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鳩山首相の祖父の鳩山一郎はナチスかぶれのヒトラー崇拝者だった秘密 http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/528.html
世界で活躍する歴史学者の議論を読むことで、われわれやマスメディアが忘れたり見失っていたことが良く見えて、目からうろこに成ることが良くあるものである。その例がマキャベルリの『君主論』の持つ意義の指摘や、滝川事件で鳩山一郎や文部省が、いかに汚い手口を使って思想弾圧したかや、鳩山一郎がナチスかぶれだったかを指摘した発言に思わず唸らされてしまった。 藤原博士は『さらば暴政の』著者である。
共に今の日本で最も必要なテーマを扱ったは珍しいほどの名著であり、こ個で論じられているテーマは現在とくに求められている課題を扱っていると思う。、 <貼り付け> 注目を集めた「日本人の98%が文盲クラスになる危機」という記事の続編が、公開になったので参考までに貼り付ける。これだけ質の高い議論が日本人の手で行われたというのは、日本のメディアにまだ救いがあるということを感じさせる。
慧智研究センター所長 藤原肇
将基面 日本では「革命」という言葉はタブーでした。孟子の政治論には、徳を失った君主を討伐、放逐する「湯武放伐」の革命思想があるという理由で、『孟子』を読ませない伝統が続いていた。しかも、『孟子』を積んで日本に向かう船は沈むといわれ、日本人にとって「革命」は呪われた言葉として、忌み嫌う伝統が未だに続いているのです。 藤原 同じ態度は「暴政」という言葉にもあって、調べてみたら明治以来の日本の出版物で、暴政をタイトルにした本は四冊しかなかった。だから、言葉があるのに本の題名に使われていない点では、「暴政」はその代表といっても間違いない。ところが奇妙なことに、革命は『脳内革命』とか『人間茱叩』という具合に、胡散臭い内容を誤魔化す糖衣錠の役目を果たしている。シンボリックな形で巧妙に使われています。 将基面 神業とか人間離れしたというイメージを生かして、「革命」という言葉を使うことがベストセラーを作るノウハウになっている。そこで、過去を徹底的に克服して新境地を開く革命が、社会ではなく個人のレベルに綾小化されて、神秘体験の有難いプロセスの開示の形で使われる。そして、革命が嫌いな日本でも怖いもの見たさから、お化け屋敷の宣伝用の調い文句のように革命が愛用される ……と見たらどうでしょう。 藤原 それは面白い。日本の外では革命は政体の大変革を指し、ピューリタン革命、フランス革命、ロシア革命のように、人民の力で古い支配体制が転覆されて、数学的なカタストロフを起こす高次元の大転換を意味する。しかも、革命は天文用語の公転に由来しており、自転を意味するローテーションとは異なる。そこに公と私の違いがはっきり示されている。将基面さんはアリストテレスの定義を引用して、「政治に関しての議論が公共的で、経済活動についての議論は私的なもの」と指摘したが、そこに公と私の違いが明白に表明されています。 将基面 金儲けなどは私的な領域での労働であるのに対して、政治に関しての議論や公開討論が公的な労働という、このアリストテレス以来の思想を文明は継承した。だから、モンテスキューやトクヴィルは産業革命の進展によって、人間が私的な領域に追い込まれてしまった結果、公的な領域が失われて行くのだと論じた。また、ハンナ・アーレントが分析したように「人間が孤立化することで、政治的な領域が人間活動から奪われて行き、その成果として現在がある」ということになる。そう見ると全体主義的なものの温床として、資本主義や産業革命が背景に存在する以上は、経済活動を知識人が上位に置かないで、下位に置くべきだという考え方が浸透しない限り、政治的とか公共的な価値は生まれてこない。 維新とはクーデターを意味する 藤原 日本はもとより世界中が金儲けに血道を上げ、賎民資本主義が地上を覆い尽くしているので、古代にあった高貴な精神の復活は困難です。それに一八世紀に較べて政治的な指導層のレベルにおいて、教養や精神的な面での意識低下が著しいし、自分の言葉で政治理念を語る能力の点で較べても、意味論オンチの酷さは目に余るほどです。 将基面 専門化を強めていったことで科学は深いが狭くなってしまった。