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【陳情政治を廻る角栄とナベツネの大バトル考】 れんだいこのカンテラ時評709 http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/436.html
http://otd10.jbbs.livedoor.jp/1000013618/bbs_plain れんだいこのカンテラ時評709 れんだいこ 2010/04/14 21:16 1960年代後半か1970年代初頭の頃のやり取りと思われるが、時の幹事長の田中角栄と読売新聞夜回り記者であった渡辺恒雄(ナベツネ)との興味深い陳情政治是非論争がある。これを確認しておく。れんだいこは角栄の言を支持するが、諸氏の見解を賜わりたいと思う。この論争の決着はまだついていない。以下、確認する。 幹事長時代を迎えても角栄の陳情処理は止まず、というか一層門前市を為していった。これを廻って、角栄は、当時の読売新聞夜回り記者であった渡辺恒雄(ナベツネ)と次のような激論を交わしている。 ナベツネ 田中 ナベツネ 田中 両者とも声が大きく、向こう息が強い。三十人近くの各新聞、放送記者達が居る面前でこの遣り取りが為された。「首をすくめ、目を見張ったものである」とある。 (れんだいこ私論.私見) この「陳情政治を廻る角栄−ナベツネ激論」は貴重である。ナベツネは元共産党員席に一時身をおいていたこともあると触れ込んでいるが、実は当時の戦後共産党運動を右から撹乱した本質的に右派系の、且ついつ頃より転んだのか定かではないがれっきとしたネオシオニズムエージェントである。歴史は正力松太郎の素性を暴いているがナベツネも時間の問題である。角栄失脚後の中曽根政権誕生と共に恣に権力を行使して三十年、我が世の春を謳歌しているが立ち枯れの日は近い。歴史に汚名を遺したことになる。 もとへ。ここで、ナベツネ思想の胡散臭さが随所に露呈している。ナベツネの謂いの方が頑迷な官僚的な発想そのものであり、角栄がこれに堂々と民主政治論で立ち向かっている姿が見えてくる。角栄は、陳情受付が単に選挙目当てのものではなく、民主主義政治の基本であるという認識を示している。角栄の明確な政治姿勢及び哲学をここに窺うことができる。思想的に見れば角栄の方が深く、ナベツネのそれは東大的英才にありがちな凡庸な権力観を披歴しているに過ぎないと思うのは、れんだいこだけだろうか。 角栄は、「政治家が自分の選挙区の者と会うということは、取りも直さず民主主義なんだ。そこで国民の声を聞いて、政治に取り入れるんだ」と説いている。これこそ角栄の本領とも云える実学主義であり、長年シオニズムテキストに浸ると失われてしまう観点ではなかろうか。角栄は、現下の戦後普通選挙システムをそのまま捉えており、選挙区の有権者に選出される以上、選挙民の声を聞き届けるのが当たり前としているように思える。ここに生きた政治があるとして、ここで得た皮膚感覚を大事にしたがっているように思われる。実際にはかなり能力の問われることではあるが。 マスコミはこの政治を嫌い、ナベツネ的見解を学があると評する傾向にある。あるいは地元に寄与しない三木流をクリーンなどと称している。選挙時に敢えて自分の選挙区に戻って運動しないことを誉れとしている小泉を議員のカガミとして阿諛追従したりする。自称インテリの評論というのはこの程度のものが多い。 ミニ角栄的な面を持つ鈴木ムネオが、田中真紀子外相を引きずり降ろした瞬間、もはや用済みとばかりに喧嘩両成敗で失脚させられた。この時、「ムネオハウス」などという造語でムネオ批判の先頭に立ったのが日共であった。マスコミ提灯がこれに列なった。つまり、両者とも権力奥の院に上手く使われているということになる。こういう手合いが正義ぶるので警戒せねばならない。 陳情の受付は政治家の最初の政治能力が問われる仕事であり、要は何を受付け受付けないかが問われている。角栄失脚後の中曽根自民党は、国際金融資本の陳情、独占企業体の陳情を受け付けることが夥しくなった。それを思えば、角栄派は地元の声を受付け陳情調理していたことになる。このことはむしろ真っ当な政治だったのではなかろうか。実際にこれやると毎日大変で、門前市を為した目白邸の家族と秘書の苦労ははかりしれなかった。それでもやり続けたのが角栄で、大衆政治家としての面目躍如といえよう。 角栄のすごさは、そういう地元政治をやりつつ国内の大局政治もこなし、国際政治でも対等にわたりあったところにある。ニクソンと呼吸を合わせ、毛沢東― 周恩来と肝胆相通じさせ、ブレジネフに舌を巻かせた。それをも金権政治の為せる技と云う者が居るなら、れんだいこが百万言費やしても一生通じ合わない手合いである。 「事の内に屈しなかった角栄は事の外に立つことができた」。まさに百年一人の逸材、否五百年一人の逸材で、角栄こそが織田信長政治と同じ高みにあるといえるように思われる。小泉狂人首相がミニ信長を気取っていたが、これに相槌を打っていた評論家諸氏よ、君らのおべんちゃらオツムの底の何と浅いことか。田原よ、何か弁じて見よ。 結論。政治の世界では一事万事、角栄的なるものと中曽根的なるものが争闘していると見て良い。現代的には小沢的なるものと小泉的なるものとが争闘していると見て良い。このことを知れば後は、我々はどちらの側で弁舌を為し、活動するのかが問われていることになる。この政治座標軸をもって諸事分析すれば間違うことはなかろう。これを難しく語る者が居たとして、その皮をめくって行けば案外詰まらない見解の者が多い。よって、難しく語る者を好評したり恐れぬが良い。れんだいこはそう割りきっている。 2010.4.14日 れんだいこ拝
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