府の文書および情報の保管管理と公開が保証されなければなりません。
Q.7 おもいやり予算とは、正式名称ですか。誰に対するどのような予算でしょうか? 回答:前泊博盛(琉球新報)
背景は米国「財政困窮」「おもいやり予算」とは、正式名称ではありません。在日米軍駐留経費のうち、日米地位協定でも取り決めのない「法的に支払う義務がないにもかかわらず日本が支出している経費」を指します。
法的な根拠のない米軍駐留経費を、日本国民の税金で賄う。財政法上、そして法治国家としてありえない「超法規的」な支出に対する説明を求められた政府が、苦し紛れに行った「(米軍に対する)おもいやりの立場で対処すべき」という説明(一九七八年六月、金丸信・防衛庁長官=当時)から「おもいやり予算」と呼ばれています。
日米地位協定上、日本が負担すべきでない駐留経費を日本が負担した理由について、「秘 無期限」と打たれ非開示の外務省機密文書「日米地位協定の考え方」(一九七三年初版、八三年増補版)には「米側は、特にオイルショック以後米軍の財政的困難を理由に米軍の我が国駐留に伴う米側負担の財政負担の軽減を折りにふれて要請してきているところ、我が国としては地位協定の枠内でできる限り協力する」ことにしたと説明しています。
つまり、米国の「財政困窮」が負担の理由でした。困ったときにはお互いさまという「思いやり」の観点から、「昭和五三年四月一日からは、法定福利費、任意福利費及び労務管理費を、また翌昭和五四年四月一日からは、格差給、退職手当のうち国家公務員の水準を上回る部分並びに格差給及び語学手当ての他の諸手当算入分を我が国政府の負担とする措置をとった」(同「−考え方」)としています。 日米地位協定二四条(経費の負担)には、「日本国に合衆国軍隊を維持することに伴うすべての経費は、二に規定するところにより日本国が負担すべきものを除くほか、この協定の存続期間中日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される」とあります。「二」には「施設、区域、路線権」などとあり、提供施設・区域(米軍基地・演習施設など)の借料=軍用地料などは日本が負担。それ以外の米軍が使う施設の建設・整備、維持・管理費などは米国が負担するのが、地位協定上の取り決めです。
増えつづけた日本の負担 ところが、一九七八年に基地従業員の福利厚生費の一部負担(六二億円)から始まった「おもいやり予算」は、翌年には「給与の一部負担開始」に加えて「提供施設の整備」まで広げられます。八七年には臨時的措置だったはずの「おもいやり予算」が「在日米軍駐留経費負担特別協定」の締結で恒常化され、同時に基地従業員の「手当て」も日本持ちとなり負担額は1000億円を突破します。九一年には「基本給」と米軍が基地内で使う「光熱水料」までも拡大された結果、二〇〇〇億円を超え、九五年には二七一四億円にまで膨らんでいます。 九六年には在日米軍基地の移転費用や訓練移転費も日本側負担となりました。その結果、二〇〇〇年以降も毎年二〇〇○〜二五〇〇億円超の負担が続きました。
米国の財政窮乏の救援で始まった「思いやり」措置のはずが、米国が好景気になった九〇年代に、むしろ日本負担が増えるという矛盾を露呈しています。
日本が財政難の現在、今度は米国が日本を思いやるのが筋ですが、米国側は「予算は思いやりではなくホストネーションサポート(駐留受け入れ支援=接受国支援)という安全保障上の応分の負担金」と説明しています。
このため米側は予算廃止には否定的ですが、財政難から削減を求めた日本側の要求で○九年度に一九二八億円、一〇年度は一八八九億円とようやく二〇〇〇億円を切っています。
Q.8 アメリカは日米安保をどう位置づけているのですか? 回答:久江雅彦(共同通信)
非対称な権利義務 米国は関係国との間に安全保障に関する条約を締結し、安全保障上のコミットメントを与え、同盟上の責任を果たしています。日米安全保障条約は、その柱の一つです。同条約で米国は日本防衛の義務を負っています(五条)が、日本は米国の領土や日本の領域以外の場所にいる米軍が攻撃されても、これを防衛する義務を負っていません。一方、日本は米国に対して施設・区域(基地)を提供する義務を負っており、その目的は日本の安全だけでなく、極東における国際の平和と安全のためとされています(六条)。このように、日米安保条約は「片務的」とは言えませんが「非対称」な権利義務関係を定めている、という特徴を持っています。
日本が米国の防衛義務を負わないことは北大西洋条約機構(NATO)条約で加盟各国が米国本土に対する攻撃に対しても相互に防衛する義務を負っている、米韓相互防衛条約においても韓国は太平洋で、いずれか一方の締結国に対する武力攻撃があった場合、米国との相互に防衛し合うのを建前としていることと比較すると異質です。
在日米軍は日本防衛と極東の平和と安全を守るために存在していると規定されていますが、米国にとっては全世界に前方展開している軍隊の一部に過ぎません。このため、日本が米国の防衛義務を負わない日米安保条約の非対称性や、同盟国として日本の果たし得る軍事的な役割の限界から、日本の安全保障専門家の間では、「米軍はいつか日本から撤退してしまうのではないか」という不安と「在日米軍の存在ゆえに米国の紛争に不必要に巻き込まれるのではないか」という怯えが交錯してきました。
