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自由で公平な国が富の源泉【小沢幹事長の丸山遺跡視察を論評】(オリーブの声) http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/810.html
http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?n=88491 【自由で公平な国が富の源泉】
この三内丸山遺跡は、今から5500年前くらいから1500年(3000年前)ほど続いた縄文時代中期頃に栄えた集落である。この頃は、氷河期を終え徐々に日本列島が大陸から切り離され、伴って現在の日本海に向かって対馬海流が流れ込むようになって行った時期である。 今から6000年くらい前には、所謂、縄文海進が進み、現在の瀬戸内海や伊勢湾ももっと広く、現在の房総半島は四国のように本島から離れていたと言われている。三内丸山遺跡が栄えたのもこの頃であると見られ、当時の縄文人の主要なカロリー源であったと言われているクリやトチノミはこの縄文海進によって東北の青森県まで温暖で、ブナ・ナラ林が広がっていたようだ。しかし徐々に縄文海進が落ち着き、今から約3000年前頃に現在の気候になった。 ブナ・ナラ林は本州全土に広がり、伴って縄文人は広く本州に住んでいたと見られている。 稲作には、陸稲と水稲があるが、最初は陸稲が主力であったようだ。 ここでは、大陸から水稲の灌漑技術が伝わり、既に日本で植生していた日本米種をこれに合わせることによって、日本特有のコメ作り文化が全国に浸透して行ったものと見ている。 コメ農作文化とクリ・トチノミ採集文化では、前者が明らかにその計画性、貯蔵性において優れ、西日本では早期にこのコメの貯蔵という富の集中が経済的に起きたと考えている。 しかし縄文人は森の民であったから、信仰は自然信仰であり、その信仰は主として山岳信仰に近いものだった。そこに、まさに富の象徴であるコメ文化がもたらされ、今度はその水田の近くの水利源の近辺に鎮守の杜を建てたものと見られる。 このようにして森の民は徐々に稲作文化を取り込み、今の瑞穂の国を創ったと見ている。 日本が現在の気候になったのは今から3000年前であり、温暖湿潤な気候が稲作に適していたことから、自ずとその食糧自給率の向上に伴い、既住渡来人も増え、縄文人も増え、更に時代の渡来人も増えて行ったものとここでは見ている。 政治力の中心は祭祀であったと見られ、祭祀は自然信仰と深い関わりがあるから、これと稲作に適した平野の両方の条件を満たす場所は、西日本ではそう多くない。 同時に、現日本人のDNAは、大陸や朝鮮半島と大きく異なり、依然として縄文系DNAが過半を占めており、征服があった大陸や朝鮮半島とは一線を画している。 日本は、縄文海進以降、大陸から切り離され、一方その地政上から多くの渡来人も往来し、生物学的ニッチに嵌まり込んだとここでは結論している。 今から5000年以上前、日本では縄文人が共同生活を営んでいて、そのルーツは今も脈々と継承されている。 だから日本では、アメリカ型の不均衡社会(征服文化=強者が支配する。)は広がらないと見ている。
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