投稿者 純一 日時 2010 年 4 月 06 日 04:41:12: MazZZFZM0AbbM
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/38f60614d1108244f53774da70e834bb
2010年04月06日
筆者の≪「東京新聞」反小沢・鳩山に激しくチェンジ!≫コラムへのコメントの中に、当該新聞社の社説「週のはじめに考える 権力監視と未来の提言」も同時に取り上げるべきではないかとの指摘を受けました。
あんなヨタ記事を掲載し、記事で読者誘導をする新聞社の社説なんぞと思いつつ、しかし、東京新聞の名誉のために一読させていただいた。少なくとも、朝日、読売、毎日より何割か偏向度が少ないマスメディアだと認めていた以上、指摘の社説に名誉が残っているのなら、それはそれで取り上げる価値があるというものだ。
不偏不党の原則に則って、バランスのある紙面の編集構成であれば、それはジャーナリズムの鏡でもある。
さて、当該の社説だが、小沢一郎関連の検察捜査取材の困難さ、そしてその報道の困難さなどが自戒をこめて書かれている点は好感が持てる。しかし、この社説が検察捜査と報道関係者への、世間の批判に対するエクスキューズが目的だとするのなら、そこで社説は終わらせた方が良かった。
突然取ってつけたように「未来への提言」と云う脱力した頓珍漢な文面が挿入された点は頭をひねってしまう。
このような文章構成を読んでしまうと、何やら社内の多くの意図が含まれて出来あがった「社説」なのではないか?と筆者のようなひねくれ者は考えてしまう。
疑念の頭が持ち上がると、言葉尻一つひとつに突っ込みを入れたくなるのは筆者の悪癖である(笑)それでは悪癖をカミングアウトした序に、突っ込みを幾つか書かせていただく。
*社説― 『検察捜査とこれを報道した新聞やテレビ への世論の激しい反発と批判でした。』
筆者― (世論の激しい反発、批判があるのだろうか?各社の世論調査によると、小沢幹事長辞めろは8割を超える、批判や反発はごく一部と云う事になる。気分を害して検察・マスメディアに不信を持っているのは、世論調査の数値からいくと2割にも満たない人々の事になる。わざわざ取り上げる事ではないだろう?国民の8割が小沢は政治とカネで「推定有罪」と見做しているのだから、激しい反発・批判というのは勘違いでしょう(笑)それとも、東京新聞の読者層は、その2割が占めていて「小沢推定無罪層」が中心だとするなら、納得できる)
*社説― 『政権与党最大の実力者の疑惑追及に拍手でなく反発が起こったのは前代未聞でした。』
筆者―(少なくとも昨年の3月時点で、小沢は野党の代表に過ぎなかった。この表現は明らかにすり替えのテクニックだ)
*社説― 『民主主義国家での検察は、国民から負託された権力の行使には、適法で公正かつ公平でなければならないのは当然ですが、ことに特捜部捜査では公正さや公平さを疑われてすらならないとされます。』
筆者―(検察に国民は負託を与えているという表現は不適切。まして、特捜検察に国民が権力を負託している法的根拠はない。あくまで検事連中は行政機関に属する検察庁の資格を持つ役人であり、国会議員のように国民が負託する民主主義の基本中の基本、選挙の洗礼も受けない、検察官僚に何らの負託をした憶えはない。国民が検察に民主主義を負託する方法もないし、その逸脱した行為を実質的に咎める道もない。その為に存在するジャーナリズムに多少の期待は持っていたが、反省の弁を語るのが限界である。つまり我が国には、誰も手出しが出来ない、ノーチェックな合法化された巨大な権力が存在するという歪んだ刑事訴訟体系が国民に知れ渡った点では、小沢捜査の検察・マスメディアの貢献は認められる)
*社説― 『国民から期待されてきたのは「巨悪の剔抉(てっけつ)」で、そのためには絶対的正義でなければならず、政治権力と切り結ぶには世論の支持が不可欠でもあるからです。』
筆者―(だから検察は捜査に世論の後押しの風が吹くように、小出しに立件できるかどうかも危うい捜査情報を提供し続けるわけだ。今さら、検察が捜査をする上で、「絶対的正義」でなければならないは重大な勘違いだ。人間の組織に「絶対的正義」等と云う、とてつもなく相対的観念を引っ張り出すのは酷すぎる。裁判官に絶対的正義を求めたくなる気持ちは納得出来るが、検察にそれを求めるのは、この社説を書いた人物の信条に過ぎない。
絶対的正義等と云うもの、原理宗教の領域の話じゃないのか?これこそ権力に絶対を求める幻想である。歴史的に見ても、権力は必ず腐敗するものであり、滅びるものである。そう云う意味で、人間が関わる政治・行政・司法の権力も同様のものである)
*社説― 『メディアに公判を検証する義務が残りました。』
筆者―(それは絶対にしないだろう。いや、新聞の片隅にベタ記事挿入が関の山だ。それを証明したかったら、今すぐにでも、大阪地検特捜部の村木元局長公判の公判状況を逮捕時レベルで報道してみせて欲しいものだ。出来もしない反省を籠めている(笑)ただのガス抜きであり、先送りということだ)
*社説―『 権力との関係で新聞の敗北の歴史は少なくありません。情報操作の危険性を自覚しつつ、取材力を磨き、見識を高めていくしかありません。それが汲 (く)むべき教訓でしょう。わたしたちは何より読者に情報の「真実」を伝えなければならないからです。』
筆者―(その気持は大切ですね、大いに賛同します。しかし、前半部の突っ込みで、作られた社説なのが判ったので、信じたいけど眉唾な印象が残る)
