投稿者 ダイナモ 日時 2010 年 4 月 30 日 22:07:43: mY9T/8MdR98ug
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最近、筆者の周囲で大手全国紙離れが加速している。指折り数えてみればすぐに一〇人を超える! しかも、その新聞を読み続けて数十年、というコアな読者がブロック紙に代えているのだ。事態は深刻である。
なぜそんなことに?
答えは簡単、大手紙の記事が面白くないから。そして、彼らが一様に口にするのが「気味が悪いから」。
読みたい情報がない、深みのある記事が少ない、意味不明でなぜこういう記事になるのか、納得できないものばかりだから。新聞の読み巧者である長年の読者だからこそ「気味が悪い」という感想が生まれる。かれらは異口同音に、新聞そのものをやめるのではなく、より読みでのあるものを探してとりあえずブロック紙を取ってみた、と語る。
ご承知のように、日本は昨年夏の総選挙で政権交代したばかり。歴史的な出来事からまだ半年ほどで、報じることは山ほどあるはず、情報量も分析すべきことも多いはず。本来だったら読み応えのある紙面を提供しているはずなのだ。
それでも、いや、だからこそやめるのだろう。そこにある情報を読みたいと思わない、それどころか読んでいて違和感
ばかり、肺に落ちないからだ。お金を払ってまで山ほどそんなものを読まされるのは、苦痛以外の何ものでもないからだ。 読者離れの理由、なぜ記事が面白くないか、気味が悪いのかを、特に政治記事に絞って探ってみよう。
「政治部記者」はこう作られる
簡単に言ってしまえば、新聞の政治記事を作っているのは、「政治記者」ではないからだ。
かれらは「政治部記者」であって、あくまでも組織の一員であり、独立したジャーナリストではない。そんなことは一〇〇年前から同じなのだが、問題は、時代が変わり五五年体制も崩れ、第二次世界大戦後初の選挙による政権交代もなされ、取材対象の姿がどんどん変わっていることだ。またインターネットの普及やブロガーの林立で、読者の興味や情報源も多様化しているのに、取材する側はまったく変わらない。
では、この読者の要望にマッチしない紙面を作る「政治部記者」は、どう作られるのか。かれらのメンタリティや行動の形成過程を見ていこう。
大手のメディアの場合、政治部に配属されると多くの場合は「総理番」と呼ばれる首相官邸付きの記者になる。新聞の政治面の片隅に「首相の一日」や「首相動静」という小さな記事が載っているだろう。首相が何時にどこに行って誰それに会った、というあれである。
朝から晩までずっとくっついているのは時事、共同の両通信社で(首相が乗っている車の車列に入れるのはこの二社だけ)、その情報は各メディアに配信されているのだが、まあ一応自前の取材が大事だということなのだろう。程度の差こそあれ、「総理番」は各社に存在する。
首相官邸に足を踏み入れると、かれら若手の記者がずらっと横一列に並んで、官邸の来訪者に取材をかけようと待ちかまえている異様な光景が目に入る。官邸に入ってくる人たちすべてを目を光らせてチェックし、首相に会う人であれば名前と所属を確認し、入るときには「何を話しに行くのですか?」出るときにも「何を話したのですか?」と”取材”する。
夜は首相が会合をすればもちろんそこにも行く。基本的に立ちっぱなしで、朝と晩には首相周辺の秘書官や宣房副長官らの自宅に押しかけて情報を取る。これは相当な激務である。最高権力者が何をしているのか、常にチェックすることは重要だが、大勢で押しかけ、そこまでの労力を費やすべき仕事か? という疑問は払拭できない。
「総理と何を話したのですか?」など、誰にでも聞けることではないか。そこには取材先と真剣に一対一で対峙し言葉を引き出す、緊張感溢れる勝負はない。横並びとアリバイである。基本的に夜回り朝まわりも、他社と一緒。もちろん気の利いた記者は取材先と一対一の関係をつくるように立ち働くが、それでも基本は変わらない。「立ち番して、首相動静をつくる」のだ。
ある記者が総理番の意味についてこう語った。
「総理番でヘトヘトにさせて、政治取材のあり方をすりこむのだ」。かれら総理番は、名前でなく「総理番」と呼ばれる。いやもっとひどい、ただ単に「バン(番)」と呼ばれるのだ。
なぜか。
彼らは政治部という組織、ヒエラルキーの最下部に位置するからだ。「バン」にはありとあらゆる雑用がふられる。それを黙々とこなし、朝晩朝晩と回りまくり、日中はただひたすら立ち番に耐えて初めて、名前で呼ばれるようになるのだ。その時ついに「すり込み」が終了して、「政治部記者」として認められる。総理番とは政治部という組織取材の象徴的存在なのである。