不沈空母・日本 米国にとって、日本から基地の提供を受ける意味を検証してみましょう。まず、日本の近隣国であるソ連(現ロシア)、中国などと米国との関係です。一九八三年一月、中曽根康弘首相が訪米した際、日本をソ連に対抗するための「不沈空母」と位置付ける趣旨の発言をして物議をかもしましたが、日本列島が冷戦期にソ連軍の太平洋進出を阻止する天然の要塞として、重要な役割を果たしてきた側面は否めません。
冷戦構造の崩壊によっても、米国にとっての日本の戦略的な重要性は大きく変化していません。その原因は朝鮮半島という不安定要因と中国の軍事的な台頭です。朝鮮半島と台湾海峡という不安定要因を抱えるこの地域で、日本に基地を確保できることの米国のメリットは大きいのです。
さらに、日本は、中東から朝鮮半島までユーラシア大陸に沿って広がる潜在的な紛争地域、いわゆる「不安定の弧」の東端に位置しています。米軍は「不安定の弧」の内側に基地やアクセスーポイントが少なく、ここに迅速に兵力を投入するのに、日本の戦略的な価値は高いと言えます。
軍事技術の進歩により、大量の装備・人員をかつてないスピードで輸送できる部隊展開能力を持つとはいえ、太平洋をはさんで米国西海岸から空母戦闘群が西太平洋に到達するには約二週間を要します。戦闘様相の展開スピードが速い現代において、軍事作戦でこの遅れは致命的になりかねません。
大規模な米兵の駐留には食料など大量の生活物資も不可欠です。国際的に見ると、日本ほど大量物資の確実な保管・流通を可能としている国は限られています。米軍が保有する装備や武器などの整備面でも、技術的に信頼感の持てる日本は最適と位置付けられているのです。
地政学的な優位性、豊富な物資、艦艇・航空機の整備・修理に必要な熟練した労働力など、どれをとっても日本は米軍の駐留先として最高点に近い評価なのです。
手放したくない基地 さらに、日本は受け入れ国支援(HNS ; Host Nation Support通称・思いやり予算)でも、世界で群を抜いています。○三年度版の米国防総省報告によると、日本の思いやり予算は総額四六億一四八五万ドル。米兵一人当たり換算で、年間約二一万ドルが日本国民の税金から支払われている。ちなみに、韓国は約二万ドル、ドイツは一万ドルあまりに過ぎません。
憲法解釈で集団的自衛権の行使が禁じられているため、米軍やその他の国の軍隊と軍事作戦で十分に協力できない制約を差し引いても、日本の支援は突出しており、数ある米軍の海外駐留先の中で日本は決して手放したくない基地なのです。
今年二月一日、米国防総省は四年ごとに議会に報告する「国防計画見直し(QDR)」を発表しました。QDRで国名を明示してはいないものの、最近のアフガン、イラク戦争以外の核心テーマは「中国」でした。
QDRは「重要地域でわが国益を守り、同地域の安全を保障する能力は米国にとっては不可欠。(中国の)近接戦略は、諸外国がある地域に近接して戦力投入することを拒否することだ。米国の圧倒的軍事力をなくしては同盟国や関係国の安全保障上の協力関係に疑念が生じ、紛争の可能性が高まる」と述べています。
「重要地域」とは台湾を指すとの見方が支配的で、中国の軍事的な台頭と覇権拡大に対する警戒感を表すと同時に、米側から見た日米安保の必要性を裏書きしています。
Q.9 新旧ガイドラインとは何を取り決めたものでしょうか? 回答:久江雅彦
米軍と自衛隊の具体的な協カヘ 日米防衛協力指針(ガイドライン)は一九七八年、一九九七年の二回にわたり策定されました。日米安保条約の締結後も長年にわたり、米軍と自衛隊の具体的な協力にいて取り決めがなかったのは、五二年の保安隊発足を経て五四年に誕生した自衛隊の軍事的な実力が強大な米軍にとって取るに足らない存在だったからです。
安保条約第五条は、日本有事の際に日米両国の共同対処行動が規定はされているものの、実際にそうした事態が起きた場合、自衛隊と米軍が如何に調整された措置をとり協力していくのか全く検討すらなされていませんでした。現実には米軍のみが頼りになる存在と位置付けられていたため、自衛隊との協力は真剣に検討されなかったのです。
しかし、第一次防衛力整備計画(一次防)〜四次防を経て、現在の防衛計画の大綱の原型である最初の「防衛計画の大綱」(一九七六年一一月二五日閣議決定)の頃には、陸海空自衛隊の防衛力もそれなりに整備されてきました。冷戦後半の象徴的な装備品であるF-15戦闘機やP‐3C対潜哨戒機の調達決定がなされたのも七七年二一月でした。
冷戦の最も厳しい七〇年代後半、日本に対して武力攻撃が発生した際、日米両国は具体的にどのような措置をとり、どのような範囲で協力していくかについて一定のルールと枠組みとして策定されたのが一九七八年の旧ガイドラインです。
防衛協力小委員会で協議 日本有事での対応を取り決めるため、一九七五年八月、当時の三木武夫首相とフォード米大統領との会談及び坂田道太防衛庁長官とシュレジンジャー米国防長官との会談で、日米が協力すべき措置について協議することが了解されました。これに基づき、一九七六年七月、日米安全保障協議委員会(2プラス2)=ただし、当時は日本側の外務大臣、防衛庁長官に対して、米側の代表は駐日米大使、太平洋軍司令官=の下部機構として、防衛協力小委員会(SDC)が設置され、同小委員会は、緊急時における自衛隊と米軍の共同対処行動の指針に関して研究・協議を行うことを目的としました。
