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【植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申すその2】 れんだいこのカンテラ時評707 http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/397.html
れんだいこのカンテラ時評707 れんだいこ 2010/04/13 18:47 植草氏は、相変わらず「企業献金全面禁止こそ政治改革の核心」とする立場から種々立論している。聞けば逐一もっともなことのように思える。しかし、そのもっともらしさを集合させた結論が現実遊離しているとしたら逐一吟味し直さねばなるまい。れんだいこは、政治にカネがかかる唯物論的現実があり、これを踏まえながら如何なる処方箋で臨むべきかという問いから処方箋を生み出そうとしている。そういう意味で云うなら、植草氏のそれは机上論なのではなかろうか。 植草氏曰く、「『企業団体献金全面禁止』が実現すれば、政治のありかたは根本から激変する。本来の政治活動に必要な資金は国民が拠出すれば良いのだ。企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある。本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良いのである」。 この論は、植草氏が「本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良い」と明言されたところに意味がある。これによれば、政治献金国民負担論を唱えていることになる。この論によれば、政治献金国民負担論とは個人献金と政党交付金の二種からなるのであろうか。こう前提して、以下、単刀直入に論ずることにする。 繰り返すが、企業献金も団体献金も業界献金も組合献金も個人献金も、みんな有り有りルールで良いのではなかろうか。但し、全てをガラス張りで透明化せねばならないとの条件で。改善するとすれば、それぞれに適正と思われる上限枠を設定すべきであろう。この処方箋の方が良いのではなかろうか。企業献金、団体献金、業界献金、組合献金の全面禁止論は、天下りの全面禁止論と同じく二者択一式の永遠の論議にされてしまうのではなかろうか。天下りの高給問題、退職金の谷渡り問題こそ掣肘すべきなのと同じく、企業献金、団体献金、業界献金、組合献金の適正値を求める営為こそ求められているのではなかろうか。 「企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある」故に「国民が負担すれば良い」などというのは過剰理屈であり、実際局面では企業、団体、業界、組合、個人はそれぞれに質が違うことを弁えるべきではなかろうか。敢えて根本ルーツを訪ねて個人献金限定論へ導くには及ぶまい。今日びは国民負担論の変種と思われる政党交付金がはびこっているが要するに税金給付金であり、ほどほどにしなければならないのではなかろうか。目下、上から下まで給付金と補助金狙いのビジネスが横行し過ぎてやいないか。 れんだいこが「企業献金も、団体献金も、業界献金も、組合献金も、個人献金全て良し論」になぜ拘るのか。それは、人間の諸活動のうち政治を最も高等な頭脳技であると判ずるが故に、その質を認めて優遇し、政治家を自由自主自律的に活動させたいと思っているからである。人間の諸活動に先立つものはやはりカネであり、このカネの苦労を少なくさせたいと思うからである。政治家好待遇は、良い政治を行う為の代価であればお安いものではなかろうか。ろくな仕事をしないのに、あるいは逆走政治をしているのに好待遇しているから腹が立つだけで、好待遇そのものまで否定する必要はないのではなかろうか。 ならば、政治家個人に対する献金は禁止し、政党本部ないしは支部献金で処理すれば良いのではないかとの論が成り立つ。政党本部ないしは支部が一括集金し、政治家個人の資金管理団体へ分配する方式が合理的のように思える。しかし、それも理屈に過ぎない。「政党本部ないしは支部献金制」は、やはり政治家の自由自主自律性を弱めることになる。民主集中制だとかの集権制によって党中央に唯々諾々しかできない議員を作ってしまうことになる。それは造反できにくくし政治家の活力を奪う。してみれば政治にとって致命的な欠陥となるのではなかろうか。そういう訳で、合理主義が良いとは限らないのではなかろうか。 党は党であり、支部は支部であり、議員は議員である。それぞれが必要に応じて資金調達することに何の咎があろうか。我々が留意すべきは、政治家をして自由自主自律的に活動できるように制度保証することではなかろうか。その為にも「企業献金も、団体献金も、業界献金も、組合献金も、個人献金全て良し論」の方がまだしも良いとしたい。政治家を「食える状態」にしておくことが「良い政治」を行わしめる基盤なのではなかろうか。且つ売国奴を失くす有効な処方箋だと思う。却って企業奴隷的業界専属的族議員を失くす処方箋だと思う。他には方法がないのではなかろうか。 その上で議員定数を見直すのが良かろう。現下の衆参両院は共に約100名ぐらいが確実に多過ぎよう。なお、人口指数のみで計るから都市部変調になり過ぎている。選挙区面積、産業力指数なども考慮し総合的な票差バランスを図るべきだと考える。 植草氏は云う。「日本ではこれまで企業献金が容認されてきたが、企業は見返りのない資金を提供しない。見返りのない資金の社外流出は株主の利益に反することから、株主がそのような資金流出を認めることは通常は考えられない。企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は『賄賂性』を伴うものである」。 これは然りである。しかしながら、「政治献金の一切合財のガラス張り透明化義務」を課すことによりチェックアンドバランスできるのではなかろうか。