投稿者 鷹眼乃見物 日時 2010 年 5 月 03 日 16:40:14: YqqS.BdzuYk56
■[机上の妄想] 実効権力の広報部たるマスコミが煽り「真実情報閉鎖国」から「名ばかり民主主義国」へ深化する日本
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100503
twitter ⇒ http://twitter.com/hanachancause ← 当記事でコメントは受けておりませんので御意見等がございましたらツイッターの方でよろしくお願いします。
【プロローグ画像】“例年より約2週間遅い”桜の風景、仙台・北部郊外(2010.5.2 撮影)
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(政官財癒着実効権力の思惑どおり小泉政権時代の暴政へのブレーキを解除されつつある日本)
今や、日本は、「メディア=検察連合」の思惑どおりの流れとなりつつあり、民主党の支持率が急降下するにつれ、小泉政権時代(その後の安倍~福田~麻生内閣は自民党内のたらい回し政権)の暴政へブレーキをかけて<資本主義の健全化>への道を模索する意味での欧米におけるソブリン・リスク回避努力とその苦闘に見られるような <新たな世界の潮流=暴走化した金融市場原理主義の修正方向>から大きく外れつつある。
朝日新聞を始めとする主要メディアが、市場原理主義が求める短期利益の獲得に突っ走ることを再び煽り始め、総掛りで民主党叩きのマッチポンプ報道を繰り返すという意味で、日本の主要メディアは、再び、本気で“有権者を見くびり小馬鹿にし始めたようだ。
このため、民主党政権の支持率が急降下するとともに、その受け皿狙いで自民党の範疇から飛び出してきた極右(“たちあがれ日本”の如き正統保守を騙る“老いて萎えた”偽装右翼、 似非右翼)、あるいは小さな政府(ネオリベラリズム、市場原理主義)をカルトの如く信奉する“みんなの党”(戦後60年の日本を牛耳ってきた“自民党・清和会=偽装極右”の別働隊?)など、ご都合主義で野合する可能性がある新党ブームとなった。
そして、再びメディアが今度はこれら妖しげな新党を全く無批判のままポスト民主党政権の希望の星として持ち上げ始めている。この動向の背景で蠢くのは、60年以上に及ぶ自民党政権のみならず日本近代史に始まり恐るべきほど頑迷固陋に今も根を張る既得権益を死守せんとする勢力、つまり闇に潜む政官財癒着連合と、その「政官財癒着実効権力の悪しき思惑」の先兵たる妖しげな「市民団体を詐称するグループ」が本気で肩を押し始めたと見なすべきだ(参照⇒ウオ ルフレン論文の解釈記事、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100331)。
その典型的な事例が「民主党・小沢幹事長が政治資金規正法違反の疑いで告発され検察が最終的に不起訴としたにもかかわらず、検察審査会が『起訴相当』と議決した」ことである。なお、この検察審査会の議決の不当性(検察が証拠はないと判断したのに市民or国民目線(実は、妖しげなメンバーから成る検察審査会の目線)で見たら証拠があるとする、まことに奇怪な議決内容の矛盾点ほか)について疑義内容の全てを詳細に論じた資料として下記(◆)が重要と思われるので、ご案内しておく。
◆ 名城大学コンプライアンス研究センター長・郷原信郎:検察審査会が『起訴相当』と議決したことで驚いたのが被疑事実、http://www.comp-c.co.jp/pdf/100428reku.pdf
◆極東ブログ:小沢一郎氏を起訴相当とした検察審査会の議決(要旨)ほか、http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/04/post-b6ab.html
(マスコミが果たすべき二つの基本的役割)
あまり普段は意識されないことだが、マスコミには、絶対に曲げるべきでないという意味で基本とすべき二つの重要な役割がある。その一つは、先ず取材対象となる事件・事故等について“そのありのままの現実”に迫りつつ「0次情報」(現実についての真実情報)を徹底取材することだ。
