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石原家の秘密 (文藝評論家・山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』) http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/763.html
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100421/1271798136 【転載開始】
その昔、『磯野家の謎』とかいう本がベストセラーになったことがあったが、今、『石原家の謎』とでもいうべき本が出たら、ベストセラーとまではいかなくとも、興味本位から、かなり読まれるのではないかと思われるが、しかし、おそらくそれだけの勇気のある出版社はないだろう。石原慎太郎批判、あるいは石原家の秘密の暴露は、出版界のタブーらしいからだ。某週刊誌が「石原慎太郎の隠し子」問題を暴露したことがあったが、何処からか圧力がかかったのかどうか知らないが、その記事もいつのまにか立ち消えになり、「石原慎太郎に認知した隠し子がいる」という話も、うやむやのままに葬り去られたように記憶している。などという話はどうでもいいのだが、石原慎太郎が家系や育ち、あるいは家族の秘密に関して異常に敏感だということは、なんとかく分かる。たとえば石原慎太郎は、「神奈川県出身」を自称しているらしいが、石原が生まれたのは兵庫県であり、父親の出身地は愛媛県の八幡浜であり、育ったところは小樽等らしいから、本来ならば、出身地や本籍地は、兵庫か愛媛になるはずだが、それが奇怪なことに「神奈川」になっているのである。確かに石原慎太郎は、神奈川県の逗子市で青年時代を過ごしている。高校も鎌倉の湘南高校であり、神奈川が、石原慎太郎にとって馴染みの土地であり、愛着のある土地であることは間違いない。しかし、神奈川を出身地とすることにはかなり無理がある。何故、石原慎太郎は、出身地を神奈川にしなければならなかったのか。僕は、そこに石原慎太郎の深いコンンプレックスが隠されていると考える。石原慎太郎は、「神奈川出身」を強調することによって、父親の問題を隠蔽したように、何かもっと深いものを隠そうとしているように見える。おそらくそれは、石原慎太郎の思考体系の根底に横たわる過激、且つ底深いニヒリズムとも関係していると思われる。むろん、その「過激、且つ底深いニヒリズム」が、石原慎太郎の初期小説の基本構造を形作ったものであり、政治家・石原慎太郎の数々の過激発言を誘発したものと見て間違いない。おそらく「石原慎太郎、石原裕次郎兄弟」が、文学、映画、歌謡、そして政治、経済にまたがるような、様々なジャンルで一斉を風靡することが出来たのも、その「過激、且つ底深いニヒリズム」によると見て間違いない。僕は、石原の文学には、高校時代に急死した父親の問題、つまり「父親殺し」というフロイド的テーマが隠されており、それが重要な位置を占めていると書いたが、おそらくそれだけではなく、土地の問題、あるいは出生の問題も、父親殺しの問題以上に重要なのではないかと考える。石原の文学世界は、デビュー当時は別にして、急速に通俗化し、凡庸化していくが、それは、石原が、父親の問題、土地の問題、出生の問題というような肝心な問題と真正面から対決せずに、それらの問題を隠蔽・抑圧して、逃げたからだと思われる。それは、石原が、中国を「シナ」と呼んで顰蹙を買ったり、「在日」や「帰化」をネタに差別発言を繰り返す心的構造とも無縁ではない。要するに、過激、且つ差別的な石原発言の多くは、彼自身のコンプレックスの裏返しなのである。つまり、神奈川県逗子市育ちの「ブルジョワ家庭のヨットを乗り回す息子達」というイメージ操作によって、石原は、その存在にとってより根本的な何かを、隠蔽し抑圧し、隠そうとし、あるいは忘却しようとしたのである。石原慎太郎は、自己という敵と向き合い、自己と対決することを避け、逃げてきた作家である。父や、祖父、そして母親等の秘密に、つまり自己自身の存在の秘密に執拗にこだわった近代日本の作家達、たとえば志賀直哉、大江健三郎、江藤淳等…と、石原が根本的に違うところだろう。
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