以上が筆者の読後感です。マスメディアとしては、頑張って載せた社説である事は認めましょう。
筆者の過去のコラム「警察・検察の異例会見を深読み」でも申し上げた通り、検察の権力は一時的に、一部後方に退いたわけですから、逆にこう云う事も書きやすくなった状況はある。小沢捜査が「政権交代」に関わる現象だとすれば、現在、検察のポジションが一時的に後退したのも「政権交代」の現象と言えるのだろう。
だからと言って、筆者は東京新聞を批難するつもりはない。色んな考えの人間たちで構成されるメディアは認めるスタンスでいる。
ただ、一般的読者層が政治記事などで見せる性向は見出しだけ読むわけで、そこにメスが入らない限り、不偏不党という公器の立場を立証したことにはならない。悪癖でメディア情報を読まずに済む時代が来て欲しい気持と、それも寂しいものだという気持ちが交錯する(笑)
―ここから東京新聞の社説掲載―
≪ 週のはじめに考える 権力監視と未来の提言
歴史と時代の転換期。厳しいメディア批判ですが、それでも権力の監視と未来への提言がわたしたちの任務−が六日からの新聞週間を迎えての感慨です。
メディアにとってことし最大の事件は、民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる検察捜査とこれを報道した新聞やテレビ への世論の激しい反発と批判でした。
これまでの検察への批判といえば、「眠れる検察」や「悪い奴(やつ)ほどよく眠らせる」拱手傍観(きょうしゅぼうかん)への冷笑や落胆で、政権与党最大の実力者の疑惑追及に拍手でなく反発が起こったのは前代未聞でした。
*検察もメディアも同罪
国民が自らの手で誕生させた新政権への思い入れは深く、検察捜査に官の組織的抵抗や民主党潰(つぶ)しの疑惑を抱いたからでしょう。マスコミも一蓮托生(いちれんたくしょう)とみなされたようでした。
憲法は新聞などの報道機関を特別な存在と認めてきました。権力者が恣意(しい)的な権力行使をしないように監視・抑制したり国民の知る権利に奉仕することを報道の重要な役割と認定し、国家公務員の守秘義務と戦い、秘密を明かすよう説得することを違法とはしませんでした。公務員への根気強く執拗(し つよう)な取材も、新聞記者が取材源秘匿のために法廷で証言拒否することも正当とするなどの判例も積み重ねられました。
小沢幹事長の事件でのメディア批判は、憲法が報道機関に期待する権力監視の重大な役割を検察に対しても果たしているかの問いかけであり、不信でもありました。
民主主義国家での検察は、国民から負託された権力の行使には、適法で公正かつ公平でなければならないのは当然ですが、ことに特捜部捜査では公正さや公平さを疑われてすらならないとされます。
*情報操作の危険の自覚
国民から期待されてきたのは「巨悪の剔抉(てっけつ)」で、そのためには絶対的正義でなければならず、政治権力と切り結ぶには世論の支持が不可欠でもあるからです。
この点で今回の小沢事件は、強制捜査のタイミングや政治資金規正法違反での現職国会議員の身柄拘束などで釈然としないものを残したことを否定できません。 確かに政治資金規正法は罰則が禁固五年以下で、形式的とも軽微な法律ともいえません。しかし、核心の陸山会の四億円の土地購入資金が小沢幹事長の記者会見での説明通りの家族名義の私的資金だったとしたら、現職衆院議員を逮捕して罰するほどの悪質性があるかどうかは疑問です。
購入資金のなかにゼネコンからの裏献金や水谷建設役員が供述したとされる一億円のヤミ献金が混じっていてこそ特捜部捜査の公正、公平の大義が保てるというものです。メディアに公判を検証する義務が残りました。
検察からの情報入手が至難なのは今も昔も変わらないようです。早朝から深夜、未明までの熱心で執拗な取材も報われることは少ないようです。それゆえに検察と一体とならないと情報が取れなかったり、当局の情報操作に乗ってしまう危険をはらみます。
もともと警察や検察の事件報道は当局の捜査情報に多くを依存しますから当局が描く事件の構図や筋書きに影響される宿命を免れません。「新聞は当局の情報操作に手を貸している」との批判を必ずしも一蹴(いっしゅう)できない理由です。
権力との関係で新聞の敗北の歴史は少なくありません。情報操作の危険性を自覚しつつ、取材力を磨き、見識を高めていくしかありません。それが汲 (く)むべき教訓でしょう。わたしたちは何より読者に情報の「真実」を伝えなければならないからです。
未来への提言も難しいテーマです。日本の誇りだった各経済指標も落ち込んで、一九八〇年代には世界のトップだった一人当たりの国民所得は現在十九位、四十二年保った世界第二の経済大国もことし中には中国に譲り渡します。
一億総中流社会も一時、低賃金と不安定雇用の格差社会に変わり難問解決の妙手の成長戦略を描ききれないでいます。
*経済で国は滅びない
しかし、経済の衰退で国は滅びません。困難に直面して国民が挑戦する気概を失ったとき国は滅びるのだといわれます。少子高齢化やグローバル経済、脱化石燃料の未知なる世界へ果敢に挑戦して「日本型モデル」を築き上げなければなりません。国を滅ぼしてはならないからです。
子ども手当や高校授業の無料化も未来に向けた試行錯誤と受け取れます。支え合い社会のための医療や年金や介護の充実も、そのための応分の負担も必要でしょう。昨年の総選挙は国民を統治の主体者に変えました。国づくりは等身大の提案から始まります。(東京新聞4月4日社説:電子版)≫
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