二つ目は、その「0次情報」を可能な限り正確に「1次情報化」する、つまり文章化・記事化(テレビ・ラジオ等の場合は文章化に加えて映像化ないしは音声化)することだ。
当然ながら、仮にその取材記者がどんなに優秀であったとしても、個々の「0次情報」の現場から100%の真実を汲みとり「1次情報化」(記事化・文章化・映像化・音声化)することはできない。
そこで必然的にマスコミの報道には誤報のリスクが絶えず付き纏うことになる。しかし、その場合は訂正記事を書いたり、更なる調査・追跡取材の努力で修正あるいは追加の記事を報じたりすることになる。
(“0次情報⇒1次情報”に対応する“取調可視化⇒調書主義裁判”の問題)
(1)取調可視化
日弁連の「取り調べ可視化についての意見書−はじめに−」は次のように主張している
(http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2003_31.html)。
・・・わが国の刑事裁判は捜査段階において作成される自白調書に強く依存しています。それにもかかわらず、自白調書は密室で作成され、取調べの過程で何が 行われたかを信頼性の高い証拠で検証することが全くできません。そのことが取調べの過程で強制や誘導が行われることを誘発し、ひいては虚偽の自白がなされ る危険を温存しているのです。日弁連は、このような現状を改善するために、かねてから、刑事司法改革の最優先課題のひとつとして、捜査官による被疑者の取調過程を録音・録画すること(以下「取調べの可視化」という)の必要性を強く訴えてきました。
今日イギリスやアメリカのいくつかの州のほか、イタリア、台湾などでも、取調べの録音・録画を義務付ける改革が既に行われています。国連の規約人権委員会は、わが国における被疑者取調べ制度の問題点を特に指摘して、取調べの過程を「電気的に記録すること」を勧告するに至っています。・・・途中、略・・・われわれは、い まこそ「取調べの可視化」を実現して、文明国の名に恥じない司法制度の礎の一つとすべきであると考えます。…
つまり、ここで言う「密室の取調べの過程で何が行われたか」が「0次情報」に相当する訳で、その重要性の意味は今更ここで強調するまでもない。
しかし、この「取調べの可視化」の実現については、法務省・司法検察側からの積極的な意志は一向に見られず、政権交代で与党となった民主党も、その実現について二の足を踏んでいるようにさえ見えるのは周知のとおりだ。千葉法務大臣が次(★)のように“部分可視化の検討”を漸く語る段階に留まっている。しかし、これは全面可視化でなければ無意味だ。
★取り調べ可視化、部分的導入も=千葉法相“できるだけ前倒しで実現したい”、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100502-00000013-jij-pol
(2)調書主義裁判
「調書主義裁判」とは、検察・警察等が取り調べで作成する被告・証人らの供述調書を証拠として重視する裁判ということである。言い換えれば、調書主義裁判は「取り調べの現場」(0次情報)にかかわる「1次情報」(検事等が作成する文章から成る調書)を重視する公判に基づいて行われる裁判ということだ。
ここで重要なのは、「マスコミの書いた記事」が「供述調書」に相当し、両者ともにあくまでも1次情報に過ぎず、それらは真実そのもの(0次情報)とは言えないということだ。従って、誤った調書、あるいは、いま地検特捜部等の捜査について囁かれている如く固着論理を軽視ないしは排除しつつ一定の推論(シミュレーション)的筋書きに沿って調書作成が行われるという有様では、これからも必然的に冤罪をもたらす可能性が大きくなる。
しかも、マスコミの誤報とは異なる意味で、司法判断の結果としての冤罪が如何に非人権的・非人道的で残酷な結果をもたらすかは、数多の事例を挙げるまでもないことだ。従って、現代日本の如く、絶えず起こり得る高い確率での冤罪の可能性を潜ませた公判手続き上の欠陥を司法権力が放置する日本の現況は、授権規範を定めた憲法への違反と基本的人権に対する冒涜である。
