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平野貞夫氏の新党「たちあがれ日本」描写(4月23日メルマガ) http://www.asyura2.com/10/senkyo85/msg/174.html
メルマガ『平野貞夫の国づくり人づくり政治講座』第60号(2010年4月23日発行)全文です。 《以下転載》 4月10日、新党「たちあがれ日本」が立ち上がった。平沼赳夫・与謝野馨・園田博之氏ら5人に加え、発起人に石原慎太郎都知事が名を挙げ話題となっている。 「旗色も定まらず、賛同者少なく厳しい船出」(朝日)とか、「立ち枯れ党」「シルバー党」等と揶揄されているが、私は率直に「日本のため頑張ってほしい」と申し上げたい。という理由は、平沼・与謝野・園田の三氏は旧知の友人だからだ。必ずしも思想信条を同じくするわけではないが、真剣に日本のあり方を議論し学んできた仲間であった。 知り合った順からいえば、園田氏とは昭和40年からの付き合いだ。父・園田直氏が第一次佐藤内閣で、衆院副議長のとき私が事務局から出た秘書で2年間勤めた。当時、博之氏は大学生だったと思う。父親の政治信条を継承しており、バランス感覚の良さでは得難い人材である。 与謝野氏とは、衆院事務局の頃からの付き合いだ。特に議院運営委員会の担当だった時、国会改革や憲法改正問題で立場を超えて議論してきた。私が参院議員に高知地方区から立候補したとき、無所属であったが応援に来てくれた。麻生太郎氏も一緒だった。 参院議員になった私を上手に使ったのが、与謝野氏だった。代表的な例は、いま騒ぎになっている「普天間の海兵隊移転」だが、平成9年橋本自社さ内閣は沖縄基地の借地延期問題で立ち往生する。橋本首相と小沢新進党党首との党首会談で政策合意書をつくり、沖縄特措法を成立させたことがある。この合意文書を作成したのが、当時の与謝野官房副長官と私であった。 平成11年に悪名高い「通信傍受法」(盗聴法)が成立した。何故か当時、通産大臣だった与謝野氏が私を引きずり込み、衆院法務委員会の審議段階から成立のためのシナリオづくりと、参院での強行採決の指令塔として使われた。大腸ガンを手術する寸前だった。 与謝野氏は、私の故里の偉人ジョン万次郎を記念した国際草の根財団の副会長をやってくれている。小沢一郎氏が会長で、3月18日に理事会があり、久しぶりに3人が顔を合わせた。与謝野氏とは立ち話であったが、生命を懸けて新党をつくると眼で語っていた。 平沼氏との縁も深い。平成10年秋から始まった自民党と自由党の連立協議の交渉窓口は、平沼氏と私であった。私が執筆した連立基本政策を高く評価して、小渕首相を説得してくれたことがある。 郵政民営化をめぐって、自民党を離れ無所属となって以来、私も参院議員を引退しており、相談に乗っていた。安倍内閣時代に平沼氏を中心に新党をつくる構想があった。その時、私は 石原氏について、私は直接接触はない。しかし、平成9年頃、浜渦都副知事らを通じて、石原都知事を首相にする政党をつくろうと構想をつくったが、石原都知事が「御輿をつくるなら乗ってやる」という姿勢を崩さず、共に生命を懸ける人物でないことがわかった。小説の中でしか国家を考えない人物と思った。 平沼氏と与謝野・園田氏の間に、思想信条に融け合わない部分があるが、私はそれを問題としない。若い政治家の多くは、理論と数字があれば政治が動かせるという「偏差値症候群」を患っている。彼らに政治のもつ人間観と世界観の重要性を教える先導となってほしい。これが、時代を遅れて自民党を離れた友人たちへの進言である。 (つづく)
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