「脳内政局」の出来
新聞の政治記事は一人で作るものではない。みなのもってくる切れ切れで断片的な情報をつなぎ合わせて全体的・総合的なものとし、アンカーが記事を書き、キャップやデスクの目を通る。一つの政治記事が完成するまでに、実に多くの人の取材と目が介在しているのだ。
政治とはいろいろな人の思惑や利害がぶつかりあって動いていくものだから、取材範囲も広範で、仕方がない面もある。しかし、組織取材・組織執筆であるがゆえに、何が言いたいのかだんだん角がとれてきたり(よく「バランスを取る」などという表現で言い訳するが)、逆にこんな記事にしたほうがいい、という取材当事者外の要請から、そもそもの取材現場とはかけ離れた記事になっていったりする。
紙面を見てみよう。「…になりかねない」「…しそうだ」「…の可能性もある」という表現が散見される。何を言いたいのか、はっきりせい! とつっこみたくなるのは必定だ。
あるいは、このように原稿の趣旨が変わっていくことも多い。取材担当者が「(取材対象)がこんなことを言っています。これはこういう意味だからニュースです」と報告する。キャップもニュースだと考え、デスクに相談する。しかしデスクはこう言う。「こないだうちが報道したのとトーンが違うじゃないか。整合性を考えなければ首尾一貫した紙面にならない」。
というわけで、現場の担当者が肌で感じたニュースは採用されないか、トーンが変わってしまう。せっかくの取材が紙面に反映されない---。これこそ本末転倒である。
では取材当事者以外の要請とは何だろうか。
現場のとりまとめ役であるキャップ、政治部の取材グループは官邸担当や民主党担当、自民党担当などに分かれているが、それぞれに班長ともいうべきキャップがいる。かれらは現場の責任者であって、現場の上げてくる取材メモを読んで、こういう記事を書いたらどうかと担当者や上司のデスクに提案したり、担当記者が書いてくる記事を手直ししたり、時には自分で記事をまとめたりする。
ただし、取材はしない。なぜ取材しないのか?
「虚心坦懐に物事を見て判断するためであり、自分が全部の取材対象にあたれるわけではないから、特定の取材先に引っ張られるのを避けるため」と聞いたことがある。当事者に直接接触しないからこそ視野が偏らず、総合的に判断でき、故に客観的な記事が書ける、というわけだ。一般論ではそうも言えるだろう。
しかし、まったく取材しないというのはどうなのか? 物事の重要性を判断する政局に対する勘が鈍り、現場の感覚が失われていくリスクはないと言えるのか。
加えて。かれらはまったく”虚心坦懐”などではない。情報を吸い上げて我が物としているうえに、奇妙なプライドが目を曇らせるのだ。自分の政局観こそ一流だ、そうに決まってる---という根拠のない自信。それによって、まったく現状を反映していない、かれらの思いこみによる記事が作られてしまう可能性がある。要するに妄想である。
しかも、政権交代前後のような政局が大きく動くときにこそ、組織の粋が発揮されて取材と執筆が分断されるので、そうなる危険性は非常に高い。心身ともにこき使われてすり減って疲れ、そのぶんプライドは増大し、妄想は膨らみまくる。 結果として、脳内政局とでもいうべき状況が出現する。執筆者の頭のなかだけで膨らんだ妄想が、記事としてプレゼンテーションされるのである。
小沢さんがいます。小沢さんは民主党に新しいカルチャーを持ち込みました。それは、マジな権力闘争であり、甘かった民主党に根性棒を注入して選挙が大事だという基本を教え、自ら地方行脚して範を示しました。つまり、民主党の下半身は小沢ライン、と。
で、下半身があるなら上半身だよな。上半身を象徴するのは誰かな? 岡田かな。かつて小沢と行動をともにしたけれども、小沢的なものを嫌って小沢の許を離れたから。政策通だし、見栄えもいいし、説明も上手だし、代表もしているし(ここで、なぜたとえば前原ではなくて岡田なのかは合理的な説明はない。なぜか。単に執筆者が岡田が好きだからである)。それじゃ、岡田、と。小沢的前近代的下半身と、岡田的近未来的上半身。これこそが民主党の強さだ! 見出しにもなりやすい。なんかこのロジックつて、オレさましか書けないブリリアントな見方……。
いやそうなのか? 岡田はきまじめさがすぎるが、それが政治的な未熟さにつながらないのか。政治は時には原理主義が、時には寛容さが必要だろう。彼にはその使い分けがなく、まじめ一本やりだったゆえに、郵政総選挙で博打打ち小泉に敗北したのではなかったか? そんなツッコミもぶっとばしてあまりあるほどに、「この見方こそ正しいのだ!」という、「政治部記者」の妄想とプライドと優越感と自己陶酔に満ちた記事が作裂する。だから、気味が悪いのだ。
