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韓国併合100年を考える (かけはし)
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投稿者 ダイナモ 日時 2010 年 4 月 22 日 18:54:43: mY9T/8MdR98ug
 

http://www.jrcl.net/frame100419d.html

 今年八月二十二日で「韓国併合」条約が、日本の軍事的圧力の下で調印されてから百年にあたる。一九四五年の天皇制日本帝国主義の敗北にいたるまで三十五年間にわたり、朝鮮の民衆は苛酷な植民地支配の下に置かれ、民族的権利を奪われて侵略戦争に動員されてきた。この歴史を真に清算することが問われている。

統治権の「譲与」と「受諾」

 一九一〇年八月二十二日、「韓国併合に関する条約」が、韓国を代表した李完用首相と日本を代表した寺内正毅統監によって調印され、韓国は最終的に日本に併合されることになった。今年八月で「韓国併合」からまる百年となる。
 「韓国併合に関する条約」は全八条からなるが、その第一条は「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且(かつ)永久に日本国皇帝陛下に譲与す」であり、第二条は「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且(かつ)全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」であった。つまり、韓国の皇帝が統治権を日本に譲ることを申し出て、日本の天皇がその譲与申し入れを「受諾」するという形式をとっていた。
 日本政府はアジア太平洋戦争の敗北と朝鮮半島植民地支配の放棄以後も、韓国併合が日韓両政府の「合意」に基づくものであり、当時の国際法上「合法」だったという立場を崩していない。
 一九六五年の日韓基本条約第二条は「一九一〇年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国の間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」となっている。この「もはや無効」というあいまいな規定は、三次にわたる日韓協約による「保護国」化や韓国併合は、不当な圧力・強制によるもので当時から違法であり、そもそも無効な条約だったという韓国政府の主張を日本政府が拒否した結果だった。
 しかし実際はどうか。日本政府は一八六八年の明治政権発足当初から朝鮮を清国への「宗属」関係から切り離し、「対等な二国間関係」という名分を振りかざしながら日本への従属関係に組み込むことを一貫した政策としていた。武力により「開国」を強要した一八七五年の江華島事件と、不平等条約である一八七六年の「日朝修交条規」がその出発点だった。明治政権による日本の「近代国家」化とは、北海道(アイヌモシリ)と沖縄(琉球)の国内植民地化と軌を一にした朝鮮への対外侵略・植民地化と不可分であった。
 早くも明治政権発足の年、日朝外交の窓口を担当していた対馬藩主の新政権に対する「上申書」(1868年)は、朝鮮を「我版図(はんと)同様」、対朝鮮外交を「蝦夷地開拓同様」の性格を持つものとして位置づけていたのであり、この方針が「その後の日本の対朝鮮外交の基調をかたちづくった」のである(大江志乃夫「東アジア新旧帝国の交替」、『岩波講座 近代日本と植民地 1 植民地帝国日本』岩波書店 1992年)。
 明治政権は「抗日暴動」の性格を帯びた一八八二年の壬午軍乱(日本公使館襲撃)によって朝鮮への清国の支配的影響力が増大した状況を取り戻すべく、一八八四年には朝鮮に駐留する日本軍を使って清国の影響を排除し、親日派政権を樹立するクーデター計画を敢行し、失敗した(甲申政変)。日清戦争開始にあたっては、朝鮮王宮を占領し国王・高宗を虜にする「王宮占領事件」を引き起こした。日清戦争後の一八九五年十月には、日本の介入に反発してロシアと接近する宮廷内勢力を排除するために、新たに駐朝公使となった三浦梧楼の主導の下で王妃(閔妃)を虐殺した(乙未事変)。

