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朝日新聞の社説における政党観の錯誤 - 「政治改革」と新自由主義 http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/787.html
http://critic6.blog63.fc2.com/ 昨日(4/20)の朝日新聞が、「政党離れ 有権者を見くびるからだ」という社説を出している。民主党の支持率が急落したのは、民主党が有権者を見くびっていたからで、その中身は、財源の手当もないのにマニフェストでバラマキ政策を並べ、移設先の成算もないのに普天間を「県外か国外」と公約したことであり、そして何より、利益誘導で票を得ようとする古い政党体質を払拭せず、過去の経世会的な政治手法を続けているからだと言っている。 本当にそれが民主党の支持率低落の理由なのか、こうした民主党批判の主張が当を得たものと言えるのか、私は大いに疑問を覚える。朝日の本音は、おそらく、「有権者を見くびるからだ」ではなく、「新聞を見くびるからだ」であり、朝日を始めとするマスコミの言いなりになれと民主党政権に喚いているのであり、言うことを聞かないと支持率をもっと下げるぞと脅しているのだ。 参院選のマニフェストで消費税増税を公約し、普天間移設を米国の要求どおり辺野古沖案に戻したら、「有権者に即した政党の政策決定だ」と言って頭を撫でてやり、民主党を賞賛する社説を上げてやると言いたいのだろうか。実際には、支持率はマスコミがコントロールしている。マッチポンプをやっている。そして、支持率低下の最大の原因となったのは、検察によるツートップへの「政治とカネ」の捜査とリークであり、財源の問題や普天間の問題が主たる原因ではない。朝日は支持率低下の原因をスリカエていて、自分に都合のいい説明にしている。 政治は、本来、国民が自らの代表を選んで議会に送り、議員が国民の意思を代議して政策を決定するものだが、日本では、特に政治の生のフィールドにマスコミが介入する程度が甚だしく、マスコミの思惑で政治が過剰に左右されている。国政の現場において、マスコミの地位と役割が政党以上に大きくなっていて、支持率報道を選挙結果の民意のように振りかざし、民主主義政治の中にマスコミが割り込んで領域を占領している。 本来、マスコミの役割は国民の要望を代弁し、権力を監視するところにあり、政党が見落としがちな少数者(弱者)の立場に光を当てたり、国民と国家の全体の福祉と発展を考慮して言論することである。しかし、現在の日本のマスコミは、全くその使命と機能を果たしておらず、米国と資本の代理人となり奉仕者となって、彼らの利益を日本国民の利益であるかのごとく錯覚させ信じ込ませる操作報道ばかりに興じている。 米国と資本の論理と意向を、国民が自分自身の確信や基準にするよう誘導する刷り込み報道で紙面と画面を埋めている。市民の立場に立っておらず、国民の生活に内在していない。特に90年代以降、新自由主義のイデオロギーに汚染され、新自由主義の観念と信条を報道の基軸とするようになり、新自由主義政策の広報宣伝機関となって事業を続けている。 国の政策を親米新自由主義の方向に引き寄せることにのみ腐心している。現在、マスコミの論理と国民生活の論理は対立状態にあり、だから国民はマスコミを信用していない。 朝日新聞は、少なくとも朝日新聞よりは国民生活に内在的である民主党の政策や姿勢を批判し、その支持率低下をあげつらって民主党を罵倒する。しかし、それでは、朝日新聞の「支持率」はどうなのか。国民の朝日新聞に対する「支持率」は上がっているのか。満足な水準を維持しているのか。この場合、「支持率」とは発行部数のことだろう。「800万部を堅持する」としていた朝日新聞の発行部数は、ここ数年下がり続け、不況による広告収入減の打撃もあって、経営は3期連続の赤字となっている。 