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「小沢一郎にも辞任を求めた」とか、「小沢一郎もあわせて辞任」とか、報道は奇妙なことを書き、鳩山由紀夫も奇妙な言い方をしているが、代表が辞任したら執行部は総辞職なのである。代表が辞任したのに幹事長が辞任しないなどあり得ない。首相は辞任したのに官房長官は辞任しないと言っているのと同じだ。鳩山由紀夫が、それを民主党の宣伝と演出のために強調するのは理由がわかるが、マスコミがそうした表現で情報を流すのは、全く意味不明で、基本常識が欠落しているからとしか考えようがない。
少し時間がかかったが、小沢一郎は、狙いどおりに鳩山辞任を仕留めた。昨夜(6/1)までは、鳩山由紀夫は総理職にしがみつき、辞任要求を断固突っぱねる構えで、朝日新聞などに応援記事を書かせたが、小沢一郎と輿石東が詰め、予定どおりに「一両日中の決着」へと辿り着いた。参院の議員連中は安堵していることだろう。新代表を決める両院議員総会は6/4に開かれる。おそらく、菅直人が危機管理の期待と使命を託されて選出され、参院選の顔に収まるだろう。
ポスターや看板を新しく作り直さなくてはいけない。国会の会期と公示日の日程を睨んだ場合、このデッドラインが限界だったはずで、輿石東の「一両日中」にはその意味がある。今日(6/2)、鳩山由紀夫を仕留められずに生き逃がしてしまうと、鳩山由紀夫での選挙が自動発車になっていた。輿石東にとっては薄氷の2日間だっただろう。
朝日新聞は、今日(6/2)の社説で、首相退陣論を批判し、鳩山由紀夫で参院選を戦えと言っている。朝日のこの政局報道の論調で顕著なのは、鳩山辞任の要求について、それが選挙の都合のために議員から噴出しているのだとするスリカエで説明し、問題の本質を逸らして矮小化している点だ。鳩山由紀夫が辞任しなければならないのは、普天間で国民に嘘をついて信頼を失ったからで、選挙に負けるとかどうのは関係ない。
朝日は、普天間の政治責任という問題の核心を隠蔽するために、意図的に選挙の論理を前面に出して強調し、恰も今回の騒動が選挙目当ての動機で起きているように事実を歪曲して報道している。問われているのは、普天間の決定についての鳩山由紀夫の責任であり、議員たちは、嘘をついた責任をとれと鳩山由紀夫に迫っているのではないのか。朝日だけでなく、社民党や小沢一郎を極端に敵視するマスコミは、「何でも選挙目的でやっている」という言説で政治家を批判し、その非難を声高にすることで鳩山由紀夫を言外に擁護し、結果的に鳩山由紀夫の辺野古移設を擁護している。
あるいは、辺野古移設の是非を周到に政治論議から遮断している。普天間問題の責任こそが鳩山辞任の急所である正論を言おうとしない。朝日を始めとするマスコミは、この政局騒動で国民の関心から普天間を薄めるべく工作していて、鳩山由紀夫が普天間問題で引責辞任を余儀なくされたという事実認識で問題を正しく総括せず、小沢一郎や輿石東の選挙の論理によって、無理やり引きずり下ろされたという図式に演出して報道している。
マスコミは、「表紙を変えても同じだ」という論法で、鳩山由紀夫の居直りに正当化の根拠を与え、参院側の鳩山辞任要求を不当だと決めつける報道に徹していた。それは全く筋違いな主張で、鳩山由紀夫は、5/28に日米合意と政府決定をした時点で、国民に謝罪して辞任表明しなければならなかったのだ。表紙がどうのという問題は関係ない。5/28の直後に辞任をして、新代表の下で衆参同日選挙を行い、普天間問題の政府決定について国民の信を問うのがスジであり、本来なら、マスコミは国民の声を代弁してそう正論を言わなければならない。