(取調可視化に相当する、行政一般における1次情報(公文書)管理の重要性)
一方、この「調書主義裁判」を行政一般の次元へ敷衍すると「公文書管理」の問題に重なって見えてくる。その公文書なるものは「媒体・形式の如何を問わず、行政に関わる一切の業務遂行上で必要な情報(0次情報)を固定した記録(1次情報)のすべて、つまり行政の現場に関わる一切の1次情報を記録した文書類」と定義される(http://www.archivists.com/ogawa/bunshokihonho.pdf)。
司法における取り調べの現場と異なり、行政一般の現場について「0次情報」(立法準備・立法手続・施行手続・運用手続き等各行政の実務現場に関わる真実のありのままの姿)を収集蓄積することは現実的に不可能なので、そこでは「公文書類の厳重な保管・管理」が“行政可視化の代用”として重視されるべきことが「建前上の原則(文書主義の原則)」とされてきた。
ところが、この公文書なるコトバが余りにも地味に響くこともあって、一般国民の間におけるその重要性(意義)についての認識が非常に希薄であることが、先進民主主義国家を名乗る我が国の実に不名誉な実情であった。しかも、国民一般のみならず行政に携わる官僚たちの多くも、あるいは民主主義社会における公文書の重要性について率先アピールすべきメディア自身も、このことについて殆ど無関心であった。
もっとも、官僚とメディアはその公文書管理の重要性は重々に承知の上で、敢えて都合よく無視してきた(失敗・怠慢・悪事などがバレなければ官とメディアの双方にとりメデタシ!)というのが実態ではないだろうか。そこには、記者クラブ制を介して民主党・小沢幹事長に対し持続的な政局狙いの総攻撃を仕掛けた「メディア=司法検察連合」の癒着構造との相似形が実にリアルに見えてくるはずだ。
なお、自民党時代末期のたらい回し政権の中で一つだけ評価すべきことがある。それは、福田政権で着手し2009.6.24に麻生政権で成立した「公文書管理法」だ。福田首相が小泉政権下の官房長官時代から温めてきたとされる法案であったが、その動機は“日本の公文書管理の実情”が中国と韓国にさえも大幅に遅れをとっていることを知り驚愕したことだとされる。
しかし、その後も公文書の管理運用と情報公開の改善は一向に進まず、例えば小泉政権で最大の実績とされる「郵政民営化」実現の前提となった【日米交渉関係資料公開の要求】は頑強に拒否され、一切の関係公文書類は存在せぬとして暗黒状態の儘で放置されていることからも分かるように、同管理法の内容不備と運用の不徹底は相変わらずお粗末な限りとなっている。このため、本来であれば一般国民の十分な理解を得ながら、この点についても民主党政権による改善と手直しの努力が待たれるところだ。
例えば、日本の公文書管理の貧弱さを直視するため、公文書管理に関わる外国との内容比較の事例を少しだけ取り上げるならば下(●)のとおりである(出典、松岡資明著『日本の公文書』-ポット出版-)。このような数字的比較のみならず<あらゆる階層におよぶ我が国の人々の公文書の意義についての意識の希薄さと理解のお粗末さ>こそが日本民主主義の最大の欠陥(宿痾)であることだけは厳しく認識すべきだ。
●中央省庁の公文書数、年間100万ファイル ⇒ その公文書館への移管割合=0.5〜0.7%(欧米では、これが3〜5%)
●国立公文書館職員数45人(米・国立公文書記録管理院2500人、英・国立公文書館580人、仏・同460人、オーストラリア・同450人、韓国・同300人)
それは、例えば、もっと早くから欧米並みの厳格な「公文書管理法」が整備されていたならば、あのおぞましいかぎりの「年金記録消滅(消えた年金)事件」などが起こる筈もなかったことを想像すれば理解できるはずだ。「薬害エイズ事件」などにしても然りである。
また、中央省庁自身に公文書重視の意識が非常に希薄であることは、「情報公開法」施行1年前の2000年度に、駆け込み的に膨大な量の公文書の廃棄が行われたことに現れている。その最も凄まじい事例は農林水産省で、なんと前年実績の21倍以上に及ぶ233トンを急いで廃棄していたのだ(出典、同上文献)。