日清・日露戦争を契機として

 日清・日露戦争を決定的契機として、日本は欧米列強の対立・協力関係を利用しつつ、東アジアにおける新たな帝国主義国家として韓国(朝鮮は清国との「宗属関係」からの離脱の表現として、1897年に大韓帝国に国号を変更)の独立を奪う「保護国」化という侵略・植民地政策を推し進めた。 
 日露戦争開戦と軌を一にして日本政府は武力による脅迫によって一九〇四年二月に「日韓議定書」を強要した。同議定書は、韓国は「施政改善」についての日本の「忠告」を受け入れる、「侵略・内乱」などの事態に際し、日本は韓国において「臨機応変」の措置をとる、としている。
 つづいて同年九月に「第一次日韓協約」(韓国政府は、日本の財務・外交顧問の意見に従う)、一九〇五年十一月に「第二次日韓協約」(韓国の外交権の剥奪)をまさに銃剣による威嚇の下で強制的に調印させた。この武力による威嚇の下での「第二次日韓協約」を国際公法違反として各国に訴えた韓国皇帝・高宗の試み(ハーグ密使事件)を口実に押しつけられた一九〇七年七月の「第三次日韓協約」では、日本の韓国統監による人事を含めた韓国内政全般にわたる支配が規定され、韓国軍の解散も約束された。皇帝・高宗は強制的に退位させられることになった。
 こうした経過の上に行われた一九一〇年八月の韓国併合は、まさに明治国家の一貫した武力による韓国への従属強要――植民地化政策の帰結であり、「合意に基づく」「合法的」な併合であったという正当化は成り立たない。
 海野福寿『韓国併合』(岩波新書、1995年)は、「韓国併合は形式的適法性を有していた、つまり国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である」としている。もちろん「合法であるということは、日本の韓国併合や植民地支配が正当であることをいささかも意味しない」と断った上ではあるが。海野はこの日本の朝鮮半島植民地支配の「不当性」の問題を「適法性」の問題ではなく「日本人の道義性」の問題として取り扱うべきだとしている。
 この点に関して、後述する一九九五年八月十五日の村山首相談話の中で「植民地支配への反省」の文言があることについて、同年十月五日の参院本会議で共産党の吉岡吉典参院議員が「朝鮮併合は朝鮮人民の意思と無関係に日本が強制して朝鮮を植民地支配下に置いたものであることを認めたものですか」と質問した。しかし外務省のペーパーに基づく村山答弁は「韓国併合条約は当時の国際関係等の歴史的事情の中で法的に有効に締結され、実施されたものであると認識いたしております。しかしながら、今申し上げたような認識と韓国併合条約に基づく統治に対する政治的、道義的評価は別の問題」というものだった(和田春樹「韓国併合一〇〇年と日本人」、『思想』10年1月号参照)。つまりここでの村山答弁は同年に刊行された海野の著書と全く同じ論理に貫かれている。
 海野が述べるこの「不当であるが合法である」という法文的形式論理については、日本帝国主義の韓国併合・植民地支配を「正当化」する論拠として、戦後の日本政府や極右勢力の中で一貫して主張され(もちろん「不当」性についてはふれず、「合法」性にのみ言及して)、今日では明白なレイシスト的論理として新たに強化されていることに対して、われわれは改めて注意しなければならない。

