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【今日の読み物(スコープなど)】
<スコープ>小沢流の終焉 田中真氏ら打診不発
2010年6月5日 紙面から
民主党代表選挙は、小沢系グループの一部が支持した樽床伸二氏を菅直人氏が大差で破り、発言力確保を狙った小沢一郎氏の「野望」は砕かれた。小沢氏はぎりぎりまで「打倒菅」を模索した。それは、どんな暗闘だったのか−。(民主党取材班)
「出馬してほしい」
小沢氏は三日昼、田中真紀子元外相と都内で会い、決断を求めた。小沢氏は二日夜にも東京・目白の田中邸を訪問している。プライドの高い小沢氏が二度も足を運んで頭を下げたのだ。しかも田中氏は、一時は国民の人気を集めたものの、小泉政権時代、あまりにとっぴな言動で外相を辞めさせられた人物だ。
そんな田中氏を頼りにしなければならないほど、小沢氏は追い込まれていた。
小沢氏の要請に田中氏は「その手にはひっかからない」とすげなく断り、「自分で出てください。勝負をするのはあなただ」と小沢氏自身の出馬を求めた。
売り言葉に買い言葉で小沢氏は「じゃあ、出ますよ」と言い放ったが、「政治とカネ」の問題を抱え、「小沢支配」が争点になった代表選では勝算はない。惨敗すれば、それこそ政治生命の危機にさらされてしまう。
小沢氏は別の候補を探し求めた。
「樽床? よく知らんぞ」
小沢系グループの一部は樽床氏に白羽の矢を立てたが、閣僚経験もなく無名に近い樽床氏では話にならないと、小沢氏は判断していた。
小沢氏が田中氏と同時並行で口説いていたのが、原口一博総務相と海江田万里氏だった。両氏とも小沢氏と関係があり、樽床氏よりは「強い」存在だったが、両氏とも拒否した。小沢氏は原口氏に三度も電話をかけて説得したものの、断られた。ここで立てば、「小沢氏の傀儡(かいらい)」と呼ばれるのを両氏は恐れた。
結局、残ったカードは樽床氏しかなかった。しかも、今度は小沢氏の足元で問題が起こる。
三日夜、国会近くの事務所で開かれた当選二回以上でつくる小沢氏系グループの会合。小沢氏自身は出席しなかったが、小沢氏の側近はここで樽床氏支持を一気に固めようとした。
これに若手議員の一人が「この戦いには大義がない。そもそも、小沢氏は本当に樽床氏を支持しているのか」と異論を挟んだ。これを口火に「樽床氏で戦えば、国民の理解を得られない」「小沢氏は幹事長を辞任したばかりじゃないか」と不戦論が続出。最終的には樽床支持の結論を出せず、「自主投票」とせざるを得なかった。
「菅氏二百九十一票、樽床氏百二十九票」
読み上げられる代表選投票の結果を、小沢氏は目をつぶって聞いていた。菅陣営の一人は三日夜、「樽床氏は百票にも届かないだろう」と読んでいた。樽床陣営も「よくて百票」と踏んでいた。大敗とはいえ、予想外の得票は小沢氏やその周辺が小沢チルドレンと呼ばれる一年生議員を必死で固めた結果とみられている。
小沢氏は四日夜の会合で「百二十九票は恥ずかしい数字じゃない。次の戦いもある」と九月の党代表選挙での復讐(ふくしゅう)を口にした。しかし、今回の戦いぶりは、小沢時代の終焉(しゅうえん)が近づいていることを強く印象付けた。
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