SDCは二年余にわたり、作戦、情報及び後方支援の三部会での専門的検討を踏まえ、日本に武力攻撃がなされた場合の諸問題について協議。旧ガイドラインを取りまとめて、七八年一一月の2プラス2で了承されました。日本への侵略を未然に防止する態勢、日本に対する武力攻撃に際しての作戦構想や指揮・調整、情報、後方支援活動などの対処行動等についての基本的な事項を明記しています。
この時期以降、日米間の部隊レベルの共同訓練・演習が始まります。一九八〇年二月には海上自衛隊が環太平洋合同演習(リムパック)に加わり、一九八一年一〇月に陸上自衛隊が初めての日米共同訓練に参加。航空自衛隊は一九八三年一二月に初めての日米共同指揮所演習を実施しました。
冷戦後、日米両国は日米安保体制の意義・役割について協議してきましたが、その集大成が一九九六年四月の橋本龍太郎首相とクリントン大統領による「日米共同宣言」でした。日本の防衛を主目的とした冷戦時代の日米同盟について「アジア太平洋地域の平和と安定」への寄与を打ち出し、同盟の裾野を拡大しました。これを背景に新ガイドラインが策定され、朝鮮半島有事を想定した周辺事態法の成立につながったのです。
北朝鮮核危機から新ガイドラインヘ 日米安保共同宣言、新ガイドライン策定の大きな契機となったのは一九九四年の北朝鮮核危機でした。
国連安全保障理事会では、対北朝鮮経済制裁案が真剣に討議され、米国は制裁案が中国の拒否権行使によって採択されなくても、日米韓などによる独自行動をとることも検討し、日本に協力を打診しました。しかし、当時の日本の連立政権の態度は曖昧で、日本の領域外において日本が米軍の活動に協力・支援することには消極的でした。何より、日本有事のケースを除いて、米軍と自衛隊を始めとする協力の枠組みが欠如していました。
一九九四年末から始まった日米安全保障再定義の作業で、日米当局者は朝鮮半島情勢を想定し、日本がどのように米軍の活動を支援・協力できるか検討を重ねた結果、日米共同宣言の中に、旧ガイドラインの見直しのための作業を明記することになったのです。
旧ガイドラインは、冷戦期の厳しい極東情勢に対応するため五条事態を中心とした米軍と自衛隊の防衛に関する協力態勢と共同対処の要領を決めたものですが、冷戦後の複雑な安全保障環境のもとで六条事態に対応する共同対処要領が必要となってきたのです。
さらに冷戦後、共通の「敵」が消えた中で、日米同盟を強化する契機として、日米両国政府は、安保共同宣言を発出、九六年六月にはSDCを改組して、ガイドライン見直しの作業に着手しました。九七年九月の2プラス2で、新ガイドラインが了承されました。 新ガイドラインは安全保障面での日米協力について「平素から行う協力」「日本に対する武力攻撃事態に際しての対処行動等」及び「日本周辺地域における事態での日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(「周辺事態」)の協力」の三分野について協力事項を規定。前二分野については、基本的には旧ガイドラインとその成果を基盤とした見直し作業でした。
周辺事態法へ 新ガイドラインの核心は周辺事態での協力です。周辺事態は地理的な概念ではなく、事態の性質に着目したものと定義されました。旧ガイドライン下では十分でなかった周辺事態における日米協力の在り方の具体的な検討について新ガイドラインでは詳細な内容が記され、関連法が整備されました。
関連法は新ガイドラインに盛り込まれた「周辺事態での協力」のうち、当時の法律では実施できない活動を可能にするために制定されました。九九年五月に周辺事態法のほか、在外邦人救出に自衛艦の派遣を可能とする改正自衛隊法、改正日米物品・役務相互提供協定(ACSA)が成立。船舶検査に関する項目は当時の与党内でまとまらず、周辺事態法の修正協議で切り離されましたが、二〇〇〇年回一月に別個の法律として成立しました。
周辺事態法は日本側が周辺事態に際し、米軍の活動に対して施設の使用のみならず、補給、輸送、整備、衛生などの後方地域支援を実施できるよう協力項目の具体例を定め、運用面における日米協力として警戒監視や機雷の除去について規定しました。 ポイントは、米軍の活動に対し、日本領域外の公海上で輸送という後方地域支援を担う道を開いたことです。
新ガイドラインに基づき、日本有事の場合の共同作戦計画及び相互協力計画、朝鮮半島有事を想定した相互協力計画の策定作業に着手、必要に応じて更新しています。新ガイドラインとその実効性を担保する周辺事態法など関連法により、後方分野の支援であれ、米軍と自衛隊の連携強化が一気に加速したのです。
Q.10 日米安保再定義の目的は何でしょうか? 回答・久江雅彦
北朝鮮の核疑惑 冷戦の終結は、東アジアに安定した安全保障環境を生み出しませんでした。最も懸念されたのが北朝鮮の核疑惑です。
冷戦の終結は、北朝鮮を取り巻く環境を一変させました。一九八九年五月の北京での中ソ首脳会談により、両国の党・国家関係は正常化し、一九九〇年九月にはソ連は韓国との間に国交を樹立しました。一九九二年八月には今度は中国が韓国との国交を樹立。これらは北朝鮮にとっては「裏切り」に映ったことでしょう。また、宿敵・韓国は一九八八年のソウル五輪を成功させ、漢江の奇跡と呼ばれた経済成長を遂げていました。こうした中で北朝鮮は核開発に自らの安全保障を求めたのかもしれません。
