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定型と批評性(内田樹の研究室、4.5)【なぜ新聞がだめになったかについての核心を突く考察】
http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/727.html
投稿者 南青山 日時 2010 年 4 月 05 日 16:17:31: ahR4ulk6JJ6HU
 

http://blog.tatsuru.com/

マスメディアの凋落について毎日原稿を書いているせいで、ものの見方が偏ってきているのかも知れないが、今朝の毎日新聞の一面のコラム「余録」にも、思わず反応してしまった。
コラムは「決断」をめぐるもので、鳩山首相の決断力のなさと、最近の「発奮」ぶりをいささか嘲弄的に紹介している。
「普天間基地問題でも『体当たりで行動していく』『必ず成果を上げる』と歯切れがいい。先週の内閣メールマガジンでは『未来に向けて時計の針をもっと勢いよく回せるような政府をつくりあげていきたい』とアピールした。だが、沖縄県民、米国、連立与党のいずれをも満足させる道がこれから急に開けるようにも思えない。『針の穴にロープを通すくらい難しい』ともらしたことがある首相だ。何を選び何を捨てようとしているのか。『腹案はある』と自信ありげな腹の内を見てみたい。」(毎日新聞、4月5日)
「よくあるコラム」である。
こういう書き方を日本のジャーナリストたちは「批評的な」ものとして、たぶん無意識に採用しているのだとおもう。
彼らは自分たちが「批評的定型」にはまり込んでいること、鋳型から叩きだすように同型的な言葉を流していることに、あまり自覚的ではない。
だが、「批評的定型」というものは残念ながら存在しない。
批評性というのは、ぎりぎりそぎ落とせば、「定型性に対する倦厭」のことだからだ。
だが、このコラムの文章には「定型性に対する倦厭」がない。
たしかに、どんな人間のどんな文章も、それなりの定型にはとらえられてしまうことからは避けられない。
定型から逃げ出そうとすれば、シュールレアリスト的饒舌かランボー的沈黙のどちらかを選ぶしかないと、モーリス・ブランショは言っている。私も同意見である。
ひとは定型から出ることはできない。
だが、定型を嫌うことはできる。
定型的な文章を書いている、そういう文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。
それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気づいていない病的徴候である。
このコラムの文章に私が感じたのは、その病的徴候である。
どうしてこのコラムニストは自分の書いている文章に飽きないでいられるのか。
それについて考える。
コラムが首相に求めている「沖縄県民、米国、連立与党のいずれをも満足させる道」などというものは存在しない。
存在するのは「沖縄県民、米国政府、日本政府(さらには中国、韓国、台湾など周辺諸国)のいずれにとっても同程度に不満足な道」だけである。
外交上のネゴシエーションというのは「全員が満足する合意」ではなく、「全員が同程度に不満足な合意」をめざして行われる。
「当事者の中で自分だけが際立って不利益を蒙ったわけではない」という認識だけが、それ以上の自己利益の主張を自制させるからである。
それがふつうの外交上の「落としどころ」である。
外交というのは、当事者の「いずれをも満足させる道」だとこの論説委員が本気で信じているとしたら、それはずいぶん夢想的な考え方であると言わねばならない。
だが、私はこの論説委員はそんなことを信じていないと思う。
それほどイノセントで夢想的な人間が、タイトな人間関係やどろどろした派閥力学を乗り越えて、ある程度の社内的地位に達せるはずがないからである。
彼自身は「当事者全員が満足するようなソリューション」などというものが存在することを信じていない。
それを生身の経験では熟知しているはずである。
にもかかわらず、コラムには「自分が信じていないこと」を平然と書ける。
私はこれを「病的」と申し上げているのである。
自分が信じていないし、そう思ってもいないことを書けるのは、彼が自分の仕事を「自分の意見」を述べることではなくて、「いかにも大新聞の朝刊のコラムに書いてありそうなこと」を書くことだと思っているからである。
これは誰の意見でもない。
「世論」である。
「世論」というのは、「それを最終的に引き受ける個人がいない」意見のことである。
というと異議を申し立てる方がいるかもしれない。
マジョリティが支持しているものが「世論」ではないのか、と。だったら、多くの個人がその主張の責任を進んで引き受けるのではないか、と。
違います。
人間が引き受けることのできるのは、「自分の意見」だけである。
「自分の意見」というのは、「自分がそれを主張しなければ、他に誰も自分に代わって言ってくれるひとがいないような意見」のことである。
「自分が情理を尽くして説得して、ひとりひとり賛同者を集めない限り、『同意者集団』を形成することができそうもない意見」のことである。
それは必ずしも「奇矯な意見」ではない。
むしろしばしば「ごくまっとうな(ただし身体実感に裏づけられているせいで、理路がやたらに込みいった)意見」である。
なにしろ、自分が言うのを止めたら消えてしまう意見なのである。
そういうときに「定型」的な言いまわしは決して選択されない。
なぜなら、「ああ、これはいつもの『定型的なあれ』ね」と思われたら「おしまい」だからである。
決して既存のものと同定されることがなく、かつ具体的にそこに存在する生身の身体に担保された情理の筋目がきちんと通っているような言葉づかいを選ぶはずである。
それが「自分の言葉」である。
小林秀雄ふうにいえば「考える原始人」の言葉である。
「世論」とはその反対物である。
誰もそれについて最終的に責任を引き受ける気がないにもかかわらず、きわめて多くの人間の支持を得る意見には、身体実感という「担保」がない。
「みんながそう言っている」ことを自分もただ繰り返している。
「なぜ、あなたはそう言うのか?」と訊かれたら「あの人が言ってたから」と答えて、発言の責任は無限に先送りされて、どこかに消えうせる。
それが「世論」である。
このコラムは典型的な「世論」の語法で書かれている。
新聞のコラムというのは「そういうものだ」という醒めた感懐をたぶん持って、このコラムニストは定型を書き飛ばしている。
それが書けるのは「自分が書かなくても、誰かが同じようなことを書くだろう」と思っているからである。
たぶん、多くの記者たちは、そう自分に言い聞かせて「定型」的な文章を書く自分との折り合いをつけているのだろう。
自分が書かなくても、どうせ誰かが書くのだから、自分ひとりがここで「こういうのを書くのはもういい加減にしないか」と力んで見せても始まらないと思っている。
新聞の凋落にはさまざまな説明があるけれど、「私には言いたいことがある。誰が何と言おうと、私は身体を張っても、これだけは言っておきたい」というジャーナリストがジャーナリストであることの初発の動機をどこかに置き忘れたためではないのか。
私にはそのように思われるのである。