800万部の大台を公称で割り込むのも時間の問題だ。読者が朝日から離れている。新聞各社はどこも部数減で苦戦を強いられているが、読売よりも朝日の方が凋落の程度が甚だしいのは何故か。朝日から読者が離れているのは、単に不景気や所得減などの経済的影響によるものだけではないと私は思っていて、それは朝日新聞が従来の顧客の期待を裏切る記事を書いているからだ。 朝日の報道の方針が新自由主義化し、小泉竹中の路線を礼讃する論調に転換したため、そうした路線に反発を感じた読者層が、購読を続ける意味を感じなくなって朝日から離れて行ったに違いない。新聞を読むのは、その動機は、そこに真実が書いてあると思うからではない。自分たちが言いたくても言えないことを、記事で代弁してもらいたいからである。政治に届ける術のない市民の声を、新聞のペンで永田町に訴えて欲しいからである。正しく代弁ができているかを確認するために市民は新聞を読むのだ。しかし、朝日の実態は逆で、官僚や政治家の思惑に従い、オフレコやリークを国民に刷り込んで騙す仕事に徹している。 この社説には、朝日新聞に独特の政党観が滲み出ている。それは次の件である。「あの90年代以降、政党と有権者の関係が根底から変わり、政党の堅固な支持基盤というようなものが失われたことを、各党は未だ本当には理解していないのではないか。御利益と票のバーター関係を通じ、大勢の『常連客』を囲い込んでおく、そんな手法はとうに通用しなくなっているのに、政権奪取後の民主党は利益誘導的な古い政治を依然しばしば演じる。変化が骨身にしみていないのだ」。 朝日新聞に問い返したいが、「御利益と票のバーター関係」の政治手法は本当に通用しなくなっているのか。経団連が、政党の政策を査定し段階評価して、査定に応じて政党に献金していたのは最近のことだった。経団連による公然たる政治の買収だが、誰もそれに異を唱える者はいなかった。朝日新聞も、その経団連の政党査定を嬉しそうに報道して、恰も経団連の広報を代行するように国民に周知徹底させていた。民主党に対して、もっと経団連から高い評価を得られるよう努力せいと叱咤していた。経団連は何のために政策査定したのか。言うまでもなく、自分たちに都合のいい政策を各政党が立案施行するように求め、カネを出してやるから、政党は資本の要望に従えと要求していたのである。 「規制緩和」と「小さな政府」を求めていたのだ。カネは票になる。選挙に勝つにはカネが要る。御利益とカネと票で利害者と政党が強く結びついた関係は、過去のものではなく最近のものだ。カネと政策のバーター関係は、自民党と経団連においては、経世会の過去よりも清和会の最近の方が、ずっと顕著で露骨であり、財界は自民党の堅固な支持基盤だった。 朝日新聞の認識は、経世会時代の自民党と地域の集票マシンとの関係を絶対悪として捉え、そうした景観が後退した現在の政治を善とするステロタイプでプリミティブな政治認識である。山口二郎の「政治改革」のイデオロギーに影響された見方で、「政治改革」前の政治を悪と決めつけ、「政治改革」後の政治を善とする思考法である。 当時、確かに農協や郵便局や土建屋が利益誘導で自民党に票を集め、労働組合が社会党と民社党に票を集めていた。朝日新聞は、そうした過去の情景を彷彿させる個所づけや亀井静香の郵政政策が、許されざる旧態や悪弊として映り、邪悪な表象として観念されているのだろう。ここには、朝日新聞が理想とする裏返しの政治の世界がある。 すなわち、国民は地域や職業を通じて、その利害で政治に繋がる有機的存在ではなく、そこから切り離されたバラバラな無機的存在の集合であり、政治に対する価値判断は「公正中立」なマスコミ報道に基づいてすればよいとする考え。マスコミこそが政治の真実を正しく国民に伝えている正義の存在であり、新聞記者こそが全てを超越的に知っているジャーナリズムの神だから、国民はマスコミが垂れる報道の基準に従って選挙で政党を選び、その政党に一票を入れていればいいという考え方である。 