ところで、先進的な公文書館の歴史を概観しておくと、近代的な公文書館成立の嚆矢は「フランス革」(1789)直後のフランスで見られ、1794年にアンシャン・レジーム時代の公文書や記録を保存・管理する目的で「フランス国立中央文書館」が創設された。イギリスでは1838年に公文書法が公布されてロンドンに公文書館が設置されている。また、かなり古い時代(ca15世紀〜)から領邦ごとに文書館が設置されてきたドイツでは、1919年にワイマール共和国(1919〜1933)のポツダムで「国立文書館」が開設されている。
これら近世の公文書館の歴史で特に注目しなければならないのは「フランス国立中央文書館」が創設された時の公文書管理にかかわる理念だ。この「フランス国立中央文書館」が開設されるにあたっては、文化財的(あるいは文化資料的)観点から次の二点(◆)が明確に意識されていた。このような意味で、フランスにおける公文書館の近代史は飛びぬけてユニークである。ここではその当時の行きづまった絶体主義体制(アンシャン・レジーム)に対する有効な批判の武器となっていた啓蒙思想の面目躍如たるものが感じられるのだ。
◆役所が作成した公的な文書に限らず、間接的な意味で行政にかかわる民間資料も保存・管理の対象とする(民間側からの積極的な寄贈・寄託を受け入れる)
◆フランスの一般国民は、このように定義された「公文書」の保存・管理を国家(政府)に要求する権利を持つ・・・、逆に言えば、フランス国民は「公文書」の保存・管理に積極的に協力する義務がある。
このような訳で、大革命直後のフランスでは、近代民主主義国家を完成させ、それを維持するための屋台骨(基盤部分)が公文書館と情報公開であり、しかも国家と国民が相互補完的な役割を意識しつつその管理体制のメンテナンス(絶えざる修正・維持の努力)に積極的に関わるべきであり、その条件下でこそ、一般国民には国家に対し公文書の情報公開をいつでも要求する権利があるということが理解されていたのだ。
しかも、このような意味での公文書管理と情報公開の重要性は欧米各国へも波及し、その民主主義にとって重要な観念は遍く政官民で共有されており、それが中国・韓国へも既に波及したことを我われ一般国民は主権者たる自らの問題としてリアルに自覚すべきなのだ。ともかくも、このような公文書に関わる基本認識を少し点検するだけでも、我が国の民主主義が未完成の儘で放置され続けてきたことが、特に長期自民党政権下で如何に歪んだものとされてきたかが分かるはずだ。
従って、このような公文書に関わる基本認識上の欠陥(誤った認識の放置)こそが、次で論ずる「司法・マスコミが0次情報と1次情報の切断を当然視する日本の特異性」ということの原因となったことは明らかだ。
因みに、何故に日本がこのように「倒錯的な公文書意識」(倒錯的な民主主義意識)に嵌ったかを研究した一つの成果、「学習院大学・高埜利彦教授と京都府立総合資料館・渡辺佳子氏らの共同研究」があるので紹介しておく。それによると、明治維新以前の日本では、それなりに公文書を重視する政治が行われてきた(出典、同上文献)。
変化が起きたのは明治18年(1885)に太政官制度が廃止され天皇の指名による内閣制度が発足(第一次・伊東博文内閣~)したあたりで、この頃から「歴史資料と公文書管理を重視する意識が急速に薄れ始め現在に至った」ことが観察される。具体的に言えば、それはこの頃から国史編纂を重視する傾向が強まる一方で、「内外の歴史資料の収集と公文書保存」を軽視し始めたということだ(出典、同上文献)。
このような変化が起こった背景には「孤立した島国という地理的環境からくる単一民族国家幻想」が強まるとともに、急速な民主主義国家化への道程を安全に進めるためには、欧米からの<過激な民主主義思想(これは大きな誤解だが!)>の流入と急速な情報公開による民衆の動揺が拡がることは好ましくないという、当時の指導層の恐れがあったのではないか、と同研究は指摘している。そして、他ならず、この変化こそが、その後の日本の「内向化、極右化、ファシズム化、軍国主義化」への流れを予兆するものだったのである(出典、同上文献)。