だから「学際」が今では画期的なことだと思われている。しかし、かつては多岐多様な学問を修めることが、知識人や読書人にとっての基礎素養とされていました。しかも、学問的な枠組みが流動的だったので、修辞学や意味論に習熟していることによって、叡智を持つ人として評価され、指導者に連なる人物として見る価値観が、現在よりはるかに強かった。 藤原 漢字もまともに読めない麻生さんに較べたら、所信方針演説を自分の言葉で述べた鳩山首相は、政治理念では何万倍もまともでした。しかし、最後のところで「無血の平成維新」と喋りボロを出し、「画龍点晴」を欠いた。維新は政治用語としてはクーデターのことで、これは権力内での支配権の争奪を意味し、革命とは似ても似つかないものです。鳩山首相が維新という言葉を使ったということは、彼が自公体制が暴政だったとは考えておらず、政権交代のレベルでの認識しかないことを露呈した。あれではとても民主革命は出来ないと感じました。 将基面 症状のレベルでの異常については感じるが、疾患がどんなものかについては分からない、そんな程度のヤブ医者だったせいです。だから、自公体制が社会の健康を徹底的に損なって、瀕死同然にしているという認識がなく、医者が交代すれば直せるという程度の考えで、政権交代への自負を表明したに終わった。そこが藤原さんが、一番もどかしく感じられているところですね。 藤原 そうです。過去の暴政を徹底的に批判することで、われわれは全く新しいやり方で日本を作り変え、健康で民主的な社会にすると世界に宣言して、自公体制の政治のやり方と決別する必要があるのです。そのためには議員による法案上程を奨励し、強行採決などは絶対にやらないと宣言して、民主党政権は民主主義を実現するために、全力を上げると国民に対して堂々と誓うべきだ。ところが、そんな気配が鳩山内閣には感じられません。 将基面 藤原さんの主張は共和制の発想ですね。つまり各社会階層や集団の相互の意見や利害の調整に、議論と法的な手続きで解決を図ることで、体制の安定と健康を追求する。しかし、日本には共和制は根付いていないのです。マキャヴェリは『君主孤亜で有名ですが、彼にとっては共和制が理想的であり、君主制は軽度の病的状態を意味しました。 藤原 それを将基面さんの『政治診断学への招待』で読み、実に.「目から鱗が落ちる」思いがしましたが、彼の三部作を改めて説明してもらえますか。 将基面 彼の古代ローマ史論である『政略論』は、共和政体の健康状態を如何に維持するかを論じており、『君主論』は比較的軽い病気の君王体制が、重症にならないための君主用マニュアルになっている。『フィレンツェ史』は重症の政治診断で、無秩序で放縦状態の政治体について書いた本です。藤原さんが上梓した『さらば暴政』は、さしずめマキャヴェリの『フィレンツェ史』に相当し、瀕死の日本の診断書であるだけでなく、自公体制の死亡診断書に当たるかも知れません。 共同体の異常性を示せない 藤原 それにしても、日本には政治学者やジャーナリストが沢山いるのに、自公体制の暴政について誰も論じようとしない。アメリカでもブッシュ体制の暴政を正面から取り上げて、徹底的に批判した『暴政論』が出ていない。実に不思議です。 将基面 暴政は異常によって社会が病状を呈し、それを病気だと診断し警告する行為ですが、異常が支配するとそれを感じる能力まで衰えて、異常をまともだと思ってしまう危険があります。しかも、政治学には共同体の異常性を示す用語がなく、せいぜい社会学でいうアノミーがある程度です。あとは道徳の荒廃や正義感の低下くらいで、破局を迎えて暴政だと気づくことが圧倒的です。歴史は暴政を防ぐのに失敗した例の山です。 藤原 それにしても、目の前の政治が暴政で社会が病気なのに、大部分の人がそれに気づかないのは、余りにも無力だと思わずにいられない。「人びとが日々の糧を得ることに専心して、政治の善し悪しに構っていられない」からだ、とあなたは『政治診断学への招待』に書いているが、生活に追われれば心にゆとりは生まれない。これは金儲けに熱中する現代日本の風潮そのものだし、国を挙げて投機熱に酔う中国人やアメリカ人の姿であり、ネオコン政治が招いた弱肉強食の世界です。 将基面 その通りです。貧富の差の拡大が富の一極集中を生み、連帯意識の解体と権力による搾取が強まることで、民衆は自分の頭で考えなくなります。