他方、日本側の日米安保に対する見方も冷戦の終結によって変化していました。冷戦期、極東ソ連軍及びウラジオストクを中心とするソ連太平洋艦隊の増強が日本の安全保障上の最大の懸念で、これに対抗するため日本は在日米軍を頼みとする一方、北海道で陸上自衛隊部隊を増強させると同時に、海上自衛隊の対潜哨戒機P−3CのI〇〇機態勢、航空自衛隊要撃機戦闘機F−15の二〇〇機態勢を整えていました。
しかしソ連は一九九一年二一月に解体。後継のロシアに移行し、極東に存在するロシア陸海空軍の増強傾向は変化しました。ロシアによる日本侵攻の現実性は遠のき、日米同盟は共通の「敵」を失ったのです。敵のいない同盟とは何でしょうか。
北朝鮮の第一次核危機が起きたのは、日本の安全保障は今後どうあるべきかという問題意識が高まってきた時期とも重なっています。
一九九〇年八月、イラク軍がクウェートに侵攻して始まった湾岸戦争に対する日本の貢献は一三〇億ドルの拠出と掃海艇派遣にとどまり、しかも当時のブッシュ政権から「Too Little Too Late(少なすぎる。遅すぎる)」と酷評されました。多国籍軍への協力に自衛隊員の派遣を試みる「国連協力法案」が国会に提出されましたが、一九九〇年一〇月に廃案となりました。
これを教訓として、当時自民党幹事長だった小沢一郎が三党合意をまとめて「国際平和協力法案」を国会に提出。一九九二年六月に成立し、この年九月に初めて自衛隊がカンボジアでの国連平和維持活動(PKO)に派遣されました。冷戦終結後の自衛隊を取り巻く環境は様変わりしたのです。
こうした状況の中で、一九九二年二一月の中期防衛力整備計画(一九九一〜九五)の修正に関する安全保障会議・閣議決定で、防衛力のあり方について、国際情勢の変化等に的確に対応するため、精力的に検討を行い、一九九五年度中に結論を得ることとされました。七六年に策定された最初の「防衛計画の大綱」の見直しです。
樋口レポートの衝撃 これを受け、一九九四年二月、当時の細川首相は安全保障会議で、私的懇談会「防衛問題懇談会」(座長:樋口廣太郎・アサヒビール会長)の発足を表明しました。同年八月には、防衛問題懇談会は「日本の安全保障と防衛力のあり方 二一世紀へ向けての展望」と題する報告書(通称「樋口レポート」)を村山富市首相に提出しました。 レポートには、「第一は世界的ならびに地域的な規模での多角的安全保障協力の促進、第二は日米安全保障関係の機能充実」として、「多角的安全保障協力」を「日米安全保障協力」よりも順番を前にしていました。
さらに副題として「冷戦的防衛戦略から多角的安全保障戦略」とついた「第三章」で「日米安全保障協力」よりも「多角的安全保障協力」を前にして詳述していました。
このため、米国関係者から日本が日米同盟を軽視し始めたのではないかとの警戒心が示され、日米同盟が「漂流」しているとの思いを日米両国の安全保障関係者が共有するようになりました。対ソ連同盟であった日米同盟に新たな息吹を与える必要だとの認識から、日米両政府は「日米安保再定義」に向けて冷戦後の日米安保体制の意義・役割について協議を開始します。
日米安保を再確認 一九九五年九月四日、沖縄で駐留三米兵による女子児童暴行事件が発生。同月二九日には駐留軍用地特措法による使用権原取得手続の一部を沖縄県知事が拒否しました。在日米軍の存在に沖縄の怒りが爆発したのです。九五年一一月一九日に、村山首相とゴア副大統領の会談で、沖縄に関する日米特別行動委員会(SACO)の設置を合意、日米間の協議は急ピッチで進められました。九五年一一月二八日に新たな「防衛計画の大綱」が閣議決定されました。
この大綱は日米安保体制に関し「日米安全保障体制を基調とする日米両国間の緊密な協力関係は、安定的な安全保障環境の構築に資するとともに、この地域の平和と安定にとって必要な米国の関与と米軍の展開を確保する基盤となり、我が国の安全及び国際社会の安定を図る上で、引き続き重要な役割を果たしていくものと考えられる」「米国との安全保障体制は、我が国の安全の確保にとって必要不可欠なものであり、また、我が国周辺地域における平和と安定を確保し、より安定した安全保障環境を構築するためにも、引き続き重要な役割を果たしていくものと考えられる」と記述され、樋口レポートで生じた米側の疑心を振り払うかのように、「日米安保体制」という言葉がこれでもかと繰り返されています。
日米安保共同宣言の意味 一九九六年三月、初の総統選挙を控えた台湾に対し、台湾「独立派」と見られていた李登輝総統の再選を阻むために、中国はミサイル発射訓練と称して脅しをかけました。これに対し、米クリントン政権は米空母二隻を向かわせる旨発表。この米国からの対抗措置に中国は屈せざるを得ませんでした。
また台湾への脅しは逆効果で、李登輝は再選。中国はこれ以降、米国空母を寄せ付けないため、海空軍の増強に本腰を入れていくことになるのです。
このように、東アジアでは朝鮮半島や台湾海峡における緊張が継続するなど不透明・不確実な要素が残されており、安定的な安全保障環境が確立されるまでは至っていませんでした。
そこで、一九九五年二月に発表された「東アジア戦略報告書(EASR)」でも、米国は、アジア・太平洋地域における重要な国益を守るため、引き続き強固な前方展開戦力を維持する必要性が強調されました。
EASRでは冷戦後のアジア・太平洋地域における米軍の兵力削減は完了し、これ以上の戦闘能力の変更は計画していないとして、この地域における前方展開戦力を当時の現状である約一〇万人の水準に維持することを再確認しました。
