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1970年12月20日午前1時過ぎ、コザの中心街にある胡屋十字路から南に200メートルほどの地点で、酒で酔っ払い、公道に飛び出してきた米軍雇用員の沖縄人男性が、米陸軍病院所属のアメリカ軍教務兵の運転する乗用車にはねられる事故が発生した。現場にやってきたMPは、被害者が酔っ払って路上で寝ており怪我はかすり傷であることを確認。事故自体は軽微なものであったが、前述のような感情が高まっていた群衆がMPによる事故処理に不信感を持ち事故現場を取り囲み、MPの事故処理に対する不満・不信を口々に叫ぶなど周囲は騒然となった。MPは現場での取り調べをあきらめ、近くにあったコザ警察署(現沖縄警察署)に加害者を連れて行こうとした(MP側の見解)。これが群衆には加害者を隠匿するかのような行動に映り、MPと加害者を移動させまいと取り囲み罵声を浴びせながらもみ合いになった。加えて、近くでもう一件の交通事故が発生し、周囲の混乱がさらに大きくなったところで身の危険を感じたMPは威嚇発砲を行い、これを沈静化させようと試みた。だが、この行為はかえって群集の怒りを爆発させ、これを契機に群衆がMPと加害者に襲いかかった。暴徒化した群衆はさらに、当時ナンバープレートの色によって区別されていた米軍人・軍属の車両を次々と停車させ、運転手を引きずり出しては暴行を加えるとともに車両に放火した。
事件の拡大と収束
事件の発生に対応して、琉球警察やMPが暴動の沈静化を図ったが、午前2時半になると群衆は5,000人を超え、交番などにも投石を行ない、胡屋十字路から数百メートルのところにある嘉手納基地第2ゲートから基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。アメリカ軍では催涙ガスを使用してそれ以上の基地内への侵入を抑えた。
夜明け前に群集が家路についたため暴動は自然消滅した。結果、アメリカ軍人の車両70台以上が炎上し、警官5人・住民十数人・アメリカ兵十数人が負傷したが、民家・商店からの略奪行為は発生しておらず、アメリカ軍人・軍属のみを標的にした暴動であった(当時米軍内でも差別されていた黒人兵は対象外とされたという証言がある)。警察は騒乱罪を適用し、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の住民10人を逮捕したが、いずれも証拠不十分で起訴されなかった。
事件上特徴的なのは、政治党派の組織的な指導指揮がなく自然発生的であったこと、また、それまで米軍から利益を得ており、反米・反基地・日本復帰運動に敵対的だった米兵向けバー・クラブの従業員が、逮捕者も含め積極的に暴動に参加したことである。
以下ウィキペディアから抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B6%E6%9A%B4%E5%8B%95
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