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「石原新党」のはずが「平沼新党」に (「たちあがれ日本」〜誤算続きのスタート) (ゲンダイ的考察日記) http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/275.html
http://octhan.blog62.fc2.com/blog-entry-1359.html 2010/04/10(土) 21:07:24 [政治(民主党政権)] 「たちあがれ日本」〜誤算続きのスタート 「石原新党」のはずが「平沼新党」に 勇ましい党名が、かえって痛ましい新党「たちあがれ日本」。 大連立の目論見もパー 「この新党は、“石原新党”として華々しくスタートするはずでした」 新党は、平沼赳夫元経産相(70)が代表で、与謝野馨元財務相(71)が共同代表となることが決まっているが、石原慎太郎都知事(77)を党首としてスタートする予定だったのだ。 「石原は、築地市場の移転をめぐり、都議会第一党の民主党と対立。移転用地の購入費を盛り込んだ予算案も否決される見通しでした。そこで、都の予算案が否決されるのを受けて知事を辞任。平沼、与謝野とともに新党を結成するシナリオでした。五輪招致に失敗してやることがなくなった石原にとっては、魅力的な話でした」(都議会事情通) 見かけ倒しでも人気だけはある石原だ。党首になれば、それなりにインパクトがあった。新党としての存在感も示せたはずである。 「たちがれ日本」が関の山か 結局、中川一郎の弟で中川昭一の叔父でありながら、政界では影が薄い中川義雄参院議員(72)を引き込むしかなかった。これでは、新党のホントの狙いも達成できそうにない。 「新党の狙いはズバリ連立ですよ。まずは参院選で民主の単独過半数確保を阻む。その後、民主と自民の合流に道をひらくのです。新党は、囲碁を通じた与謝野と小沢の関係、園田の旧さきがけ人脈を生かしながら、接着剤の役目を果たすというわけです」(永田町関係者) それもこれも参院選で勢力を拡大し、キャスチングボードを握れなければムリ。魅力のゼロの老人新党にはできない相談だ。 やはり「たちがれ日本」となるのが関の山か。 (日刊ゲンダイ 2010/04/10 掲載) -------------------------------------------------------------------------------- 「与謝野さん、平沼さんは、明日の日本を心配するより、ご自身の健康を心配した方が良いのではないですか」(ムネオ日記より) 久しぶりに農作業して、筋肉ツーです。 =追記= -------------------------------------------------------------------------------- 当初は、平仮名かカタカナのすっきりした4文字でいこう!となり、藤井孝男が提案したのが、ずばり「サムライ」だ。そこに他のメンバーが「日本」を入れるかどうかでスッタモンダ。しかし、「待てよ、『サムライ日本』は昔、そんな流行歌もあったな」となってオジャン。 そこにオレ様の石原慎太郎が主張した「たちあがれ日本」に落ち着いた。 (日刊ゲンダイ 2010/04/09 掲載) ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ (新世紀人コメント) 参考投稿↓ 慎太郎の参院選出馬について 中日新聞(出馬考えていた)と産経新聞が正反対の調子で記事を書いている。 読み比べてください。 私は上の投稿で、次のようにコメントしていた。 「ただ、この記事(中日)についても不自然な部分がある。 しかし、日刊ゲンダイの上記の記事を読んでから少し考えてみた。 今回の慎太郎に関する記事には信憑性があるのではないだろうか? 慎太郎は、都の予算が通らなければ辞任した可能性はあるようだ。 私は今の慎太郎(老化した)についての内実について考察が不足していたと考えた。 「追い詰められるに至った今の慎太郎なら、むしろ、打って出て、都政と自己の責任からの逃亡である事を無意識に抹殺して、輝かしく日の当るかに見える国政選挙のお祭り騒ぎに身を投じ、『俺は愛国的英雄なんだ』との自己陶酔に溺れる事を目指しても不思議ではない」。 