更に驚くべきことは、この共同研究の成果は、あのK.V.ウオルフレンが『日本政治再生を巡る権力闘争の謎(1)』で指摘したこと、つまり「ほぼ同時期に陸軍の基礎を確立(徴兵制・参謀本部・軍人勅諭等の設置)して軍閥の巨頭とされた山縣有朋(元帥陸軍大将・従一位・大勲位)が、政党政治(立法)を陰で統制できる「“官僚・司法・軍”連合構造=政権の別を問わぬ非公式な実効的権力システム」を日本の権力中枢の深奥に密かに仕込み、それが政権交代後の現代日本の政治まで影響している」と指摘したことに見事に重なっている(関連参照、下記★)。
★“桜は花に顕るを知る”の心で、急に蠢きだした自民党周辺からの新党たちあげブームを読み解く、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100409
(司法とマスコミが0次情報と1次情報の切断を当然視する日本の特異性)
冒頭で少し触れたことだが、民主党・小沢幹事長を告発した“妖しげな偽装市民団体”の素性については一切が公表されておらず、なぜかメディア側にもこの点を取材し報じようとする意志が一切見られない。その代わり、主にブログ・ツイッター・掲示板などネット情報のフィールドでは、この“妖しげな偽装市民団体”(新しい歴史教科書をつくる会の人脈に繋がる?)についての膨大な情報が流れている。
そこで考えられるのは(これはあくまでもtoxandoria(筆者)の憶測だが…)、この“妖しげな偽装市民団体”の素性は単一民族史観(あるいは偏屈な皇国史観)に凝り固まった特異な精神環境の集団(しかも自己矛盾というべきか御都合主義というべきか、とても理解し難いことだが彼らは同時に対米隷属的な意識を併せ持つ)である。
そして、彼らの最大の特徴は、観念的かつ情念的な忠君愛国を一般国民へ押しつけ、それら国民を戦前型の隷属的臣民の意識レベルへ連れ戻そうとする狂気・カルトに接近していると思われることだ。そのような意味で、彼らの実像はおぞましいまで内向化・極右化した輩ではないかと考えられる。
おそらく彼らの戦略には「一定方向を向くシナリオ型の調書主義裁判」と「行政・歴史資料の軽視」(場合によっては、その曲解・修正・改竄・廃棄・創作も是とする)を政治権力維持・拡大のツールとしたいという悪しき意志が隠されている。
しかし、現下の国際環境では外形的にせよ民主主義の形態を取らざるを得ないことは辛うじて理解しているので、形だけという意味での外形的民主主義、あるいは偽装民主主義を日本社会に定着させようとする目的意志が彼らの背後には潜んでいる。
この外形的民主主義(≒偽装民主主義)の重宝な役割を担う存在として、今や十分にその役割を果たしているものこそが、折に触れマスゴミと揶揄される日本の主要マスコミである。この意味で、今の日本では、ウオルフレン論文が言うところの「“政官財癒着”実効権力」のための「司法検察&御用メディア」が着々と整備されつつあると言えるのだ。
言い換えれば、それこそマスコミ(マスゴミ)の「偽装リアリズム情報=偽装1次情報」の提供による「真実情報閉鎖国・日本」(=0次情報と行政一般についての1次情報の切断を当然視する日本社会=司法分野で言えば、冤罪が組織的に作り上げられていくシステム、ズバリ言うならば“政敵抹殺”という意味での外形(みかけ上)合法的な“ギロチン”システム)の完成という真に由々しき事態なのだ。
(取調可視化と行政一般における1次情報(公文書)管理の重要性を見失い、世界に恥ずべき“名ばかり民主主義国”を目指す日本)
【参考画像】ええじゃないか…この画像はウイキメディアより。
[f:id:toxandoria:20100503083959j:image]
当記事の冒頭で触れた「民主党・小沢幹事長が政治資金規正法違反の疑いで告発され検察が最終的に不起訴としたにもかかわらず、検察審査会が『起訴相当』と議決した」ことに関係する問題に話を戻すならば、「検察審査会制度」についても“可視化”の条件が求められることを理解しなければならない。