日米安保体制の意義・役割に関する日米間の協議の集大成として一九九六年四月一七日に日米安全保障共同宣言が橋本首相とクリントン大統領の間で発表されました。
この共同宣言ではまず、日米安保条約を基盤とする日米同盟関係が二I世紀に向けてアジア・太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けることを再確認した上で、次の事項について改めて確認しています。・日本の防衛のための最も効果的な枠組みは、自衛隊の適切な防衛能力と日米安保体制の組み合わせに基づくものであり、日米安保条約に基づいた米国の抑止力は引き続き日本の安全保障のよりどころである・現在の安全保障の下での米国のコミットメントを守るためには、日本におけるほぼ現在の水準を含め、この地域において、約一〇万人の前方展開軍事要員からなる現在の兵力構成を維持する必要がある・日本が日米安保条約に基づく施設及び区域の提供並びに接受国支援などを通じ適切な寄与を継続する 安保共同宣言には、日本有事以外の米軍と自衛隊などの具体的な協力の柱を定める「日米防衛協力指針」(ガイドライン)の見直しも明記され、新ガイドライン、それに伴う周辺事態法などの制定につながっていきます。
Q.11 北朝鮮の核ミサイル開発に対し、安保の枠組みではどういう対応が考えられてきたのですか? 回答:半田 滋(東京新聞)
ミサイル危機と安保条約 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は二〇〇五年二月一一日、「自衛のための核兵器を製造した」と、核兵器の製造・保有を公式に宣言しました。同時に六者協議の無期限中断を表明しました。
六者協議は○三年、北朝鮮の核問題を解決するため米国、北朝鮮、中国、ロシア、韓国、日本が参加する多国間協議として設置されましたが、中断と再開を繰り返し、○八年て一月から再び中断されています。
北朝鮮が核兵器と弾道ミサイルを開発する理由は、米国の攻撃からの抑止力としてとみられますが、同時にイラン、パキスタンなどヘミサイル技術を輸出し、外貨を獲得する貴重な財源にもなっています。
ブッシュ米大統領が「ならず者国家」と命名した国のうち、イラク攻撃(二〇〇三年)が始まると、リビアはすぐに白旗を挙げましたが、北朝鮮とイランは、逆に米国からの攻撃を避けるために、核・ミサイル開発へと突き進みました。 北朝鮮は○六年七月、日本海に向けて弾道ミサイル七発を連射、同年一〇月には地下核実験を行ったと発表しました。○九年四月には射程約六〇〇〇キロの「テポドン2」を太平洋に向けて発射、同年五月には二度目の地下核実験を行ったと発表しました。 現状では核兵器の小型化、弾頭化は実現しておらず、また米本土まで届く長射程の弾道ミサイルも保有するには至っていません。
しかし、米国防情報局のメイプルズ長官は○九年三月の上院国防委員会で、「北朝鮮は近く核弾頭を弾道ミサイルに成功裏に搭載できるかもしれない」と証言、北朝鮮が近く核ミサイルを保有する可能性は十分あると述べました。
では、北朝鮮が核ミサイルを保有したとき、米国はどう出るのでしょうか。
前例があります。一九九三年、北朝鮮は核開発を目指し、核拡散防止条約(NPT)脱退を表明しました。これに対し、クリントン政権は北朝鮮の核開発施設、寧辺の爆撃を計画、米韓共同作戦計画「5027」を実施に移そうとしました。朝鮮半島で戦端が開かれる寸前までいったのです。
しかし、米軍五万二〇〇〇人、韓国軍四九万人、民間人を含めれば、死傷者は約一〇〇万人を超えるという見積もりが出て、アメリカは攻撃を踏みとどまったといいます。
当時、在日米軍司令部は防衛庁統合幕僚会議(現防衛省統合幕僚監部=統幕)に九九四項目の対米支援を要求。最終的には一〇五九項目の要求が示されました。そこには、米軍による民間空港や港湾の使用、自衛隊が米軍のために行う輸送、補給、救難などが列挙されていました。 このすべての「対米支援」について日本側は「集団的自衛権の行使は認められていない」とゼロ回答。米側は強く日本に政策の見直しを要求し、これが九六年の日米安保共同宣言、九七年の日米ガイドライン、九九年の周辺事態法の策定につながったのです。九四年には不可能だった「対米支援」がわずか五年後には可能になったのです。
第二次朝鮮戦争? 北朝鮮は社会主義強国を意味する「強盛大国」の建設を目指し、「二〇一二年に上げる強盛大国の祝砲」(○九年三月三一目労働新聞)と「二〇一二年」を強調しています。
防衛省幹部は「二〇一二年までの核搭載弾道ミサイル保有を目指しているのだろう。だが、米国が黙ってみているはずがない」と第二次朝鮮戦争の引き金は米国が引くとの見方を示します。
日本には日米安保条約にもとづき陸海空海兵隊の基地が置かれています。北朝鮮の将軍なら、米軍の出撃を阻止し、日本国民の厭戦気分を高めるために日本を攻撃対象とする他ないと考えるでしょう。
統幕幹部によると、第二次朝鮮戦争が勃発した場合、北朝鮮が日本に振り向けられる戦力は、一〇万人とされる特殊部隊の一部と中距離・短距離ミサイルによる基地攻撃や政経中枢への攻撃だといいます。日本列島全域を射程に収める「ノドン」は二〇〇発あり、北九州、中国地方まで届く「スカッドB」はさらに多いそうです。
