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れんだいこのカンテラ時評739 れんだいこ 2010/05/30 09:19
【社民党は連立を下野すべきか維持すべきか考】
「福島罷免」の結果、社民党は連立を下野すべきか維持すべきかが問われることになった。本日5.30日、社民党は緊急中央委員会を開くそうだが、れんだいこが知恵を授けておく。
結論から云えば、社民党は下野すべきだではなくする必要がない。なぜか。それは、「連立政権の元一日」の取り決めこそが要件であり、これから逸脱したのが鳩山首相及びその周辺であるからである。社民党は「連立政権の元一日」を擁護し政権交代政権の実効あらしめるべく更に奮闘努力するのが筋である。公然と連立政権の破壊に向かった鳩山一派とのせめぎ合いを通じて後継政権を安産させるべく働きかけるべきである。社民党にとって「政権交代政権の実効化」こそが政治使命であり、国民新党が盟友である。この強固な同盟ブロックの下で、民主党内の後継政権闘争を見守れば良い。この流れで参院選闘争に向かうべきである。これを第一結論とすべきである。
第二結論として下野も考えられる。しかし、この場合でも鳩山政権下での下野であり、後継政権が誕生するや速やかに「連立政権の新たな元一日」を求めねばならない。下野して万年野党化し反対政党としてのみ存在する愚を戒めねばならない。第三結論は万年野党化し反対政党としてのみ存在する社会党的DNA方向である。このいずれを採るべきか、これが問われている。れんだいこは断然、第一結論を一押しする。この観点から党内党議を深めれば生産的になろう。
ところで、少し気になる評が為されているのでコメントしておく。次のような評が為されている。「現実をいかに粘り強く一歩一歩変えていくかよりも、党のお題目を優先し、結局は現実に絡め取られていった社会党の教訓を活かすことなく、社民党はまた同じ轍を踏もうとしている。2度目の茶番劇で社民党はこれから何をやろうとしているのか。55年体制の一端を担い、何でも反対することで政治的立場を確保してきた旧社会党のDNAを受け継ぐ社民党は、実は自民党と同じくらい政権交代を嫌って内部から政権交代を破壊しているのではないのだろうか、とさえ思えてくるのだが」。
この評は一般論としては成り立つように聞こえる。しかしながら、こたびの「福島罷免」にそのまま当て嵌めようとすると支離分裂分裂する。前段の「何でも反対することで政治的立場を確保してきた旧社会党のDNA」批判の部分は正しい。後段の「社民党は、実は自民党と同じくらい政権交代を嫌って内部から政権交代を破壊しているのではないのだろうか、とさえ思えてくる」は何を指して云っているのだろうか。こたびの「福島罷免」は鳩山首相の逆裁定によってもたらされたものであり、福島消費者・少子化担当相に責任を被せるのはお門違いだろう。この評によれば辺野古案に署名すれば政権交代政権維持になり、署名拒否すれば政権交代政権破壊になると読むことができるが、逆であろう。言いなりになることの方が村山社会党時の自民政権すり寄りの愚と等しいのであって、言いなりにならなかった福島社民党を誹謗するのは錯綜評価であろう。そういう意味で解せない評である。
ここで、党派連立の意味について愚考しておく。党派連立とは、政党同士が政策の異、差を互いに認め合って共同し連立すると云うことだろう。この共同・連立には、政策の異、差を解消することは期待されていない。これが基本構造である。与党責任とは政権の個々の政策に異を唱えないということではない。国民新党が外国人参政権付与に対して強硬に反対したのは衆知のことである。共同・連立にはそういう幅が認められてしかるべきであろう。そういう個々の政策の違いを踏まえつつ餅を練り合わせできるのが共同・連立の意味であろう。かなり高等な政治能力が必要とされるということでもある。
従って、社民党が辺野古案に署名拒否したとしても、それをも含めて成り立たせるのが連立能力と云うことになる。その意味で、鳩山首相の福島罷免は、鳩山執行部の社民党に対する連立解消策動以外の何物でもない。それは、参院選を前にして政権交代勢力の力を殺ごうとするネオシオニズム奥の院からの指令によるものと考えられる。鳩山が弱みを握られてか、元々の地金を出してか分からないが、ここで反動的な本性を露わにしたことを意味する。ホワイトハウスにとっては慶事であろうが、日本人民大衆にとっては打倒域に入ったことを意味する。
ここで、左翼用語で云う統一戦線と共同戦線の違いを確認しておく。これについては、「統一戦線と共同戦線の違いについて」サイトで考察している。参考にして貰いたい。
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/marxismco /marxism_kyodosensenron.htm)
れんだいこが思うに、政治運動に統一戦線運動は要らない。しかるに統一戦線運動が導入されてきたのは、良からぬ悪だくみによってであると考えている。歴史的に見れば専らネオシオニズムが常用する戦略戦術である。我々には不要の運動理論と弁える必要がある。これを少し説明すれば、統一戦線と云うのは文字通り統一であるから足並みを乱すことはできない。常に統制的にならざるを得ない。この場合の問題は、誰がどういう基準で統制するのかにある。これを合議で判定した例を知らない。いつもどこかで誰かが裏から采配している。これが統一戦線理論の素性である。我々の運動にはこういうものは要らない。
これに対して、共同戦線は別である。基本的に課題ごとの共同であり、何から何まで規制されるものではない。考えて見れば当たり前のことであって、何から何までイエスマンするのなら弱小党派は主力党派に呑みこまれれば良いだけのことである。弱小と雖も党が党して存在すると云うことは主体性を保持しなければならないと云うことである。その主体性確保の上で連立ないしは共同するということである。ここを勘違いしてはならない。
統一戦線と共同戦線にはそういう仕組みと思想の違いがある。統一戦線運動はいわば硬直型運動である。共同戦線運動は柔軟型運動である。どちらが強いか、どちらが理に叶っているのか、それは実践プリズムを通せば直ぐに分かる。いかなる組織も運動も柔軟型運動の方が歴史の試練に耐える。にも拘わらず、長らく硬直型運動が跋扈してきた。その結果、首尾よく進展した運動例は何一つない。よって、統一戦線運動論で統制する者を疑惑せよ、ということになる。思えば、狂人レイプ首相・小泉の郵政選挙時の刺客騒動なぞ典型的な硬直型運動であった。マスコミはこぞって名宰相の断固毅然たる措置を礼賛し提灯報道し続けたが、小泉もマスコミも狂っていることを証左している。今鳩山が同じようなことをし始めている。これはネオシオニズム特有の政治現象であり、裏から誰かが強く指令していることを意味している。かく捉えれば無理なく解ける。
こういう手合いに日本政治が組み敷かれるのはそろそろおさらばとしたい。それが昨年の総選挙の結果としての総意であった。そこから生まれた鳩山政権がシオニスタン特有の政治に回帰した以上、我々の態度は自明ではないか。鳩山は政治生命を終えたのであり、これより後は悪臭を放つばかりである。舞台から去る儀式を丁重に行うしかないではないか。鳩山はもがかぬ方が良い。政権交代一番手の細川元首相を見習うが良い。恐らくそうはなるまいが。
誰か、この声を社民党の今日の総会に届けてくれ。
2010.5.30日 れんだいこ拝
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