これは前回の東京都知事選に突然に出馬した黒川紀章(くろかわきしょう) 氏に似ている。 問題は彼・慎太郎に理性がどれ程に残っているかにある。 華々しいお祭りライブ(参院選)に突然に、「殴りかかる」事もありえるだろう。 その様に語ってもいるのだから。「チアガール?に止まらず殴りあうこともある」と言ってるのだから。 「太陽の季節」で受賞した一ツ橋大学生の時の気分に戻って、学生服を着て参院選に出馬して宣伝カーから演説してはどうか? …チアガール? それは無理だよ。 参院選に出馬したら、「社会の理性」は『石原都知事の都政からの逃亡』と看做す事になる。
1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校が指導したクーデター事件が勃発し、犬養毅首相が射殺された。それによって政党内閣制に終止符が打たれることになる。かの有名な「5・15事件」である。 父は山下汽船という海運会社の社員であり、石原が5歳の時に北海道小樽市に家族を連れて初代支店長として赴任した。そのため石原は幼少期の約8年間を北の大地で過ごすことになる。 「神奈川県一の名門校湘南中学に入学」 その後、父は東京本社に転勤することになり、家族は神奈川県逗子市に移る。そして敗戦間近の1945年4月、石原は神奈川県鵠沼の湘南中学へ入学する。 「落ちこぼれの先駆け、一年間の長期休学」 しかしながら敗戦を契機にして、石原を取り巻く環境はがらりと変化することになる。敗戦を迎え、石原は学制改革により新制「湘南高校」へ進学した。そこで石原は180度の価値観の転換を経験するのである。 その頃、石原を捕らえて離さなかったものは、サンボリズムの詩やシュールレアリズムの絵であった。石原は絵を描き、芝居やオペラを観、真昼間から映画鑑賞に耽り、フランス文学が好きという理由からあてもなくフランス語の勉強をしたりしていた。 「父の死、迫り来る家計の破綻」 1年が過ぎ、石原が復学を果たした頃、父が脳溢血のため51歳の若さで他界した。 「公認会計士を目指し、一橋大学へ入学。しかし・・・」 石原には新しい家長として母と弟をできるだけ早く養わなければならないという意識が芽生え始めていた。そこで当時できたばかりの公認会計士という職業に就くため、最も有利であると言われた一橋大学へ進学した。大卒の初任給が約1万5000円とされていた当時、公認会計士の給料は最低でも25万円が見込めるというものだった。 「処女作『灰色の教室』の評価から次回作への執筆へ」 石原は大学時代『一橋文芸』という大学の同人雑誌の復刊を目指すグループにいた。 「わずか二晩で書かれた『太陽の季節』」 『太陽の季節』はわずか二晩で書かれた。 「社会的事件、弱冠23歳で芥川賞受賞」 そして事件は次第にその姿を見せ始めた。 1955年(昭和30年)石原は一橋大学在学中に『太陽の季節』で第1回「文学界新人賞」を受賞。同年12月にはかねてからの恋人であった石田由美子と結婚。そして翌年、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。 これは社会的事件であった。 「政界へ進出、そして辞職」 作家として世に出た石原はその後、参議院全国区に自民党公認で立候補し、史上初の300万票を得て国会議員となる。 「半世紀に渡り、話題作を世に出し続ける」 石原はその四年後の1999年(平成11年)に東京都知事選に出馬し、都民の圧倒的な支持を得て、政治の世界へカムバックした。2003年(平成15年)には前回の166万票の倍近い約308万票を獲得し再選を果たした。得票率においては都知事選史上、過去最高の70・21%を記録を樹立した。そして「東京から日本を変える」というスローガンを掲げ、更に大胆且つ過激に、停滞する国政に改革のボールを投げ続けている。その姿勢を見るに、石原は国会議員時代の責任を果たそうとしているように思えてならない。 23歳で鮮烈なデビューを果たして以来、石原は国会議員、東京都知事と政治の世界へ身を投じるも、作家であることをやめることはなかった。デビュー以来、約半世紀に渡り、小説、随筆を問わず、話題作を世に出し続けているのである。 (石原慎太郎公式ウェブサイトより)
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