気安めのミサイル防衛 一方、日本政府は九九年四月に米国防総省が米議会に出した「東アジアの戦域ミサイル防衛に関する報告書」を受けて、○三年て一月、ミサイル防衛(MD)システムの導入を閣議決定しました。
日本のMDは、北朝鮮が発射する弾道ミサイルを日本海のイージス護衛艦が艦対空ミサイル「SM3」で迎撃し、討ち漏らしたら地上に置かれた地対空ミサイル「PAC3」で対処する二段階方式。既に八五〇〇億円の巨費が投下されました。
この自衛隊に配備されたMDは、米国による北朝鮮攻撃を後押しする”魔法の道具”です。「北朝鮮がミサイルを撃ってきても、MDさえあれば大丈夫」と日本国民を安心させる精神安定剤になるからです。
でも気休めにはなっても実際当たるかどうかは、SM3、PAC3を開発した当の米国でさえ、命中率を疑問視する声が大きいのが現実です。
日本中の空港、港湾を米軍の航空機や艦艇が自由に使える周辺事態法も米国にとって便利この上なし。日米安保条約の「ありがたみ」を米軍は全身で感じることでしょう。
米国まで届くテポドン2やその改良型への対処は、日米共同開発を進めている「SM3ブロックUA」なら対処可能とされています。ただし、海上自衛隊のイージス護衛艦が米国を狙った北朝鮮の弾道ミサイルを迎撃すれば、集団的自衛権の行使になります。自民党政権でさえ踏み切れなかった集団的自衛権行使に民主党政権は踏み込めるのでしょうか。
悪魔の教典か? だが、自衛隊の将官はこういいます。
「何も心配はいらない。第二次朝鮮戦争が始まれば、北朝鮮の弾道ミサイルが日本に雨あられと降ってくる。そうなれば、もはや日本有事。ともに戦う米国を守るのは自衛権行使の延長線上にあり、憲法上の問題には発展しない」
こう見てみると、日米安保条約は、米国が攻撃を仕掛けやすくし、日本には大きな被害を及ぼして破滅に追いやる「悪魔の教典」になっているといえるかもしれません。
Q.12 9・11後のアフガン侵攻、イラク戦争への日本の協力は、安保によって義務付けられていたのですか? 回答:半田 滋
アメリカの戦争と日本 二〇〇一年九月一一日、ニューヨークの世界貿易センターなどを目標にした同時多発テロが起きました。米国は、テロリスト集団「アルカイダ」の犯行と決めつけ、翌月七日、アルカイダを支援していたイスラム原理主義勢力「タリバン」政権が支配していたアフガニスタンの首都カブールを空爆しました。
同日、米国は国連安保理議長宛に書簡を出し、この中で「九月一一日の米国に対する武力攻撃を受けて、米国は他の諸国とともに個別的又は集団的な固有の自衛の権利の行使として行動を開始した」と、アフガン攻撃は「自衛戦争」であることを明確にしました。英国は同日、やはり安保理議長宛の書簡で「集団的自衛権の行使」として参戦したと報告しました。アフガン攻撃は日本政府がいうところの「テロとの戦い」などという、あいまいなものではありません。明らかに「米国の戦争」なのです。
日本は英国と異なり、憲法第九条の制約から戦闘正面には立てません。しかし、小泉純一郎首相は官邸で「無駄な時間を使わないように」というたった一言の指示を出しました。
同月一五日午後、内閣法制局次長に加え二人の副宣房長官補、外務省、防衛庁の幹部らが官邸の古川貞二郎内閣宣房副長官室に秘密裏に集まり、どんな対米支援が可能か、検討を始めました。
米国では柳井俊二駐米大使が米国務省でア〜ミテージ国務副長官と会談し、自衛隊派遣を求める公電を日本に送りました。アーミテージ氏が語ったとされる「ショー・ザ・フラッグ」は、本来「旗幟鮮明にせよ」という意味ですが、「自衛隊を派遣せよ」と意訳されたのです。
インド洋で米艦艇に洋上補給するテロ対策特別措置法が、同年一一月、一ヵ月足らずの国会審議で成立。政治家や官僚は「米国によるテロとの戦いを支援する」と語り、これに共感する世論を追い風にしました。
当時、官房長官だった福田康夫元首相は東京新聞の取材に、「わが国としてはスピーディーにできた。世界貿易センターが崩れ落ちた衝撃が、それほど大きかったということだ」と振り返っています。
小泉首相、福田宣房長官が「同盟国の危機に立ち上がらなければならない」と考えたことは疑いがありません。日米安保条約がなければ、憲法九条の抑制が効き、自衛隊を差し出す支援策とは別の対米支援が検討されたかも知れません。
それから二年後のイラク戦争は、国連による大量破壊兵器の査察が進行中で、英国を除くほとんどのヨーロッパ諸国、ロシア、中国などが開戦に反対しました。しかし、米国は○三年三月、イラク戦争に踏み切りました。
小泉首相は世界に先駆けて、この戦争を支持しました。するとローレス米国防副次官補は「ブーツーオンーザーグラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)」と陸上自衛隊を名指しして派遣を要求。日本は同年七月、イラク特別措置法を制定しました。
ところが、秋に衆院選挙を控え、世論の動向を意識した政府は自衛隊派遣を決断しませんでした。すると、前出のアーミテージ氏は日本の外務省高官に「逃げるな、これは茶会じゃない」と日本が出欠が選べる立場ではないと脅し、陸自派遣が無理なら「実用的な支援から始めて欲しい」と航空自衛隊のC130輸送機の派遣を求めたのです。
衆院選挙が終わった翌こ一月に、政府は自衛隊イラク派遣を閣議決定しました。アーミテージ氏の要求通り、まずC130輸送機を送り込み、年が明けてから陸自の六〇〇人が戦火くすぶるイラクに入りました。