「近代化」に貢献したとする主張

 日本政府は戦後の日韓国交交渉の過程で、朝鮮への植民地支配が朝鮮の「近代化」に貢献したとする主張を繰り返してきた。
 日本の敗戦後、朝鮮半島南部を占領した米軍によって設置された米軍政庁が日本人所有の企業・工場を接収したことについて、朝鮮総督府総務課長だった山名酒喜男は一九四五年十一月四日付米軍政庁の民政長官と法務長官宛意見書で「思うに、日本人は日本より資本を輸入して自己の工場及び施設を完成し、日本人の技術力に依り苦心努力を重ねて、工場・事業場を運営し来れり」「然るに朝鮮人は、日本人の此の工場設備を、総て朝鮮人より代償なくして搾取せるかの如く主張」していると批判した。
 この居直りの見解は、そのまま新憲法後の日本政府にも引き継がれた。たとえば外務省に設置された平和条約問題研究幹事会は一九四九年十二月二十三日の「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」で次のように述べている。
 「日本のこれら地域(筆者注:朝鮮・台湾などの植民地)に対する姿勢は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでない……。逆にこれら地域は日本領有となった当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト(注:低開発)な地域であって、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもっぱら日本側の貢献によるものであることは、すでに公平な世界の識者――原住民も含めて――の認識するところである。そして日本がこれら地域を開発するに当たっては、年々国庫よりローカル・バヂェット(注:地方予算)に対し多額の補助金をあたえ、又現地人には蓄積資本のない関係上、多額の公債及び社債を累次内地において募集して資金を注入し、更に多数の内地会社が、自己の施設を現地に設けたものであって、一言にしていえば日本のこれら地域の統治は『持ち出し』になっている」。
 「……これら地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、世界各国とも久しく日本領として承認していたものであって、日本としてはこれら地域の放棄には異存ないが、保有をもって国際的犯罪視し、懲罰的意図を背景として、これら地域の分離に関連する諸問題解決の指導原理とされることは、承服し得ないところである」(外務省外交資料館文書より。高崎宗司『検証 日韓会談』岩波新書、1996年刊から重引)。

戦後日本の一貫した正当化論

 ここに示される外務省の見解の中に、戦後日本の「併合・植民地化」正当化論の論点が基本的に出そろっている。朝鮮の植民地支配は、日本の「持ち出し」によって「近代化」に貢献したものであり、国際的にも広く承認されたものであったという朝鮮蔑視に貫かれた外務省の公式的立場は、その後の日韓会談の中でも一貫して露呈し、交渉を阻害する最大の要因となってきた。
 一九五三年十月に始まった日韓国交正常化第三次会談において日本側首席代表の久保田貫一郎・外務省参与は「日本としても朝鮮の港や鉄道を造ったり、農地を造成したりし、大蔵省は、当時、多い年で二千万円も持ち出していた」と語り、日本の植民地支配は朝鮮のために良いことだった、と主張した。この発言は政府の公式的立場であり、韓国側からの厳しい批判を受けて日韓会談は長期にわたって中断することになった。重要なことは、当時のメディア・世論はほとんど久保田発言支持であり、左派社会党もまた日本政府の立場を支持し、共産党の「アカハタ」も久保田発言について沈黙していたことである。
 日韓交渉が大詰めを迎えた一九六五年一月にも、日本側首席代表となった高杉晋一(三菱電機相談役、経団連経済協力委員長)が外務省記者クラブで「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした。山には木が一本もないということだが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからだ。もう二十年日本とつきあっていたならこんなことにはならなかっただろう」「日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみな置いてきた。創氏改名もよかった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫というものではない」と語った。
 しかしこの発言は「オフレコ」とされ封印されてしまった。高杉発言を暴露したのは「アカハタ」だったが、久保田発言の時と違って朴軍事独裁体制下の韓国外務部は高杉発言について「共産党の陰謀ででっち上げられたもの」ともみ消しを図り、高杉自身も首席交渉の場で「事実に反する」と自らの発言を否定した。「オフレコ」を破り、報道した新聞もなかった。この発言は封印されてしまったが、それが日本の保守政治家、支配階級のみならず、革新政党や労働組合をもふくむ一般民衆多数派の「本音」だったことは明らかだろう。
 高杉発言の論理は繰り返し自民党など支配的政治家の「問題発言」として噴出し(「日韓併合は形式的にも、事実の上でも日韓両国の合意の上に成立している」とした1986年の藤尾文相発言など)、最近でも麻生前首相の「創氏改名は朝鮮人の要望によるもの」という発言が出ている。

