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「沖縄だけは必ず勝ちます」 ある特攻隊員の遺書  (池田香代子ブログ)
http://www.asyura2.com/10/senkyo86/msg/172.html
投稿者 純一 日時 2010 年 5 月 11 日 11:37:51: MazZZFZM0AbbM
 

http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51405485.html

2010年05月11日00:00   カテゴリ (亡き人を想う)


父上様母上様御一同様

愈々明日出撃です。もう準備萬端整ひ防空壕で寝台に臥せり乍らこの便りを書いています。

一昨日の攻撃に出陣する筈でしたが、飛行機の整備が悪く、残念にも取残されました。岡部中尉、森少尉、福田少尉、中村少尉は戰死されましたが、黒崎少尉、伊東少尉、西野少尉私の四人は明日一緒に征きます。昨日も出發する予定で飛行場に行き、既に飛行機に乗ってゐたのに急に中止になりがっかりしました。然し明日は出られますので断然張切ってゐます。明鏡止水といふ所です。

明日こそは必ず必ず見事に命中して見せます。目指すは正規空母です。敵機動部隊の眞只中に櫻の花を咲かしませう。

明日一緒に征く連中が皆夫々里へ便りを書いたり作戰を練ったりしてゐます。美しく勇ましいそして静かな光景です。皆偉いです。しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか。やるぞ断乎やる。

さて、二十四年間の私の生活は実に幸福なものでした。良い家族で良い両親と良い兄弟に包まれ、自由に楽しく過して来ました。本当に満足して死ねます。お父様には筑波で会へるし、お母様は苦労して遠い所を訪ねてくださいましたし、二晩もゆっくり話をして、私の氣持も私達の生活もよく知って戴きましたし、実に幸運に恵まれてゐます。最后迄この幸運が続いてうまく命中する様祈る許りです。

佐々木にも会ひました。彼は少々遅れるので口惜しがってゐます。

鹿屋荘には二度程行きました。西野と福田と三人で雛一羽と玉子十ケをもって飲みに行き、風呂へ入り、一晩ゆっくり語りました。とても有意義な一夜でした。明日征ったら、森や福田が一升さげて待ってゐる事でせう。また皆で痛飲します。

今日迄何の孝行もせず申訳なき次第ですが、お役に立った事をもって許して下さい。時岡家の長男として父祖代々の家をつげず、残念といふより申訳ありませんが、国なくして家もなしですが、その代わり沖縄だけは必ず勝ちます。安心して下さい。

(中略)

福田の恋人の○○○子さんが林田区東尻池○丁目○○ノ○○石井様方宛で便が付きますから、福田の元気だった様子でも知らせてあげて下さい。

今十一時、もう寝なくては明日の出撃に差支へますから止めます。

感謝しつつ征きます。死を知らんとす、また楽しからずや

そうそう藤田少尉の奥さんが家に来られたかも知れません。藤田も一緒に行きます。佐藤はまだ當高にゐます。

では皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子、お元氣で頑張って下さい。○○の宛名がわかったら知らせて下さい。

頑張って、張切って、行きます。さよなら

五月十三日午后十一時十九分

                                鶴夫拝

お祖母様
お父様
お母様
○子様(良い奥さんになれよ、我儘禁物)

65年前の遺書です。鹿屋航空基地から投函された、神風特別攻撃隊第六筑波隊海軍少尉時岡鶴夫さんの絶筆。24歳とは思えない、女性的な細やかな達筆、夜が明ければ死ぬ若者とは思えない落ち着き。最後のほうで2カ所だけ、書き直しの跡が見られます。
「行って来ます」の「って来ます」が二本の線で消され、「きます」と。「行って来ます」だと「行って(帰って)来ます」、往還を表すようでふさわしくない、と思い直したのでしょうか。胸を衝かれます。そして、「十一時」の右にちいさく「午后」。もう夜遅いんだ、と言いたかったのでしょう。はたしてこのあと、かれは眠れたでしょうか。

遺書は、今年4月の鹿屋の慰霊式で読みあげられたそうです。うらうらと暮れてゆく五月の夕方、打ち込みながら、今がこの方の犠牲の上にあるなどと嘯(うそぶ)いて納得する気には、とうていなれませんでした。
大本営がいかに沖縄を捨て石としか見ていなかろうが、上層部は特攻の戦術的効果など信じもせずに送り出したのだろうが、沖縄に押し寄せるアメリカの大艦隊を食い止めるために死ぬのだと信じた、信じようとした若い人の「沖縄だけは必ず勝ちます」は、私が死ぬまでふさがらない心の傷口です。

ここには、国のためとか、天皇のためとかの言葉は出てきません。かろうじて「お役に立」つという言い方で、国家が意識されています。けれど、なんの役に立つのか、文字にしない、今この時自分がこの手を動かして文字にするのは別のことだ、この特攻隊員の、切迫した言外の思いが伝わってくるようです。敢えて書かなくても暗黙の了解があるから書かないのだ、という解釈もあるでしょう。けれど、その人個人にとってきわめて重要なことであれば、人はやはり書きます。時岡さんが、「皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子」と、改めて一人ひとりに呼びかけているように。最後の手紙を終えようとしているこの時、そのすぐあとにもう一度、末尾の呼びかけを書くことがわかっているのに。