ところが、米国の意向に沿って辺野古移設を日本の国民世論で多数化したいマスコミは、普天間問題への視線を政局騒動の中継へと切り換え、普天間の責任を選挙の論理に交錯させ、その二つの次元を巧妙に混同させて、辺野古移設の政府決定に抗議する国民の声を消し、場外乱闘の政局劇の背景の一つのように矮小化して処理しているのである。
矮小化は同時に既成事実化であり、何か、恰も、辺野古移設はもう決定済みのことで、それは過去の出来事で、後戻りができない問題のように取り扱っている。既成事実化を固め、問題の問い直しを封じている。今後、マスコミは、鳩山由紀夫の辞任と退場を契機に、普天間問題の決着を演出し、クビを差し出したのだから辺野古で許してやれという論調でプロパガンダするだろう。その論調を受け入れてはいけない。辞任するほどの誤りだったのだから、誤った決定を覆させないといけない。
私は、5/6の記事で、鳩山由紀夫は辺野古移設を決定後に辞任するだろうと予想し、5/7の記事で、それに補足して、辞任は追い詰められて場当たり的に行われると次のように書いた。「すなわち、辞任もまた、場当たり的に表明するのである。少しでも政権延命の余地を見出せれば、鳩山由紀夫は辞任せずに生き延びようとするだろう」。自慢するわけではないが、ほぼ予想どおりの展開が現実のものとなった。
これは1か月前の記事だが、この当時は、マスコミでもネットでも鳩山擁護論が根強く、鳩山由紀夫に5月末先送りを期待したり、鳩山由紀夫の腹案はテニアンだと言ったり、鳩山由紀夫の迷いに期待するなどという珍妙な言論が溢れていた。鳩山由紀夫の辞任は意外でも唐突でもない。当然であり必然である。当為と責任の問題としても辞任は不可避で、政局の予想と展開としても辞任の流れ以外になかった。
辺野古移設の決定を鳩山由紀夫が動かせるとは私は思わなかったし、そのような期待を抱くこともなかった。辺野古移設を決めれば、当然、轟々たる非難が起き、公約破りが責められる。私は、1か月前は、社民党は辺野古の決定に従うかも知れないと疑っていて、そのときは参院選で惨敗して党が消滅するだろうと予想していた。福島瑞穂の罷免と連立離脱は、当然と言えば当然だが、それがなかった場合でも、マスコミが叩く形で鳩山由紀夫の辞任の政局は起きると考えていた。米国とマスコミは、辺野古を既成事実化する目的において、鳩山由紀夫を辞めさせた方が都合がいいのである。
鳩山由紀夫は、政権を獲得した当初から、普天間移設は「沖縄県内」で決めていた。その証拠は、外相に岡田克也を据え、沖縄担当相に前原誠司を据え、防衛副大臣に長島昭久を据えたスタッフの陣形を見れば明白だ。彼らに普天間問題を担当させて、「県内移設」以外の結論が出るはずがなく、米国の要求に無条件に従う以外の決定に導かれるはずがない。
特に、沖縄担当相を前原誠司に据えている点が重要で、前原誠司を沖縄担当相に据えている人事を見ながら、「鳩山の腹の中は県外・国外」だと希望的観測を言い続けるのは噴飯で奇矯であり、趣味的な床屋政談の一種だと嗤うしかない。ところが、それでは公約違反の反発を世論から浴びるとわかり、途中から徳之島を案の中に入れるようになった。
だが、それも単なる思いつきで、確たる信念や意思を持っての政策立案ではなく、簡単に腰砕けとなり、米国に一蹴されて終わりとなった。鳩山由紀夫には政治家としての信念や意思など何もない。首相になりたいという権力欲だけだ。鳩山由紀夫の政治は、施政方針演説にあったように、平田オリザの美辞麗句の装飾が散りばめられているだけのもので、要するに貴族の言葉の政治であり、何も国民の要求がわかっていないし、国民の生活や心情を実感していない。