宿営地の選定作業は慎重に行われました。「万が一にも襲撃され、撤退か否か、政治に決断を迫るような事態を引き起こさないことが、一番の責務だ」(イラク派遣された陸自幹部)と考えたからです。
その結果、イラク一八県の中で一番人口密度が低いムサンナ県が選ばれました。陸自の任務は施設復旧、給水などの人道復興支援。本来なら人口が多い地域で活動するのが筋ですが、過疎地が選定されたところからも「派遣のための派遣」、つまり「米国に見せるための派遣」であったことが分かります。イラクへの自衛隊派遣の根拠について、小泉首相は国会で、憲法前文を掲げてみせましたが、実際は日米安保こそがその根拠であったことが分かります。
県都サマワの宿営地は、度重なるロケット弾攻撃を受けて、命中しても死傷者が出ないよう、要塞化が図られました。サマワと同規模の宿営地が山梨県の北富士演習場に造られ、本物のロケット弾が撃ち込まれました。試行錯誤が繰り返され、一〇〇億円の費用と一年以上の月日を要しました。完成すると、隊員は外出を控え、引き龍りがちになりました。
隣国クウェートに拠点をおいた航空自衛隊は、陸自撤収後、米兵のバグダッド空輸を開始しました。この空輸活動に対し、○七年四月、名古屋高裁は「他国の武力行使と一体化し、憲法九条などに違反する」と違憲判断を下しました。「士気が下がる」と話す空自幹部もいましたが、政府は傍論部分の指摘で拘束力はないとして活動を継続させました。
テロ特措法とイラク特措法による活動が評価され、○六年二一月、防衛庁設置法と自衛隊法が改定され、防衛庁は防衛省に、また自衛隊の海外活動は本来任務に格上げされました。 陸自は海外派遣の専門部隊「中央即応集団」を新編し、自衛隊の活動は国内から海外へと軸足を移しつつあります。
そして○六年五月に日米合意した米軍再編では、遂に米軍と自衛隊の一体化が明確に打ち出されています。現状では憲法九条の制約により、海外へ派遣される自衛隊の活動は米軍の後方支援にとどまっていますが、その活動でさえ名古屋高裁判決により、違憲と指摘された以上、海外派遣が進めば進むほど憲法改定を求める声が高まらざるをえないでしょう。
米国のアフガン攻撃、イラク戦争を通じて、日本に自衛隊派遣の圧力をかけ続けたアーミテージ氏は、ブッシュ政権が誕生する前の二〇〇〇年一〇月、超党派の知日派グループで作成した「アーミテIジーレポート」を公表。その中で集団的自衛権行使の解禁を求め、○七年の「第二次アーミテージ・レポート」でも同じ要求を繰り返しました。
「日米安保条約があるから、米国が日本を守ってやっている」との「上から目線」は、内政干渉と紙一重です。 米国の圧力、自衛隊の「戦地」派遣、日米の軍事一体化、改憲へ、とつながる水流の底に日米安保条約が潜んでいるのです。
Q.13 米軍再編によって日米安保はどうなるのですか? 回答・久江雅彦
抑止力の維持と地元負担の軽減 在日米軍再編は二〇〇二年二一月に日米安全保障協議委員会(2+2)で合意した「防衛政策見直し(DPRI=Defense Policy Review Initiative)」プロセスの中核をなしています。 これは世界規模の再編の一環で、「9・11」などの国際テロリズムや大量破壊兵器の拡散といった新たな脅威が現出した安全保障環境に対応するため、同盟関係を強化するのが狙いです。日本では、「抑止力の維持」と「地元負担の軽減」がキーワードとなりました。
在日米軍再編の最終報告は○六年五月、外務、防衛担当閣僚による2プラス2で合意し、在沖縄米海兵隊約八〇〇〇人のグアム移転を含む基地再編を二〇一四年までに完了すると明記。自衛隊と在日米軍の司令部機能統合で、日米の軍事的「一体化」が加速し、日米同盟は「新たな段階に入る」と宣言しました。
米軍キャンプ座間(神奈川県)に米陸軍第一軍団司令部(ワシントン州)を改編・移転し、陸自中央即応集団司令部を設置。横田基地(東京都)には空白航空総隊司令部を移転。日米共同統合運用調整所の新設で、日米共同でのミサイル防衛(MD)態勢を強化しました。
これらは、海上自衛隊自衛艦隊司令部と米第七艦隊司令部が横須賀に共存し、伝統的に協力関係を推進してきたことを真似たものです。 米軍厚木基地(神奈川県)の空母艦載機の岩国基地(山口県)への移転は一四年までに完了すること、艦載機の恒常的な離着陸訓練施設を選定することも合意七ました。
沖縄関連では、普天間飛行場をキャンプーシュワブ沿岸部に移設するなど、五施設(計約九〇〇ヘクタール)の全面返還が決まりました。沖縄の米軍基地再編では、海兵隊移転経費一〇二億七〇〇〇万ドルのうち五九%、六〇億九〇〇〇万ドルを日本が提供、キャンプーハンセンと嘉手納基地を日米共同使用することとし、日米一体化が加速したと総括できるでしょう。その狙いは日米の「共通戦略目標」に凝縮されています。
最終報告に先立ち、日米は○五年二月の2プラス2で、国際的なテロなど「新たな脅威」や北朝鮮の核開発、台湾海峡での中台有事などの不安定要因に対処するため日米同盟を強化する共通の戦略目標で合意、在日米軍再編や自衛隊と米軍の役割・任務見直しの協議加速を確認する共同声明を発表しています。
中国への影響力増大への懸念 軍事、経済両面で急速に台頭する中国に、対話と抑止の硬軟両様で臨む姿勢を打ち出したのが共通戦略目標の大きな特徴です。台湾有事での米軍と自衛隊の協力には直接言及していないものの、米政府は自衛隊に期待を寄せ、その後、台湾有事での日米協力の検討が水面下で始まっています。