(南青山コメント)
いま阿修羅で多くの人がマスゴミの凋落ぶりを批判したり嘆いているのだが、(まともな時代もあったかもしれないのに)なぜそうなってしまったのかについて、ほぼ核心を言い当てている。
さすがは内田樹、ご明察おそれいりました、というほかない。

「ひとは定型から出ることはできない。
だが、定型を嫌うことはできる。
定型的な文章を書いている、そういう文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。
それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気づいていない病的徴候である。
このコラムの文章に私が感じたのは、その病的徴候である。」

この病的徴候こそ、いまのマスゴミを批判する多くの人が感じ取っていることなのではないだろうか。
そして、その病が具体的に表れている部分をつぎのように書いている。

「彼自身は「当事者全員が満足するようなソリューション」などというものが存在することを信じていない。
それを生身の経験では熟知しているはずである。
にもかかわらず、コラムには「自分が信じていないこと」を平然と書ける。
私はこれを「病的」と申し上げているのである。」

自分が信じてもいず、できもしないことを、さもできて当たり前なような顔をして、一国の総理を批判すること。
この病的としか言いようのない態度は、このコラム主に限らず、大半の新聞、テレビの記者、コメンテーターに共通している。
「鳩山首相はいろいろ言っているが、もしできなかったら、どう責任をとるの?」
この上からの物言いは、自分も日本国に住み、日本人として、沖縄県民と痛みを共有しているという実感も自覚もない言い方だ。
なぜ一緒に答えを探そうとしないのか?
なぜ一緒に悩まないのか?
自分たちは高みの見物としゃれ込んで、本当にそれでいいのか?
結局のところ、彼らの最後のよりどころは、どこにも実態のない世論ということになるのだが、それこそ砂上の楼閣であり、彼らは最後にはちり紙交換にしか出すところがない廃棄紙の山の中でのたれ死ぬのではないか。
いや、そうなることを私は望んでいるのだが。  

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コメント
 
01. 2010年4月05日 22:08:45: vj1Fz
 言論活動が規制され、言論の自由がないなどと何かにつけ内外から批判されている中国において、共産党政府が規制に乗り出さざるを得なくなっている程、百花斉放状態である現在の中国ジャーナリズムに比べ、自由主義国家で言論の自由が保障されているはずの、現在日本のジャーナリズムの体たらくは何なのだ?
 内田樹氏のジャーナリズムの根源に触れる卓見、現在の日本マスコミにあって、いかほどの「記者」達が共有しているや?
 