戦後補償要求と村山談話

 一九九一年八月、元日本軍「軍隊慰安婦」だった金学順さんのカミング・アウトは、日本軍性奴隷制の被害当事者からの初の告発として、大きな衝撃を与えた。「従軍慰安婦」は民間業者の「商行為」だと居直ってきた日本政府も、「慰安所の設置」、「慰安婦の募集」、「監督」などに日本軍が直接関与していたことが資料的にも明らかになったことにより、一九九三年八月の河野官房長官談話で「慰安婦」問題に関して「総じて本人たちの意思に反し」「女性の名誉と尊厳を傷つけた問題」として、「お詫びと反省の気持ち」を表明した(河野談話)。中国人強制連行による被害の「戦後補償」問題も提訴され、戦争責任とならぶ戦後責任、そして「戦後補償」の課題が大きく取り上げられることになった。
 冷戦構造の崩壊をついて噴出した、「軍隊慰安婦」の尊厳と正義、自己回復への訴えである「戦後補償」の要求は、アジア民衆への戦争犯罪・植民地支配の責任を果たさないまま、「復興と繁栄」を遂げた戦後日本の在り方を鋭く問うものだった。これは日韓会談の中で露わになった朝鮮植民地支配正当化の論理を根本的に克服する機会でもあった。
 しかし戦後五十年の一九九五年にあたって村山社会党委員長を首班とする自・社・さきがけ政権の下で採択された「戦後五十年国会決議」(6月)は、「大東亜戦争は自存自衛の戦争」だったという自民党内の天皇主義極右派の巻き返しによって「侵略戦争」という言葉も被害者への「謝罪」も「補償」もない無意味なものにさせられた。
 八月十五日に閣議決定の上で発表された村山首相談話には確かに「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」という一節がある。
 しかしこの談話には、いかなる事実に対して「反省とお詫び」するのか、という具体性が全くない。「過去の一時期」とはいつのことか、どのように「国策を過った」のかという指摘もない。従って、韓国併合と植民地支配を一貫して正当化してきた歴史観の転換もないのである。それは、日本軍「慰安婦」への謝罪と補償が「アジア女性基金」に換骨奪胎されてしまったことと表裏一体をなすものだった。

日本は朝鮮独立を支援した?

 「戦後五十年」は、日本の侵略戦争と植民地支配を正当化する極右の政治潮流が新たなレベルで結晶化する契機となった。自民党に設置された「歴史検討委員会」は「大東亜戦争はアジア解放の戦争」だったという視点から一九九五年に『大東亜戦争の総括』を刊行した。安倍晋三、中川昭一などの極右派が「若手議員」として登場したのもこの時である。それは後の「新しい歴史教科書をつくる会」などの「歴史修正主義潮流」の活性化、「主権回復をめざす会」、「在日特権を許さない市民の会」など「行動する保守」を自称する公然たるレイシストたちが、旧来の「街宣車右翼」とは一線を画す装いで登場する水路を切り開いた。
 日本の韓国併合・植民地支配に関する彼らの歴史観は、前述した戦後の日本政府・支配階級・多数派世論の認識をほぼ忠実に継承したものだ。彼らの一貫した立場は、「明治政府は朝鮮の独立を一貫して支えようとした」とするものだった。
 たとえば「歴史修正主義」の旗手として一九九五年に「自由主義史観研究会」を立ち上げた藤岡正勝は『坂の上の雲』に代表される司馬遼太郎の明治国家についての認識に依拠しつつ「日本政府が望んでいたのは、李氏朝鮮がロシアや清国の言いなりにならない、自前の独立した近代国家としての歩みを始めてほしいということでした」と述べた(藤岡『汚辱の近現代史』徳間書店刊、1996年)。ただこの段階(1996年)での藤岡・「自由主義史観研究会」の立場は「日露戦争後、アメリカの日本敵視政策が始動するとともに、日本は戦略的な選択の誤りをおかした。朝鮮半島に対する対応は別の選択肢がなかったかどうか、十分な検討の余地がある」という、いまだ「中間的」なものであった。
 他方「新しい歴史教科書をつくる会」の会長になった西尾幹二は『国民の歴史』(扶桑社刊、1999年)の中で次のように書いている。
 「朝鮮半島は北からの脅威のいわば吹き抜けの通路であった。明治日本は自衛のためにも朝鮮の清からの独立と近代化を願い、事実そのために手を貸したが、朝鮮半島の人々はいつまでたっても目が覚めない。自国さえ維持できない清に、朝鮮半島を牛耳ったままにさせ、放置しておけば、半島はロシアのものになるか、欧米諸国の草刈り場になるだけであったろう。つぎに起こるのは日本の独立喪失と分割統治である。/日本は黙って座視すべきだったろうか。近代日本の選んだ道以外のどんな可能性が他にあったであろう」。
 西尾は日清戦争における日本の勝利によって、「朝鮮は初めてこれで中国から解放され『独立国』となった」と語るとともに、当時の東アジアをめぐる国際環境の中で「一九一〇年の日韓併合は、ここまでくると当時としてむしろそうならなかったら不思議と言われそうな世界からは当然と見られた措置であった」とまで主張している。
 つまり、明治の天皇制日本国家は、日露戦争まで一貫して「善意に満ちた隣国」として朝鮮を「独立近代国家」とするための支援を行ってきたが、朝鮮の頑迷固陋のためにやむを得ず併合することになったと主張するのであり、また日本の朝鮮併合は朝鮮の「近代化・経済発展」のための「出血サービス」だというのである。
 『嫌韓流』や「在特会」に代表される極端なレイシズムの論理は、行動・コミュニケーション形態における「新しさ」はありながら、基本的には戦後も一貫して世論の主流派だった朝鮮人蔑視に根ざした、こうした韓国併合・植民地支配正当化の伝統的主張に依拠したものと言えるだろう。