米政府は将来的に北朝鮮よりも中国を警戒しており、中国の覇権拡大を押さえ込むためには、日米同盟の強化など抑止力の堅持が不可欠との基本方針で、在日米軍再編を含む軍事戦略見直しを進めています。
米国の台湾関係法は「専守防衛」目的の武器を台湾に供与することを明記。台湾の安全が脅かされた場合は、大統領と議会が協議の上で「適切な措置を決定する」と武力行使に道を開いています。
○四年一一月の在日米軍再編をめぐる日米審議官級協議では、米側が中台紛争発生時の日米軍事協力を要請しましたが、日本側は返答を避けました。日本は中国への配慮から、日米防衛協力新指針に基づく周辺事態法の対象範囲について「地理的概念ではない」との答弁を貫いてきたのです。
沖縄への負担軽減? 他方、「地元負担の軽減」の原則は、在日米軍基地受け入れ先では多大な負担が強いられるため「地元負担の軽減なくしては在日米軍の安定的な駐留はあり得ない」との発想に基づいています。負担軽減の大半は沖縄を想定していますが、これは米国にとって在沖米軍の安定的駐留がそれだけ重要という認識を反映しているといえるでしょう。
米軍普天間飛行場の返還や在沖海兵隊八〇〇〇人のグアム移転は、負担軽減の最大のプロジェクトですが、これが実現しても沖縄の過重な負担が完全に解決するわけではありません。
既に日米両政府は一九九六年、普天間返還と移設で合意し、日本は九九年に沖縄県名護市辺野古沿岸域への移設を閣議決定。二〇〇二年の基本計画では沖合埋め立てとしましたが、両国は○六年の在日米軍再編の最終報告で、辺野古のキャンプーシュワブ沿岸部への移設先変更とV字形滑走路建設、一四年までの移設完了で合意しました。
しかし、○九年の政権交代後、民主党政権は移設先の再検討を表明。鳩山由紀夫首相は米国と地元の理解を得て五月末までに政府案を決めるとして、鹿児島県・徳之島へのヘリコプター部隊の移設を模索していますが、地元自治体は猛反発しています。
米側も沖縄に駐留する地上部隊と訓練施設を合わせた三位一体の運用が不可欠として、徳之島案を拒否。さらに鳩山政権は、現行案の工法をくい打ち桟橋(QIP)方式に変更し沖合へ移動させる案を検討。しかしこうしたまやかしの”奇策”が実現できる保証は全くありません。
普天間移設問題の不安定化は、日米安保、在日米軍再編にも影を落としつつあります。
Q.14 日米安保は他国からどのように評価されていますか? 回答:久江雅彦
「瓶のふた」論 米国から見て、日米安保条約の意義は条約に書かれている日本防衛と極東の平和と安全のための在日米軍基地の提供以外に、第三の目的があると言われていました。それは、日本の自主的な軍事大国化への歯止めとしての役割です。この考え方を以前、在日米海兵隊のスタックポール司令官は、在日米軍は日本の軍国主義を封じ込めるための「瓶のふた」だと表現しました。米政府はこれを否定しましたが、この見方は米国のみならず、太平洋戦争中に日本からの軍事侵略を受けた近隣諸国にも長い間共有されてきたことは厳然たる事実です。
一九七〇年代の米中接近の際も、当時の中国政府首脳から米政府首脳に対し、この観点から、中国は日米安保を支持するとの発言があったと伝えられ、東南アジア諸国からも同じような見解が表明されることがありました。現在では「瓶のふた」論を日米安保の主たる意義として位置づける発言はほとんど表面化していないものの、依然として潜在的に存在していることは否定しきれないでしょう。
中国へのカウンターバランス? 一方、近年中国は政治、経済的にも地域の大国として着実に成長し続けており、軍事面では、継続する高い国防費の伸びを背景に軍事力のさらなる近代化に努めています。中国は、台湾問題を国家主権と領土保全に関わる問題と位置付け、妥協を許さない姿勢を崩していません。
さらに最近では、南シナ海で、東南アジア諸国などと領有権について争いのある南沙・西沙群島における活動を強化し、域内各国がその動向に注視しています。
中国の力の増大は、東南アジア諸国にとって不安要因であり、これに対抗する存在として、地域の米国のプレゼンスに寄せる期待が高まっていると言えるでしょう。米国自身も、今年二月に発表したQDRで、今後対処しなければならない対象として中国を強く暗示しました。その意味で、日米安保体制は中国に対するカウンターバランスとしての色彩がより濃厚になっているのかもしれません。
また、昨年一二月一六日付の北朝鮮の内閣機関紙「民主朝鮮」は、鳩山政権が米軍普天間飛行場の移設問題を再検討していることに触れ「民主党政権が対米追従外交から脱却し、アジアを重視する外交戦略を進めたあおりを受け、在外米軍再編成に困難が生じることになった」と指摘。「日本政府の対米政策は、沖縄県住民はもちろん、日本社会の全面的な支持を得ている」と高く評価しました。日本と米政府の関係の揺らぎを肯定的にとらえる記述は、北朝鮮の日米同盟に対する強い警戒感の裏返しと言えるでしょう。
雑誌「世界」6月号より
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2010/06/directory.html
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