妄想記事も面白ければ、多少は許される余地があるかもしれない。週刊誌記事の何割かはそういったものだろう。ある売れっ子編集長はかつて言った。
「面白い記事の企画というのは、こういう記事が読みたいと思ったところから始まる」。なるほど読者のニーズに沿った記事ということだ。そして、週刊誌ならば売れ行きによって、それがほんとうに読者の要望に応えたものかどうかが示される。しかし新聞は読者の反応がストレートに現れないし、記者は購読者数に一喜一憂はしない。ましてや自分たちの記事が購読者数にどう影響しているかなど……、ほとんど考えないのである。
つまり、新聞は読者のニーズに沿っていないのだ。
理由は簡単、まったく読者に接していないからである。新聞記者は忙しすぎる。毎朝毎晩、朝刊夕刊朝刊夕刊とやってくる締め切りに追いまくられている。しかも、他紙より少しでも時間的に早い特ダネを要求される。
特ダネには二種類ある。時間的に早いもの、つまり各種の人事などに代表される、いつかは必ず載せるものをいかに早く情報を取ってくるか。それと、中身的な特ダネ、つまり調査報道などに代表される、他社が追っていない独特のニュースを取ってくるものの二つがある。ネット時代の現在、独自ネタこそ読者から求められているはずだが、しかし早さの特ダネは結果がはっきりわかるため、否応なく追わされる。これも横並び、アリバイである。
政治報道とは少しずれるが、取材源について触れておこう。たとえばかまびすしかった小沢幹事長資金問題についての報道。事件そのものの捜査についての状況は……、もちろん地検から取るのである。その他の弁護士や事件のさまざまな当事者や関係者からも情報は取るが、メーンはなんといっても操作の主体、地検取材である。会見や記者説明のように公のものではなく、情報源を隠す情報を”リーク”というのならもちろんリークはある。そのために夜討ち朝駆けをするのだから。リークだけで記事を作るのではないが、リークなしで記事は作れない。しかし、あらゆるリークには意図がある。どういう意図で向こうがリークするのか、なぜメディアを利用しようとしているのか、そこをきちんと読み取って、その土俵に乗らない記事を作ることが肝要なのだ。
しかし……。現状では「とにかく情報が取りたい」が先行するあまり、検察の設定する土俵に乗ってしまっていることが大半だ。検察をつきはなして、客観的に情報を判断した記事を載せる、そこまでの勇気と取材力が備わっているメディアはほとんどないだろう。なぜなら検察様を怒らせてしまったら、情報をいただけなくなって一巻の終わり、だからである。それ以上の情報を他から取れるという自信がなければ、自ら土俵を設定することはきわめて難しい。
歪んだプライドと「ブンヤごっこ」
「政治部記者」の生活に戻ろう。要は、記者は忙しくて世の中に触れていないのだ。朝から晩まで取材対象を追い、それだけならまだしも、記者クラブや記者会館に閉じこもって帰宅は深夜、ろくに家族と接する時間もない---という日々では、今、読者が何を求めているのかなど、まったくわかるわけがない。自然や本や映画に触れる暇もなく、話す相手は同業者ばかり。何が面白いのか、何に心が動かされるのか感じ取る感覚もどんどん失っていく。
そう、かれらは悲惨なのだ。ここにウィンウィンの真逆、誰もがハッピーでない状況が出現する。新聞をつくる人は忙しすぎてストレス過多でくたくた、しかしその結果出来ている記事は面白くなくて読者は離れていく。
さらに、新聞は毎朝毎夕発行されるから、その紙面を埋めなければならない。ここが逆説的でもあるのだが、一回一回の紙面は限られているから、ばっさり削られて意味不明だったり一面的だったり紋切り型だったり単純すぎる記事になってしまう一方、毎朝毎晩発行されるために、たとえ今日はニュースがなくても、書きたいことがなくても、書くべきことはなくても、政治面はそこに存在し、新聞は発行される。
全国紙とくらべて、ブロック紙や地方紙のほうがはるかに元気がいい理由もこれで説明がつく。人数が少ない分、組織ではなくて個人に任される領域が増える。自分で取材し、自分で記事を書く。抜いた・抜かれたの「時間的に早い記事」では人員的に勝負にならないから、中身本位の特ダネや独自の視点、調査、分析、取材の積み重ねで勝負をする。だから深くて面白い記事ができ、読者も納得するのだ。
