★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK83 > 800.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
作家になるとは共同体を出て、砂漠に留まることである (文藝評論家・山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』)
http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/800.html
投稿者 亀ちゃんファン 日時 2010 年 4 月 07 日 07:25:42: GqNtjW4//076U
 

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100407/1270577575 
2010-04-07

【転載開始】

作家になるとは共同体を出て、砂漠に留まることである 

作家になるとは共同体を出て、砂漠に留まることである。江藤淳や石原慎太郎が教授や政治家になったことは逆説的な意味で価値があった。しかるに古井由吉は作家になると同時に大学教授を辞めた。つまり、その時、古井由吉は共同体を出て、砂漠に留まる決心をしたのだ。それ以来、古井由吉は筆一本で喰ってきたはずである。しかし現在、作家たちは、たとえば高橋源一郎も島田雅彦も、我先にとくだらない大学の教授になり生活の安定と社会的名声を目指しているように見受けられる。文学が滅びるのは当然だろう。ここ二、三日、twitterに関する興味深い場面に出くわしたので、書いておきたい。一つは、先日、「風花」という文壇バーにおける朗読会に、私も出席したのだが、その朗読会の様子が、twitterで同時中継されていたこと。そしておそらく、これまでなら、四、五十人の出席者たちしか見ることが出来ない作家や批評家の生の朗読会の風景を、多くの人が、全国、何処にいても同時的に見ることが出来たということである。私は、これは、文学の復活にとって小さくない意味を持つと考える。文学は、元々、作者と読者が、商業出版や編集者という中間項(媒介物)を抜きに、直結していた。商業ジャーナリズムの発達とともに、作者と読者は切断され、作品だけしか手がかりはなく、作者の存在は、読者からは見えなくなった。ところで、先日のtwitterによる朗読会の同時中継は、無料だというから、おそらく作者と読者の距離を縮め、作者と読者の断絶を解消することになろう。純文学にとっては、作品よりも作者が問題なのだ。言い換えればニーチェが言ったように「誰が語るか」が問題なのだ。ここには、形而上学批判、あるいは物語り批判という意味が込められている。もう一つは、「朝日新聞」の「メディア激変」という特集がtwitterをとりあげていること。これは、朝日新聞が、ネツトやブログ、そしてtwitterの登場によって、「メディア激変」という特集を組まざるを得ないような危機的状況に追い込まれているということである。ちなみにNHKも、「ネット・ジャーナリズム」と伝統的なマスコミ・メディアとを比較する特集を放送したらしいが、僕は見ていない。しかし、そこで何が議論されたかは、見なくても分かる。さて、そういう時に、訳知り顔で登場するネット評論家とかブログの女王とか、アルファ・ブロガー、あるいはtwitterに詳しい人とかいう種族がいるが、そういう類の名前を聞く度に、僕は、古臭く感じるが、何故なのか。ネツトやブログ類に関して新しいツールが登場する度に、ミニスターが誕生するが、しかしそのミニスターが消えていくのも早い。僕は、blogやtwitterなどに関して得意げに語る人を見る度に、「もう古いよ」と言いたくなる。おそらく、現場や現実はもっと先を行っているからではないか。問題はそのツールの新しさや利用法等ではなく、何をやるかではないのかとふと思う。そういう人というのは、要するに、twitterには詳しいが、やっていることは古臭い、ということだろう。ところで、「文芸誌も売れなくてはならない」と、大塚某などが言い、それを真にうけて「売れる文芸誌」を目指し始めた頃から、文芸誌は社会的な存在感というものを失ったように見える。つまり、文芸誌は、「売れる雑誌」を目指したが故に、逆に、読まれなくなっただけでなく、問題にもされなくなったのである。売れないが、密に読まれる雑誌、あるいは問題にされる雑誌・・・それが、今、必要な雑誌だろう。最近、地盤沈下が激しいと言われ続けてきた文芸誌というメディアは、これから復活していくのではないか。新聞、テレビ、そしてマンガも売れなくなっていく。とすれば、元々、「売れないこと」を前提にして成立していた文芸誌にとっては、いい時代が来たというべきではないのか。さて、twitterで同時中継され、多くの人が見た朗読会で、筆一本で喰っている古井由吉が連句を読み、柄谷行人が孤独な放浪学者・ミヨシマサオへの追悼文を読んだが、いずれも興味深いものだった。特に、東大英文科出身でありながら、早くにアメリカに渡り、アメリカの大学に職を得て、アメリカで活動したが故に、「東大英文科」という共同体から排除・忘却・隠蔽され、徹底的に日本社会から無視され続けたミヨシ・マサオを評価した柄谷の朗読は、意義深いものだった。作品よりも、その作者の生き方が、つまり作者の存在性が問われるのが純文学なのだ。


■twitter朗読会中継

http://www.ustream.tv/recorded/5925909 


【転載終了】  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2010年4月07日 07:31:28: 76k0u
いいね、山崎行太郎。
評論とは、かくあるべき。
某都知事はもともと作家の魂などなかった。

02. 2010年4月07日 07:52:26: vk.sy
イノセは?
もはやモノ書きですらないかw

03. 2010年4月07日 08:48:55: h0FWW
文オタ乙と言いたい所だが、
芸術家(文芸家も含む)が消費者にこびるように
なったら、ある意味おしまいというのは
よくわかるね。
石原慎太郎は、文芸家としても政治家としても失格だろうね。
真性保守主義者とやらには人気があるらしいが。

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK83掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK83掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