実際のところ、「政治改革」の後、日本では明らかに政治におけるマスコミの支配力が高まった。ジャーナリズムとしては品質を落としながら、マスコミの持つ政治権力は年を追って大きくなり、政治はポピュリズムの性格と様相を深めて行った。地域や職場の中間媒介項が除去され、政治とマスコミが一体となった権力に、テレビを通じて直接に国民が繋がり、簡単に意識操作されるようになった。 国民は政治において家畜同然の存在(B層)になった。朝日新聞は、例えば、支持者の階層や人種が二つの政党間で大きく異なっている米国の共和党と民主党について、一体どのように見るのだろうか。黒人や工場労働者は、一般に民主党の支持者が多い。女性もそうだろう。政党には政党の理念があり、支持基盤がある。結集する支持者の利害や立場や事情がある。政党には伝統的な支持基盤があり、それは政党の理念や目標と密接に結びついている。政党の支持基盤の実体は失われてはいない。 朝日新聞は、そのようなものは無意味で、政党は支持基盤など持つ必要はないと言いたいのだろうか。朝日の論説記者の目からは、地域住民の利害と選挙区の政治家が公約する政策の間の関係は無意味なものに見え、それは希薄化すればするほどよいと見なしている。しかし、弱い立場に置かれた者にとって、自らの権利を守るためには、それを政治家に負託するしかないのだ。朝日新聞は主に大都会で読まれている。 朝日新聞やテレビ朝日が、90年代以降の報道で地方を狙い撃ちにし、地方は無駄な予算を使いすぎているとか、ハコモノや道路を無駄に作っているとキャンペーンを展開したことは、朝日の読者層の構造が背景にあるだろう。90年代に新自由主義を受容し、それを拡延させた基盤階層は、バブル崩壊で没落した大都市の中間層だった。彼らのストレスとエゴイズムが、マスコミと竹中平蔵が説教する新自由主義を支持し、それを蔓延させたのである。「政治改革」と新自由主義の席巻は裏腹の関係にある。山口二郎は竹中平蔵のための前提を作っている。 山口二郎と竹中平蔵は立場を異にしているように見える。けれども、90年代の都市中間層と朝日新聞という二つの契機を入れると、この二つがぴったり接合し補完し合う思想的構図が浮かび上がるはずだ。「改革」(=新自由主義)は「政治改革」が敷いた道の上を歩いた。 朝日新聞は、利益誘導の政治手法は時代遅れであり、そんな政治は通用しなくなって久しいと言う。しかし、経団連が資本側に都合のいい政策を政権党に求め、その政策の実行と引き換えにカネを出すのは、利益誘導の政治ではないのか。自民党が経団連にカネを求め、カネの対価に労働法制の規制緩和を実現してやったことは、利益誘導の政治ではなかったのか。 経団連の求めに応じ、労働者派遣法を改正(改悪)したために、本来なら正社員となるべき者が派遣社員となり、年収200万円の働く貧困層となったのではないのか。その働く貧困層たちが、労働者派遣法の抜本改正を求め、その要求を一つの政党に託し、実現した場合は、朝日新聞はこれも利益誘導の政治だと言うのか。 政治とは、そもそも相反する利害を持った者たちの衝突であり、その利害調整の機会なのではないのか。朝日新聞は、新自由主義側の利益誘導(規制緩和)の政治については、それを批判的に見ることをしない。小沢一郎はゼネコンからカネを受け取り、ゼネコンに有利な公共事業を行政に差配したのだろう。それは責められるべきだ。 しかし、小泉自民党が経団連からカネをもらい、労働法制を規制緩和し、企業に莫大な利益(内部留保)を与えた問題については不問に付す。その政治手法は免責されるのか。買収と利益誘導の政治は今でも続いている。手法は古くなっていない。朝日新聞が、経団連と自民党の関係を「古い利益誘導の政治」と看取できないのは、新自由主義のイデオロギーに毒された朝日新聞が、それを無前提に正当化してしまっているからである。
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