東学農民軍「せん滅」作戦

 「日本が朝鮮の独立国化」を目指したという右派勢力の主張は、たとえば日清戦争後の講和条約(下関条約、1895年4月)の第一条が「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因(よ)って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし」とされていることなどを論拠としている。しかしこの朝鮮の「独立自主」化とは、清国との「宗属関係」を断ち切って日本の「保護国」化――事実上の植民地支配の下に組み入れるという宣言だった。
 日露戦争においてはもはや「韓国の独立自主」支援という名分は言葉としても出てこなくなる。実際、開戦前年(1903年)の日露協商にむけて日本側が閣議決定した骨格は「日露両国は互に其韓国又は満州に於いて現に保有する正当の利益を認め、之が保護上必要の措置を執りうること」だった。つまり満州と韓国の日露両国による分割・植民地化の提案である。さらに同年八月に小村外相が駐露日本公使宛に送った訓令は「韓国における改革及善政の為め助言及援助(但し必要なる軍事上の援助を包含すること)を与うるは日本の専権に属することを露国に於て承認すること」という規定を盛り込んだものだった。
 日清・日露戦争は、いずれも右派の主張するような日本の「自衛戦争」などではありえない。それはまさしく朝鮮の従属化・植民地支配をめぐる侵略戦争であり、韓国の独立を奪い、併合する力学を内包したものだった。さらにそれは中国を中心とした東アジアの旧秩序の崩壊過程の中で、欧米帝国主義の侵略・植民地化の体制に新興帝国主義としてその一翼を担った日本が、中国・アジア侵略戦争に突入していく水路を形成するものだった。
 こうした日本の侵略に対して朝鮮半島の民衆は決然と抵抗し、日本軍はその抵抗闘争に残虐な弾圧を加えた。一八九四年の日清戦争では朝鮮を占領した日本軍に対し東学農民軍が蜂起した(甲午農民戦争)。この農民蜂起に対し日本軍は「ことごとく殺戮すべし」との方針で包囲殲滅作戦を強行した。殺された東学農民軍は優に三万人を超えたとされる。この数は日清戦争での両国戦死者数(戦病死をふくむ)をはるかに上回る(井上勝生「東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営」、『思想』10年1月号)。
 また日露戦争下の日本軍占領に対しても各所で抗日運動が展開され、そうした流れの中で一九〇六年から一九一〇年の併合後も「義兵」の日本軍に対する戦闘が展開された。とりわけ一九〇七年の韓国軍の解散以後、旧韓国軍兵士たちの義兵戦闘参加が増大し、最盛期の一九〇八年には、交戦回数が約二千回、戦闘に参加した義兵の数は八万人以上に達した(海野福寿『韓国併合』に転載された韓国の「国史編纂委員会」編『韓国独立運動史』から作成した表による)。
 こうした植民地支配への抵抗の闘いの水脈は韓国併合以後も、厳しい弾圧を受けながら、時として大きく噴出し(1919年の3・1独立運動など)、連綿として継続したのである。