例えば、11人の検察審査員が、建前上は各地域の選管委員会が選挙人名簿から籤で対象者名簿を作成し、最終的にも籤で選任されることになっているにもかかわらず、実際はその選管委員会が自民党地方議員の天下り先となっており、籤選定も実態は前任・検察審査員の推薦で引き継ぎが行われている云々の噂が飛び交っており、そこでは、とても公正な人選が行われているとは思われない。
更に驚くのは、その「検察審査会」の事実上の指導役である担当弁護士が実は自民党・某首相経験者が経営する企業グループ傘下の弁護士事務所に所属する人物であること、あるいは審査判断そのものが素人手段であることを理由に担当弁護士のリードに殆ど従ったものであること云々の情報がネット上を飛び交っていることだ。無論、既存の主要メディアではこの類の情報は一切報じられない。
仮に、これがネット上の噂に過ぎないとしても、かくの如き民主主義国家としては甚だ不名誉な悪しき情報が流れ飛び交う背景には、やはり「検察審査会制度」そのものの運営上の欠陥、つまり建前上の公正さとは裏腹な“お上から一般国民を見下す意味での、由らしむべく知らしむべからずの強権的司法制度の秘密主義”ということがある。従って、この制度の運営自体の可視化と、適切な第三者機関による人選等についてのチェック制度の確立等、制度そのものの運用についての抜本的な見直しが求められる。
また、裁判員制度についても然りである。例えば、この裁判員制度に「公判前整理手続きの非公開」の問題がある。これは、裁判員制度の導入をにらみつつ刑事裁判の充実・迅速化を図るとして2005年11月の「改正刑事訴訟法」施行から導入されたものだ。それ以降は迅速かつ効率的に審理を進めるため対象刑事裁判の全てがこの手続に付されており裁判官、検察官、弁護人が初公判前に協議して証拠や争点を絞り込み審理計画を立てている。そして、公開・非公開についての規定はないが慣例として殆どが非公開で行われている。
このことは、現況の「非可視化の取調べで作成される被告・証人らの供述調書」が抱える欠陥に加え、更に非公開の「公判前整理手続き」により被告人にとって有利な証拠が排除される可能性が高まることなどで、当該事件や被告人にかかわる多角的事象を見る視点が(仮にそれが意図的でないにしても…)実際の審理以前の段階で削がれてしまうおそれがあるので、冤罪や誤審の可能性が高まっていると考えられる。
別に言うならば、「検察審査会制度」、「裁判員制度」などにかかわる被告人にとって不利な審理環境を放置することは日本国民の基本的人権の侵害であり、そのこと自体が授権規範を前提とする日本国憲法に違反している節があるが、「“政官財癒着”実効権力」のための「御用メディア」の立場に甘んずるマスコミからは、この司法制度の欠陥を厳しく糾弾する動きは一向に見られない。
それどころか、司法記者クラブに甘んじてマスゴミ化したマスメディアは、一方的に欠陥司法制度の流れを後押しするばかりで、最早、ここから彼らマスメディアが正気に戻ることなどはあり得ないように見える。そして、他ならずも、その「マスメディアの狂気」の典型が「司法検察&御用メディア」の癒着連合による民主党への「政局化狙い総攻撃」となって現れている訳だ。
かくして、長期自民党政権下で「貧相民主主義国」であった日本は、「司法とマスコミが0次情報と1次情報の切断を当然視する特異性」という深刻な病魔に冒されたまま、そして「司法検察&御用メディア」の癒着連合に騙され、煽られ、巧妙に導かれることで、世界の先進諸国の民主主義深化の方向から大きく外れつつあり、非常に残念なことだが、今度は“ええじゃないか、ええじゃないか!”を踊りまくる如き異様なメディア環境の中で、日本国民自身が総掛かりで本格的な「名ばかり民主主義国」のゴールを目指し始めたようだ。
【エピローグ画像】Lara Fabian - Laisse-moi rêver(Let me dream)
[http://www.youtube.com/watch?v=r45IpzNz08o:movie]
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