鳩山由紀夫の頭の中で、国民がどう生きているかとか、何に苦しんでいるかとかは、生きた感覚的情報として入力されておらず、それらは官僚のペーパー情報で脳に入って処理されるに過ぎないのである。官僚の感覚で国民生活が情報化される。だから、それは軽いのだ。鳩山由紀夫の言葉が軽いのは、彼の中で国民という存在が軽いからである。その軽さは、官僚の中における国民の存在の軽さと等しい。
官僚と鳩山由紀夫の情報処理の世界では、国民の存在は軽く、米国の存在はきわめて重い。「これは米国の意向です」という要求は、鳩山由紀夫の政策処理回路の中で、最優先のフラグの立った入力情報であり、決定的に重要度の高いインストラクションセットなのである。国民の要求は軽く処理され、米国の要求は重く処理される。現在の日本は政府も経済世界も全体がそうなっていて、政府で仕事する官僚の主人は、国民ではなく、国民の代表である議員でもなく、米国(米国の政府と企業)なのだ。
さて、何度も書いていることで、ツイッターでも繰り返している論点で恐縮だが、この幹事長辞任で小沢一郎が失脚したとか、権勢を失ったかのように報道するのは、全くの見当はずれで、どうしてこのような間違った議論をマスコミが言うのか理解できない。逆なのである。鳩山降ろしに成功し、菅直人を新代表・総理に就けることは、それに反対する反小沢派(岡田・前原)を封じることを意味し、小沢一郎の権力闘争の勝利を意味する。党内に派閥を持たない菅直人は、小沢一郎のサポートがないと代表選に勝てない。
つまり、小沢一郎は菅直人のキングメーカーになるわけで、堂々たる新政権のゴッドファーザーの地位を得るわけである。新しい執行部で幹事長になろうがなるまいが、党内の最高権力者が小沢一郎である事実は疑いなく、要するに、小沢一郎は代表選を通じて現在よりも権力を強化する方向に至るのである。無役の闇将軍でもいい。
無役でいる方が、むしろ検察審査会との攻防の上では有利だ。参院選の結果で全てが転ぶ可能性はあるが、現時点で言えば、小沢一郎が「鳩山降ろし」の成功で政局の主導権を握り、参院選を全滅の惨敗から少し押し返し、何とか持ち直した情勢と言える。顔が変われば空気は少しは変わる。昨年、私は、自民党に対してだが、選挙の前に麻生太郎を変えた方がいいと提言を発した。
今はポピュリズムの時代であり、テレビの情報で選挙が決まる時代である。辺見庸が言うとおり、テレビは意識そのものだ。そして、政治は娯楽になっている。菅直人のテレビでのパフォーマンスは、鳩山由紀夫に較べれば上で、底まで沈んだ民主党の支持を持ち直す効果があるだろう。少なくとも、鳩山由紀夫の普天間のようなヘマは考えられない。
今、民主党の支持は減っているが、自民党に逃げたわけではない。民主党の支持者は、失望しつつポスト鳩山を待っていたと見ることができる。問題は、どこまで参院選の敗北を小さく止められるかで、その結果次第で小沢一郎と菅直人の進退も決まる。大敗を喫すれば、菅直人は辞任、小沢一郎は失脚で、岡田克也と前原誠司が牛耳る民主党となる。
菅直人がどのような内閣を敷き、どのような戦略で参院選を戦うのか、それについては明日の記事で考えたいが、これまでの民主党を見てきた限りでは、この二人が党の中核になって力を発揮したとき、また、そこに鳩山由紀夫も入って三人がスクラムを組んだとき、民主党のパフォーマンスが最も高くなり、安定した政党組織の姿になる。連合にとっても、その態勢が最も支援を注力できる形になる。選挙戦を戦う場面では、小沢一郎と菅直人が力を合わせるのが、連合として最善の方向だろう。
私自身は、菅直人の民主党に期待することは何もないし、選挙は普天間を国民が審判する機会だという主張に変わりはない。喜納昌吉が言ったように、民主党は報いを受けるべきで、鳩山由紀夫の身代わりで菅直人が報いを受けるだけだ。
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