政治家は選挙で洗礼を受ける身である。選挙の際に政治家の政治資金報告書を公開させること、賄賂やダミー献金を重罰にすることにより政治家の質を維持できるのではなかろうか。政治家が、政治献金によって却って自由自主自律性を失うのなら、そういう無能政治家を選ばねば良いのではなかろうか。そういう意味で、選ぶ側の政治目線を高くして行く必要がある。 この処方箋によれば今後はこうなる。最近の事例で云えば、政治資金報告書に記載していた小沢民主党幹事長は無罪。労組献金を受け取っていた小林千代美衆院議員は政治資金報告書に記載してさえおれば無罪。故人献金を列ねていた鳩山首相は有罪。政治献金を政治資金報告書に記載せぬまま着服している政治家は重罰を科されることになる。この基準の方が分かり易くて良いのではなかろうか。 ところがマスコミは逆から騒ぐ。政治献金を政治資金報告書に記載せぬまま着服している政治家に対しては露見せぬ限り騒がず、鳩山の故人献金、マミー献金については笑って許し、小林千代美衆院議員の労組献金に対しては議員辞職を煽り、小沢の政治資金報告書に記載した政治献金には徹底追及で騒ぐ。日共たるや検察とのタイアップで訴追を呼号し道義的責任まで追及すると息巻く。バカバカしくないか。 植草氏は、「公共事業に纏わる政治とカネ問題」を論じている。「金権政治論」を主張し、「利権政治屋」排斥の弁を振るう。これも日共式の弁で臭い。「公共事業に纏わる政治とカネ問題」は「軍事防衛原子力事業に纏わる政治とカネ問題」とワンセットで騒がないとオカシイ。下手をすると公共事業系政治家のみが裁かれる危険性が強い。公共事業は資産として残るが、軍事防衛原子力事業は使い捨てで残らないと云うのに。原子力事業の場合には将来天文学的なツケを残すと云うのに。逆裁きではなかろうか。これでは世の中が良くならない筈であろう。 植草氏曰く、概要「企業団体献金全面禁止に賛成しない自民党、みんなの党の両党とも金権政党であると言わざるを得ない」。「民主党議員は腹をくくって、企業団体献金全面禁止に進むべきである。日本政治構造を変える核心は企業献金の全面禁止である。鳩山首相はこの点を明確に公約に掲げるべきであり、主権者国民にその重要性を、時間をかけて説明するべきである」。 れんだいこは敢えて云う。自民党、みんなの党が企業団体献金全面禁止に賛成しないのは、政治家業の特質を弁えているからではなかろうか。れんだいこは、こちらに軍配を上げたい。植草理論は日共式のものと寸分違わず、その種の企業献金全面禁止論は一見正当なようで、やはり間違っているのではなかろうか。その根底にはどうやら企業活動に対する士農工商的意識に基づく偏見、即ち工商活動に対する蔑視観が介在しているように思えてならない。日共理論で云えばかっての国有化論に繋がるものである。それは歴史的に破産したし、元祖マルクスが唱えていたのは国有化論ではなく戦後日本が具現させていたような親方日の丸式の官民共同ないしは共同事業化論であったと云うのが最新の研究で明らかにされている。この辺りは今一度再確認されねばならないのではなかろうか。 「企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は『賄賂性』を伴うものである」辺りの表現が臭い。「企業、団体、業界が資金提供するのは政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである」は然りである。しかしながら、「本来的に企業献金は『賄賂性』を伴うものである」とまで敵視するのは云い過ぎではなかろうか。 政治献金の本質は、政治献金側の意思を通す為に使われることは間違いない。しかしそれは正々堂としたものである場合が多い。隠れて行う賄賂性のものはむしろ少ない。なぜなら、送る側も収支報告せねばならず決算書で監査チェックを受けるからである。決算書では、隠れて行う賄賂性のものが基本的に排除される。なぜなら収支が合わなくなるからである。もしも帳簿改ざん、二重帳簿式賄賂性の政治献金が露見するなら、その時こそ東京地検特捜部の出番とすれば良かろう。 東京地検特捜部の実際は逆に立ち回る。小沢キード事件のように政治資金報告書に届け出しているものを「天の声」まで詮索し、「政治的思惑と駆け引きで国策摘発捜査」に乗り出してばかりいる。つまり権力の包丁の使い方が違う。この違う方向での権力の使い方にこそ政治の闇がある。この闇こそ切開されねばならぬのに、闇の勢力の手先となって東京地検特捜部が使われていることに不正義がある。その不正義の塊のような東京地検特捜部が正義を唱えて包丁を使うから、政治が大きく歪められている。それが証拠に、れんだいこ処方箋に基づけば、岸や中曽根や小泉や竹中なぞは即逮捕されねばならぬのに今日まで無傷で、畳の上で往生できるよう最後まで政治生命が担保されている。オカシナことではなかろうか。 結論。企業献金全面禁止論についてはまだまだ議論を尽くさねばならないのではなかろうか。企業献金全面禁止論を強く唱えれば唱えるほど正義とするのは安逸なのではなかろうか。これが云いたい訳である。政治活力は経済活力にも関係し国家の隆盛に関係する。企業献金全面禁止論が政治活力、経済活力、国家の隆盛に繋がる本筋だと云うのであれば問題ないが、逆なら見直しせねばなるまいと思う。次に、この問題に関連させて陳情論について考察する予定である。 2010.4.12日 れんだいこ拝 --------------------------------------------------------------------- 本当は「正義」などではなく、自民党や民主党内新自由主義者を撲滅させるための方便と考えるべきではないでしょうか。 でも、それでは大義名分がね。。。。。
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