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【角栄の内治主義的政治の特質その1、社会基盤整備行政】 れんだいこのカンテラ時評712 http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/547.html
http://otd10.jbbs.livedoor.jp/1000013618/bbs_plain れんだいこのカンテラ時評712 れんだいこ 2010/04/16 20:56 元全学連草創期の闘士にしてオルガナイザーにであり、後に角栄のスポークスマン的役割を果たした角栄秘書の早坂茂三氏は著書「怨念の系譜」で次のように述べている。 「新潟県の農民は農地改革で自作農になったが、道路や鉄道、河川改修、架橋、多目的ダムなどの社会資本の整備は立ち遅れ、表日本に比べて悲劇的なほど格差があった。豪雪になれば陸の孤島である。零細農地のコメ代では人並みの暮らしもできず、男たちは冬、杜氏(とうじ)や土木建設の出稼ぎに行くしかない。新潟県の農民は日農に代わって、社会資本整備や現金収入が得られる仕事を創り出す政治家を痛切に求めていた」。 増山榮太郎氏の「角栄伝説ー番記者が見た光と影」は次のように評している。 「田中は、土木・河川開発事業の立法化に精出したのは、『出稼ぎせずとも食って行ける』自律農村の建設であった。そして、満を持して発表したのが『日本列島改造論』である。それは、田中がこれまで細切れに立法化した土木・河川開発を集大成し、体系化したものである」。 角栄は、自らの政治的姿勢を次のように述べている。 「国会議員の発言は、国民大衆の血の叫びである。理想よりも現実だ。政治とは何か。生活である」。 「私が道路や橋や川や港、土地改良に力を入れるので、一部の方々は『田中は土方代議士だ』といわれるが、私は原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちで、敢えてこの批判に甘んじておるわけであります」(昭和33年5月の田中6回目当選時の「選挙公報」)。 「田中は新幹線なんかつくりやがって国費の乱費だ、それより世界の平和の為にカネを出せなどと批判するヤツもいたが、バカヤローと答えたいね。そうでしょう、政治というものはまず自分たちがメシが食えない、子供を大学にやれないという悲しい状態から抜け出すことを、先決に考えなければいかんのだ。政治は高々と理想を掲げるとともに、現実を踏まえるものだ」(昭和53年6月、三島郡三島町での三島郡全越山会大会にて)。 角栄は、著書「日本列島改造論(1972年発刊)」の冒頭で次のように述べている。 「都市と農村の人達が共に住みよく、生き甲斐のある生活環境のもとで、豊かな暮らしができる日本社会の建設こそ、私が25年間の政治生活を通じ一貫して追及してきたテーマであった」。 ここに角栄の唯物論的実務志向、事業感覚を垣間見ることができよう。角栄のこの言葉は実績で裏付けられている。主として日共系から「土建政治、箱物行政」として批判されてきたが、マルクス主義的唯物弁証法の視点に立つ時、「土建政治、箱物行政」は批判されるべき筋合いのものではない。むしろ、戦争に金かけるより内治の社会基盤整備に使うほうが理に叶っているであろう。このことさえ弁えぬ自称インテリが多くてお話にならない。 こうして角栄は、地域貢献に立脚しつつ国政全般を俯瞰し、雪国裏日本の格差是正を目指す「暖国政治打破」論で政治家として孵化していった。角栄政治の特徴は、問題意識の深さと、その解決の為の的確な構想力と、大胆な決断力と比類なき行動貫徹力と責任感の厚きにあった。角栄の手掛けた実践例は他にない勝れものであり、格が違う。 孵化した角栄はやがて力強い歩みを見せていくことになる。佐藤昭子は次のように述べている。 「田中は新潟3区の利益だけを図ったわけではない。日本海側はあまりにも恵まれていない。日本海側の住人も太平洋側の住人も、平等に幸せになる権利を持っているはずだ。日本海側の悲惨な状況を改善することが、一極集中を排除し、やがては日本中の発展につながる。マスコミは田中のそういう発想を理解せず、目先のことだけで地域誘導だとか利益誘導だと判断し、自分達の作り上げた虚像しか報じなかった。だから、田中の真の姿は一般の国民には知られないままになっている」。 れんだいこには、佐藤昭子のこの謂いこそ的確であるように思われる。 角栄政治の特徴を物語る次のような話もある。 「『政治とは何ですか』と新聞記者時代の早坂茂三氏は、当時自民党政調会長の角栄にズバリ聞いた。たちどころに『生活だ』という返事が戻ってきた。簡潔明快。絶句した私に43歳の政治家が言葉を続けた。『国民が働く場所を用意して、三度、三度の飯を食べさせてもらう。外国と喧嘩せず、島国で豊かに穏やかに暮らしてもらう。それが政治だよ』」。 同じ問いに「愛」だとか「和」とか答える政治家もいよう。が、角栄の政治観は極めて具体的生活的である。 早坂は、著書「鈍牛にも角がある」(光文社)の中で次のように記している。 「角栄は戦後政治そのものである。角抜きでは戦後政治は語れない。とりわけ昭和47年7月の政権獲得から同60年2月、脳梗塞で言葉を失うまでの間、田中は日本政治の『主人公』だった。田中内閣に続く三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の政権までを『三角大福中』と呼ぶ。ところが、その実質は『田中角栄の時代』だったのである」。 「悪党・田中の力の源泉は最盛期で143人に達した数の威力である。今一つ、角栄は役人操縦術の家元であった。官僚国家、官僚主義ニッポンは、霞ヶ関のスーパーテクニクラート大集団の協力がなければ立法、行政ともに一センチも進まない。この役人達を田中は自在に動かした」。 「持ち駒の主力は大蔵、建設、郵政の三省である。私の親方は田中軍団を一糸乱れず動員して、自分が操縦できる表の政権を作った。国家予算はじめ、政権党のあらゆる政策決定過程に介入し、衆参両議員、大がかりな地方自治体の選挙戦は事実上、自分が取り仕切った。『角影』『直角』『田中曽根』など、田中支配の時代にマスコミが使った形容詞は、歴代政権と田中の関係、距離を端的に表現している」。 れんだいこの戦後政治史研究によれば、角栄は思われている以上に戦後政治史上の政府与党政権中枢に食い入っていることが判明している。そうした位置に居ることで日本復興の立役者となっている。そういう意味に於いて、「エネルギーに満ちた彼は日本を動かす強力なエンジンだった」という表現は適切である。 不幸にもロッキード事件で倒されたが、彼の築いたシステムは生き残った。しかし、日本篭絡派にとって、その角栄システムが邪魔となった。「公共事業敵視論」の登場と共に「角栄の築いたシステム」は次第に失速し始め、小泉政権下の2005年、解体的状況を迎えた。「公共事業敵視論」はこの観点から捉えねばならない。「公共事業より社会保障を」も、この線で捉えねばなるまい。 「田中角栄入門」は、次のように語っている。 「あとにのこったのは、国民に夢を語ることの出来ない矮小な政治家や官僚たち、そして彼らと業界の利権構造のなかで蓄積された目のくらむような国の財政赤字と、未来に展望を見いだせないしょぼくれた大勢の国民である。角栄なき後、政治家はだれも国民に美しい夢を語ることをしなくなった。彼らがやっていることはただの権力闘争であり、自分たちの私腹を肥やすことだけである」。 立花を随所で持ち上げる「田中角栄入門」の観点はかなり酷いが、この指摘はそのまま正しい。 2005.9.11日、2010.4.16日再編集 れんだいこ拝
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