東北アジアの平和のために

 「韓国併合」百年の今年、八月二十二日の「併合条約」の日を中心に、さまざまな企画が進行している。一月三十一日には八月の「日韓市民共同宣言大会」開催に向けた日本側実行委員会も発足した。二月二十七日に開催された「2010年運動」主催の「韓国併合100年―3・1独立運動91周年集会」では日韓両国で同時発表される「東北アジアの真の和解と平和のための2010年日韓(韓日)民衆共同宣言」が読み上げられた。
 「東アジア共同体」構想をうたう鳩山政権は、自ら「歴史を直視する政権」と語り、十一月十五日のシンガポールでの講演で「日本は多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と損失を与えた後、六十年以上がたった今も、真の和解が達成されたとは必ずしも考えられていない」と述べている。もっともこの講演は「アジアでの米国のプレゼンスはアジアの平和と繁栄に重要な役割を果たし、今後も果たすだろう」という「日米同盟」基軸論とセットであり、また「自衛艦を『友愛ボート』として民間人を乗せ、太平洋・東南アジア地域で医療・文化活動を行う」といった自衛隊を活用した「東アジア共同体」論なのであるが。鳩山政権が真に「歴史を直視」することができるかどうかは、何よりも政権の実績によってこそ検証される。高校授業料の「無償化」対象から、当面朝鮮学校を排除し、外国人参政権法案を先送りしようとしている鳩山政権に侵略と植民地支配の歴史を「直視」する姿勢があるのだろうか。
 他方、極右レイシスト勢力は「韓国併合百年」の今年を、日本の侵略・植民地支配の歴史を正当化するために「日韓併合百年集会」を八月二十二日に日比谷公会堂で開催するとしている。
 日本の労働者・市民運動にとって、「韓国併合」百年の課題は、第一に、日本帝国主義による韓国の独立を奪った「韓国併合」・朝鮮植民地支配の歴史を認識・総括し、同時に、そうした支配者の政策を支持したばかりか、むしろその先兵になっていった民衆の歴史的な朝鮮蔑視・差別意識を真に克服することである。
 韓国併合・植民地支配への謝罪、軍隊「慰安婦」をはじめとした戦争被害者への謝罪と補償を行い、被害者の尊厳・正義を国会決議を通して実現することは、その第一歩である。朝鮮人学校の無償化除外を阻止し、外国人参政権法案を成立させることも、そうした運動の一環をなすものだ。
 帝国主義的民族主義・国家主義意識は、「戦後民主主義」の下でも繰り返し再生産されてきた。今日、資本主義の危機の深まりと、東アジアにおける日本の位置の急速な衰退の中で、若い世代の間にも公然たる排外主義・レイシズムに同調する気分が少なからず広がりを見せている。レイシスト勢力は「嫌中・嫌韓」意識をなんのためらいもなく暴発させ、朝鮮学校、中国人商店、彼らが「反日勢力」と規定する労働者・市民運動に対しても直接的暴力行使をエスカレートさせつつある。萌芽的ファシズム運動としての性格を持つこうしたレイシスト勢力を社会的にはねかえす運動を強化しなければならない。
 第二は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への経済制裁を解除し、日朝国交正常化にむけた交渉を前進させるとともに、東北アジアの非核化と平和保障の枠組みを構築するプロセスを前進させることである。一九九二年の小泉・金正日の「ピョンヤン宣言」では、「植民地支配によって朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め痛切に反省する」と小泉が述べ、国交正常化交渉の再開を確認するとともに、賠償ではない「経済協力方式」による支援を北朝鮮指導部が受け入れた。
 しかし、北朝鮮による拉致犯罪と、核実験の強行、そして北朝鮮への国際的経済制裁の強化を背景に、国交交渉は完全に行き詰っている。われわれは北朝鮮・金正日軍事独裁体制の拉致犯罪・民衆への人権弾圧を糾弾し、冒険主義的「核開発」計画の放棄を要求する。しかしそのことは、日本政府が「制裁」を解除し、国交交渉の誠実な再開と進展に向けて歩を進めるための努力と並行したものでなければならない。
 何よりも「北朝鮮の核の脅威」という自分たちも全く信じていない理由で、「ミサイル防衛」という名の先制攻撃体制の強化をふくむ「日米同盟の深化」に固執することから転換し、軍事力によらない「平和」の基盤を構築するためのイニシアティブを「東北アジア」の地から構築することが必要なのである。その意味でも沖縄の米軍基地撤去、米軍再編戦略の撤回、安保条約の廃棄は、朝鮮半島の平和にとって決定的な意味を持っている。
 朝鮮半島に今日も続く戦争状態に終止符を打つことは、朝鮮半島の南北分断に責任を有する天皇制日本帝国主義の植民地支配の清算にとって不可欠の課題なのである。
 われわれは、東アジアにおける持続的な平和の実現を保障する地域的な政治構造をめざし、その下での民主主義・人権・社会的公正を貫く交流と連帯を通じて、「民衆自身の東アジア共同体」をめざそうとする。このような闘いこそが、北朝鮮や中国の官僚独裁体制を民衆自身のパワーで一掃する条件を作りあげるのだということを確認しよう。
 そうした運動にとって、「天皇・皇后が高宗と閔妃の墓に詣でる」ことを求める和田春樹の意見(「対談 朝鮮植民地支配とは何だったのか」における発言、「世界」10年1月号)は、まさに阻害的な役割しか果たさないことを付言したい。
       (平井純一)