全国紙記者を支えるのはプライド、名の通った全国紙の政治記事を書いているのは自分、論調をつくっているのは自分たちなのだという歪んだプライドだけである。
政治部に配属されるのは、社内(あくまで社内の、であるが)の厳しい競争をくぐり抜けた実力の持ち主か、あるいは上司に恵まれた運のいい人か、上司との関係を頼りにやってくるタイミングとコネを作りあげてきたかのどれかだから、もともとプライドは高い。それがこの猛烈な忙しさのなかで、ますます高く、エベレストなみに聳え立つのである。
しかし実際のところ、組織であるがゆえにかれらは代替可能であって、非常に短い賞味期限が終われば、次から次へと替えはベルトコンベヤよろしくやってくる。まさに使い捨て、と言ったら言い過ぎだろうか。
そこで始まるのが短い春を楽しむかのような「新聞記者ごっこ」である。荒くれ新聞記者どもここにあり! の、ネットも携帯もない、すべて脚で稼いで鉛筆なめなめ記事を原稿用紙に向かって書いていた古き良き時代が、そのまま現代にも保存されているかのような集団演劇である。
「現場の状況はどうだ!」
「はい、こうです!」
「おまえはこれを書け!」
「はい!」
「よし、頼むぞ!」
「承知しました!」
ドラマの見すぎか? と書いていて恥ずかしくなるが、粗雑であることがまるで美徳であるかのように、表面だけ粗雑に、乱暴にふるまう記者たち。実際には非常に細かい、というより小さすぎることにこだわって、それが紙面をつまらなくしているのだが、”荒くれ””バンカラ”が新聞記者としての伝統やDNAであるかのようにふるまうことに、集団で陶酔するのである。言わば「ブンヤごっこ」。
俯瞰してみればきわめて悲哀に満ちた状況ではあるが、そうやってできあがる、自己陶酔と欺隔に充ち満ちた記事を読まされる読者はたまったものではない。これもまた「気味悪さ」の一因であろう。
政治家との共犯関係
対外的な取材にも、「気味悪さ」の原因はある。政治取材と政治記事というのは、取材相手との間合いや記事にさまざまな問題をはらむ。たとえば、誰に向けて記事を書くかという問題だ。そんなの読者に向けてに決まってるじゃん? というあなた、それは違います。「政治家に向けてのメッセージ」として書かれる記事が存在するのだ。
これこそ政治記事が業界記事と呼ばれるゆえんである。毎日継続して読んでいる読者にしかわからない、いや読んでも意味がわからない記事。それは、圧倒的多数の素人読者に向けて書かれているのではなかったからなのである。
ある有名保守系政治家の言だ。
「政治記者は、記事を書かなくなってこそ一流」
……この理屈が理解できるだろうか? つまり、情報を取ってもそれは新聞記事には利用しない。では何のために情報を取るか、つまり政治家と情報を共有するかといえば、政治家の相談相手になるから、である。すなわち政治家と記者は共犯関係になるのである。
そこまでの深い関係を構築できたといえばそうなのだが、それを記事にしなければいったい何のために記者をやっているのか? という本末転倒な事態に陥る。政治家との関係にがんじがらめになってしまうのだ。
確かに、「政治部記者」たちにも同情すべき点はある。前述のように凄絶に酷使され、それなのに記者生命は短く、紙面は限られているがゆえに、冒険的で野心的な表現はなかなかできない。だがしかし---。
アメリカ政治ジャーナリズム史に残る名著、『ベスト・アンド・ブライテスト』の著者、デイビッド・ハルバースタムは自らのことを「ジャーナリストであり、歴史家であり、劇作家である」と表現した。日本の「政治部記者」に、その覚悟はあるだろうか。いや覚悟はあるつもりなのだが、どこか別の方向に行ってしまって、完璧に勘違いした覚悟になってしまっている……。それこそが、新聞が読まれない根本原因なのである。
雑誌 「世界」 四月号より
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ここまで読んでいただいた方はお疲れ様でした。
さすがにジャーナリストを職業としている人が書く記事の深さには舌をまいてしまいます。幾百万のブログがあろうとも、この記事に比肩するだけの記事は到底書けないでしょう。このような深みのある記事がいくつも掲載されている雑誌「世界」ですが、販売部数は5万部もいかないと思われます。しかしながら、そこに掲載されている記事と比較して、阿修羅サイトに投稿されているブログ記事など単なる「作文」のレベルでしかないといったら言いすぎでしょうかねぇ。
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