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アメリカ型「自己責任」社会は無責任社会。(慶應義塾大学経済学部教授・金子勝) http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/730.html
この国は、リーダーたちは誰も責任をとらず、みなが縮こまっています。そして、この活力の低下は、社会の隅々まで驚くほど進んでいます。この何とも生きづらい社会はどうしてできたのでしょうか。 私は、自己責任を主張する人ほど、決して責任をとろうとしない人であると思います。「絶対安全」と書いてあるものほど、安全じゃないのと同じですね。思い出してください。ちょうどトップが誰も責任をとらないまま不良債権問題で日本経済が苦しんでいる時、「構造改革」論が行き交い「自己責任」論が強調されるようになりました。しかし皮肉なことに、これは社会的責任を逃れる論理であり、究極の無責任社会を生んでしまったのです。そこに一つのパラドックスが潜んでいます。そして、この逆説が非常に日常生活のレベルにまで及び、ゆとりがなくなりギスギスした監視社会をもたらしていきます。 では、なぜそういうことが起こるのでしょうか。思い起こすと、イラク戦争に際して、3人の青年がゲリラの捕虜になった出来事に、問題の起源をさかのぼることができるように思います。たしかに青年たちは危険地域に足を踏み入れるに際しても、十分な配慮に欠けていた部分があることは確かです。しかし当時、この国のメディアはみなアメリカのイラク戦争支援と自衛隊派遣を正当化するために、いかにゲリラが参入し危険な状態になっているかについて十分な報道をしていたとは思えません。ひどい「戦闘地域」なら、自衛隊を戦場に派遣することになり、限りなく憲法違反に近くなってしまうからです。その意味では、当時のパウエル国務長官は、彼らを「若者の勇気ある行動」と表現しましたが、それも少し的外れな部分があります。 ともあれ、こうしたイラク戦争をめぐる政策的矛盾とメディア報道はあまり問題にされませんでした。日本国内では、彼ら青年は日本全体に迷惑をかけた人間であり、本来なら税金を使って政府が彼らの救済に動くのは問題であり、危険な地域に「勝手に」行った若者の「自己責任」であるとの議論で問題をすり替えようとしたからです。しかし、本来なら、そんな危険な地域に自衛隊を派遣して問題がないのだろうか、それは戦争に参戦することにならないか、ということになるはずですが、まさに小泉「構造改革」の「自己責任論」が、すりかえの論理に使われていきました。 その一方で、間違ったイラク戦争の支援を書き立てた新聞の多くは、その後も「自己責任」をとることはほとんどありませんでした。レベルがあまり高いとは言えないアメリカの新聞でさえ、言説の社会的責任という見地から自己検証記事を掲載しました。日本で簡単であれ自己検証をしたのは、毎日新聞くらいでしょうか。イラク戦争を煽った大新聞は、もうメディアとしては終わっています。このブログで、この国は今ミッドウエイ海戦後だと書きましたが、イラク戦争に反対している間、私は「非国民」の反戦主義者にされていました。当時、私の気分は戦時中でした。あ〜あ、おバカたちがトップを占領している国には未来はありません。 問題はもっと複雑で、社会の隅々にまで行き交っています。この独特の「自己責任」論によって、実は日本の社会の隅々まで無責任社会になっていったからです。「自己責任」社会では、余計なことをして「自己責任」をとらされるのを嫌います。そして、皆が共同して社会や他人にかかわることを徹底的に忌避するようになります。何せ、何でも自己責任ですから。その一方で、自分の利益だけは守りたい。自分の利益を守るためには、訴訟をしてでも守ろうとします。 実際、昔なら問題が起きても、社会の知恵でうまく処理していたはずですが、「自己責任」社会では、他人や社会に驚くほど無関心で自己利害だけを主張して、時には訴訟に及ぶようになっています。そのため、日本の社会は、事故や訴訟を未然に防ぐという名目で、何でも禁止していく予防拘禁社会のようになっています。たとえば、学校の校庭では、野球もサッカーも禁止です。地域によっては、つぎつぎと公園のブランコを取り外されているようです。子供が怪我したら、訴訟を起こされてしまうからです。 ある埼玉県の市役所の人に聞いた話ですが、最近、隣家が小学校の子供の声がうるさいと怒鳴り込んだり、公園のバスケットのボードを外せと主張するだけ主張して隣家同士が喧嘩したりすることが起こります。その中には、後から引っ越してきた人だったり、自分の家では犬が吠えていたりする人もいます。ついに昨秋、東京西部の市において、公園の噴水で遊ぶ子供の声が騒がしいと、病気療養中の女性が訴えて勝訴しました。病気の女性の気持ちは察するしかありませんが、たしかに非常にイライラするのでしょう。しかし、役所の調整は不調に終わりました。問題は、この判決が出てから、役所の人々は未然に訴訟になるのを恐れて、予防的に行動するようになり、つぎつぎと訴訟を避けようと動くようになっていることです。 こうなると、誰も責任をとらされないために、他人や社会に関わりたくないというようになっていきます。たとえば、近所同士で問題が発生しても、自分の利益に関係ない限り、かかわらない方が得だということになっていきます。このような予防拘禁社会では、犯罪を未然に予防するために、そこいら中に監視カメラが設置されるようになっていきます。その結果、いつでも誰かがあなたを「監視」していますが、あなたは自分が監視カメラで守られていると錯覚するようになっていきます。 友人の医師である児玉龍彦氏に聞いた話です。ここにリスクがある手術を必要とする患者がいるとします。医師が不足して、手術の人手が足りずにリスクがある場合も同様です。もし、リスクを冒して失敗して死亡させれば、「作為の責任」。リスクがあるからと手術を断り、何もしないことで死亡したら「不作為の責任」。訴訟となって、どちらが証明しやすいかと言えば、「作為の責任」です。そうだとすれば、ますます「不作為の責任」を選ぶようになります。訴訟社会が行き過ぎて、医者はリスクが高い手術を避けて、結局、何もしない方が訴訟の対象にならないですむので、医師不足で体制が整わなければ、必然的に患者のたらい回しを生んでしまいます。 これらの現象は、日本の社会が、誰も責任をとらない無責任社会になっていることの裏返しではないでしょうか。考えてみれば、戦略を考えられない無能なリーダーにとって、市場原理主義ほど便利な道具はありません。すべてを「市場」という「神の手」に任せればよいからです。そして何か問題が起きても、マーケットが決めたことだからということで、責任を問われないですみます。 その一方で、多くの人々は世代間の連帯で成り立つ社会保障制度を信用しなくなります。やがて「自己責任」の社会では、自分の殻に閉じこもって、誰も他人や社会にかかわって責任をとらされたくない、だったら何もしない方がいい。だけど自分だけは守りたい。繰り返しになりますが、こういう心性はやがて自分本位の監視社会に行き着きます。そして、こういう社会は、著しく活力のない社会となりうるのです。 いま日本の社会では、そういうメンタリティを身につけた人たちが増えているような気がしてならないのです。とりわけ、雇用が破壊され、「自分を守る」ので精一杯な若者たちにそれが浸透しているのが気がかりです。小泉「構造改革」がもたらした「失われた20年」は本当に深刻です。
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