追記:明治以後の政治思想、民衆や政治運動にとっての朝鮮・韓国認識が抱える諸問題、あるいは天皇制と朝鮮に関係する課題の検討については、時間の関係でできなかった。出来るだけ早く、掲載の機会を作りたいと考えている。
 

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コメント
 
01. 2010年4月23日 11:20:41: FHVyh15Kso
こういった「イデオロギー」はもういいよ。左右のどちらも。

特に困るのが、「左」の主張だ。
こういったイデオロギーから入った議論は、突き詰めてしまうと、
『国内向け』の「自民党政権は戦前を引き継いだものだからダメ、という政権の否定であり、体制の否定」が前提であり、
左派政党の「正統制」を補完する政治的アピールが最終目的にだから。
「戦前、こんなに悪い事をしてきた『人たち』を受け継いでいるのが自民党なんだよ」「じゃあ、どんな悪い事をしてきたのかと言うと」と。
その主張を真逆にしたのが「右」の主張。
両者は55年体制の中で「慣れ合い」を行ってきただけ。

但し、なぜ「左」が困るかと言うと、「左」が仕掛けたマッチポンプが
外国によって「国益的にマイナス」に使われてしまう時代になったという事。
「左」が、国内向けに現在の権力を批判するため、戦前の日本の行為を批判的に取り上げたとしても、
情報が国際的に流れる時代では、「悪いのは、戦前の権力構造を引き継いだ自民党『だけ』、手を汚していないボク達は正しい」という受け止め方にはならず、
「日本人・日本国全体が悪い」という受け止められ方になってしまう。
「お互いの自己満足のための戯言に近い罵り合いが」、悪意を持った使われ方をされてしまう危険性が、現在では大きい。典型的な例が「従軍慰安婦」の例だろう。

こういう「歴史をイデオロギーで語る事」は、もうやめるべきだ。


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