また、「国なくして家もなし」という言葉も、国を前に押し出してはいます。けれど、「国」は「家」、つまりは家族の存続のためという理由があって初めて正当化されています。これが、この時代に理不尽な死を義務づけられた若者の、煩悶の末のぎりぎりの納得だったのでしょう。「しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか」と、必死に自分を鼓舞している24歳の若者の内面を思うと、命のさかりにみずからその命を擲(なげう)つところに追い詰められたこの若者の取り返しのつかなさに、何十年たった今でも、私は狼狽します。

クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に、「戦うのは国のため、でも死ぬのは友のため」というせりふがあります。個人にとって戦うことと死ぬこと、どちらが一大事かと言えば、もちろん死ぬことです。つまり、具体的で身近な人間関係が国家という抽象的なものの上に位置づけられているのです。それは保守主義的です。時岡少尉は保守主義者です。「お母さん」と言って死んでいったおびただしい兵士は、みな本来の意味での保守主義者です。

親孝行ができなかったと詫びるのは、こうした遺書に特徴的ですが、そこには、自分だって生きたいのだ、生きて孝行したいのだ、という思いがこめられているでしょう。この時代、孝行とは、まず働き、家族をもつことです。自分の人生を生きるということです。生きたいと言うために謝る。残酷です。

ここに名前が挙がっている人びとの教官、と言ってもすこし先に任官されたため、すぐ下の後輩たちの指導にあたり、すべて見送ってから自分も特別攻撃に出ることになっていたところ、終戦を迎えて奇しくも生き延びた木名瀬信也さんという方がいます。長年、大学で英文学を教えておられました。その木名瀬さんと電話で話をしていて、NHKの「日本海軍400時間の証言」が話題になりました。私が、「戦後何十年もたって、『あの作戦は失敗だったね』『残念だったね』と言ってわははと笑っている人たちのために、叔父たちは亡くなったんですね」と言ったら、電話の向こうから木名瀬さんの「うっ」という嗚咽が聞こえました。

時岡鶴夫さんの遺書にある福田少尉は、私の叔父なのです。福田喬(たかし)、享年22歳。早稲田の学生でした。野球部だったそうです。昔のぶかぶかのユニフォーム姿で、バットを杖のようにしてしゃがんだ写真があります。野球が好きでたまらない、といったくしゃくしゃの笑顔です。大好きな写真なのですが、今手元にありません。右は、「愛機」の前の叔父です。


このたび公開された時岡さんの遺書で、叔父に好きな人がいたことを初めて知りました。動揺が収まるまで、数日は木名瀬さんに電話をかけられませんでした。戦後、ずっと筑波航空隊の特攻隊の資料を収集し、遺族の世話にあたってきた木名瀬さんも初耳だそうです。林田区は、今の神戸市長田区です。祖父の一家は、東京に越す前は須磨に住んでいたので、この住所に縁のある方がいたというのは、おおいにあり得ます。

ここはしかし、大空襲があったあたりではないでしょうか。神戸は、大規模な空襲を3回うけていますが、その1回目の3月17日には、市西部の旧林田区が狙われました。309機のB29が2300トンの焼夷弾で襲いかかり、死者2598人、負傷者8558人を出しています。そのことを、時岡さんはご存じないままに遺書を書いたのかも知れません。

去年、やねだん(http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/2009-11.html#20091125) に行ったのは、鹿屋を初めて訪れたついででした。
友部(http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/2009-12.html#20091206) に行ったのも、叔父たちが木名瀬さんと過ごした航空隊跡を、知り合いの方がたに案内していただくためでした。
その以前、講演に呼んでくださった方がたのひとりは、今は病院になっている元航空隊司令部の建物に、偶然、ついこのあいだまで勤めておられました。現存する唯一の司令部建築を保存する運動を始めようか、と言ってくださいました。

きょうは、沖縄海域で亡くなった叔父の、65回目の命日です。65年前のこの日も、神戸は92機のB29によって炎に包まれました。叔父の恋人、○○子さんはご無事だったでしょうか……。

中列左が木名瀬信也さん、前列右が叔父
『筑波海軍航空隊 青春の証』(友部町教育委員会生涯学習課 2000年刊(本稿参照)

木名瀬さんの資料・文章を中心に編まれた。すでに品切れだったところ、友部の知人が八方手を尽くして入手してくださった1冊)

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コメント
 
01. 2010年5月11日 16:08:21: RumzxWsQt2
有難うございます。会社で読んでいましたが涙が出てきました。何年か前に鹿児島の知覧特攻平和会館に行って沢山の遺書を拝見しましたが、当時の若者の教育レベルの高さ、また教養の深さに驚きました。生きていれば国の再建に貢献してくれたであろう立派な若者を、当時の馬鹿な軍人達は自分達の狭い官僚的な解釈のみで死に追いやりました。本当に馬鹿なことをしたものです。悔しくて悔しくて納得できません。靖国神社に英霊などというまやかしで国家権力は誤魔化してしまいました。純粋な当時の若者に敬礼。

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