それが堕落による衆愚主義と呼ばれるものだし、ローマ時代から「パンとサーカス」と呼ばれた現象だが、ケイタイが四六時中鳴り続けるだけでなく、時間があればゲームに熱中している状態は、慢性病化した暴政を示す症状の好例です。 藤原 症状として現れた現象を異常だと診断して、その背後にある疾患まで特定しない限りは、次の段階の治療や処方はとても出来ない。また、今の日本では肝心な診断が行われない状態で、治療法や処方箋で大騒ぎしています。暴政が慢性化してしまったために、診断をする役割を持つ学者や記者が、観察能力と批判精神を失ったからです。それは体制迎合の形で言論の上に現れています。 将基面 逆に権力者が力づくで抑圧すれば、思想統制や言論弾圧の形として現れます。たとえば、秦の始皇帝による「焚書坑儒」を始めとして、中世の教会による「魔女裁判」や「禁書」とか、ヒトラーの「焚書」や特高警察による「赤狩り」です。 藤原 最近でも創価学会による言論弾圧とか、安倍晋三元首相がNHKの報道番組に干渉した事件を始め、思想弾圧のケースはいくらでもあります。特に自公体制になってからソフトではあるが、戦前の天皇制ファシズムの時代に似て来た。ただ、情報革命時代の今は戦前のやり方とは大いに異なり、力による弾圧よりも愚民化工作を活用し、ソフトな形で国民の思考力を奪い去ったり、学者やメディアを懐柔するやり方が目立ちます。 愚民政策の常套手段に 将基面 だから、権力による愚民工作は巧妙に準備されて、気がついた時には慢性病と同じ「死に至る病」であり、いま日本の言論界が半ば死んでいるので気がかりです。戦前にリベラルな記者だった馬場恒吾が、戦後に読売新聞の社長になって述懐しているが、戦時中の情報省は検閲や発行中止を行い、強圧的な弾圧を繰り返したのは筆実です。 藤原 いま、若手の記者が閉鎖的な記者クラブに陣取り、メディアの幹部や学者は審議会や政府委員として、権力構造の中に取り込まれているから、当時と同様に政治権力を批判する姿勢を失っている。それが仮面を被った全体主義だし、愚民政策の常套手段であり、それを見抜く眼力と洞察力がなくなれば、診断力の欠如で暴政が君臨する。 将基面 戦前は権力による思想への干渉が直接的で、天皇機関説の美濃部事件や滝川事件、森戸事件や矢内原事件などがあった。大学に対しての思想弾圧が次々と起きたが、学問の自由を守るために教授たちが闘かっている。しかし、今の大学教授たちにそれだけの覚悟があるかというと、実に頼りないという感じがします。 藤原 一九三一二(昭和八)年に京大で起きた思想弾圧事件が、いわゆる「滝川事件」ですが、滝川幸辰教授の『刑法講義』などが発禁処分になり、内乱罪や姦通罪を理由に鳩山一郎文相は免職を要求した。その際、小西重直京大総長や法学部の教授会は、思想弾圧と大学醤治違反だと文部省に抗議して、法学部の全教官が辞表を提出し、また、法学部の全学生も退学届けを出して抗議したが、これは共産王義から自由主義への弾圧の転換でした。 将基面 発端はトルストイの『復活』への解釈が、無政府主義的だということで始まったが、その背後には右翼学者や政治家がいて、思想の自由を誇る京大を弾圧したのです。 藤原 鳩山一郎はヒトラーの崇拝者だったし、義兄の鈴木喜三郎は「腕の喜三郎」と呼ばれ、治安維持法や特高警察を支える司法官僚で、右翼政治家として悪辣な選挙干渉で悪名が高いが、この二人に大野熊雄が組んでいたのです。熊本出身の大野は京大法学部を八年かけて卒業し、剣道九段、柔道七段、居合抜き十段、水泳九段という猛者で、大阪高校の教師、毎日新聞記者、東亜同文書院教授を経て、文部省の視学官になって鳩山に見込まれ間諜役になり、京大に学生主事として送り込まれている。表の歴史には事件の裏面については書かれていないが、内部からの分裂工作が仕掛けられた。京大事件は「滝川事件」に矯小化されたが、この裏話については、京都の政治に詳しい古老から私は聞いています。 将基面 歴史には必ず裏面史がある。その発掘作業には興味深いものがあります。 藤原 鳩山一郎はハトで平和派と宣伝されているが、戦前は親ナチスの国家主義者で思想弾圧したために、A級戦犯に指名されて巣鴨に行っている。しかも、大野熊雄は同郷の松野鶴平と無二の仲であり、息子の松野頼三は細川と小泉の政治指南役で、ロッキード・グラマン汚職に連座した灰色議員の代表です。
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