 ずいぶん前になるが、故あって「共同通信」,「東京新聞」の記者と同行したことがある。 共同記者の取材対象に対する好奇心に溢れたフットワークの軽さに比べ、東京記者のやる気の無さがつい目についた。
 一緒に飲む機会があったおり、酒の勢いも借りて「そんなんで新聞記者務まるのか」とついネジこんでしまったが、帰ってきた言葉は今でも覚えている。
 「僕はジャーナリスト以前に、東京新聞という会社の社員なんだ」
 私は自分の捨て台詞も覚えている。「なんだそれ、サラリーマンてことか」
 
 個々のジャーナリストに勇気を持てと煽るには酷な時代かも知れないが、それでも奮い立って欲しい。日本のジャーナリズムは死にかけている。
byS.S
  

02. 2010年4月06日 01:24:45: yIMb3
> 「鳩山首相はいろいろ言っているが、もしできなかったら、どう責任をとるの?」
> この上からの物言いは、自分も日本国に住み、日本人として、沖縄県民と痛みを共有しているという実感も自覚もない言い方だ。
> なぜ一緒に答えを探そうとしないのか?
> なぜ一緒に悩まないのか?

すばらしい意見ですね。
ただ残念なことに、これはマスコミ関係者たちに限らず、日本の一般大衆のうちの多くもそうなのではないでしょうか。
まあ、彼らはマスコミに植えつけられた事を話し、マスコミの称賛に従って称賛し、マスコミの怒りに従って怒る「人間もどき」ですから、元はといえばマスコミが悪いって言えばそうなんでしょうが…


03. 2010年4月06日 02:55:37: LYgcl
ふと思ったのですが、鳩山総理の揺れ揺れ政権運営を頼りないとして批判するジャーナリストが多い中、私なんかはこの状況をとても面白いと思っています。

様々な意見を見ることができるネット内で時に同調したり好き勝手に批判すろ人と意見をぶつけ合うこともでき、メディア側からの一方通行で情報を得て共有していた頃とは民主主義に対する認識が大きく変わってきているように感じる。ネットが触媒になった民主主義萌とでも言って良いかと。

2chの黎明期もこういった感じだったんだろうと推測しますが「電車男」のブームとグーグルの台頭をきっかけにネット言論の力に気付いた人々がアメリカに習って統制を始め、アメリカでは通用しない事も真の民主主義に対してウブな日本人には酷く汚れた言論に映り、普通の人は見切りをつけた。

我々もバカではないので2chの教訓から対処方法を学んだし、直接対話でない利点として保守論壇の筆頭格である山際澄夫や三宅久之のような捲し立て議論にも一拍置いて冷静に反論することができる。感情によるリスクが軽減される為、目から鱗的なコメントも多く目にすることができるようになった。

一方マスメディアは自らの正当性に縛られる故、論調を180度転換することができず、定型に陥ってしまった。民主主義社会のメディアとして生き残るのはネットなんだと改めて感じ、匿名だからと言って無くしてはいけない一定の品位が保てればこれ以上面白いものは無い。


04. 2010年4月06日 06:32:52: Rqu.B
鋭い! 目が覚める!
普天間に関連する地元や自治体や、社民党・国民新党、アメリカその他外国のみなさん、満足はいかないことになりますが、不満が少ないことを祈っています。
新聞はお力になれません。スミマセン。が、そうするしかないこと、おわかりですよね。だれがやっても不満になること。
自分もまた傷つけ、他を痛める存在であることに、気がつかないでいる立場があると信じていること。おっしゃるように、ケシカラヌ人間どもです。
へらへら、へらへらと。吐き気を催します。

05. 2010年4月06日 13:49:30: ibEJ5
マスコミと検察と自民党は集団で小沢を血祭りに上げることで、政権交代を望んだ国民を罰したわけね。それは清く正しい者のための楽園を守るための集団ヒステリーだから、飽きることがないよ。
だけどこのヒステリー集団で馬糞の川流れが始まった。
馬糞に相応しい最期だ。

06. シムーン 2010年4月06日 16:36:13: fgNPHp2e8akTY: eaW4D
日本の新聞の記事、社説、コラムなどには、署名が入っていませんが、これは今日では相当致命的な欠陥なのではないでしょうか。私の知っている範囲ですが、フランスの新聞などでは、署名入りの記事があたりまえのことです。とくに、日本の新聞は社員数が多いのが一大特徴ですから、個性的(?)であるはずの記者の方々が同じ意見をもつなど、常識的にはあり得ないことです。談合的に社説をまとめるのではなく、社説も日替わりで書くようにして、執筆者名を入れたらよいのではないでしょうか。
また、世論をいかにも代弁するかのように、自分と関わりがないような態度で、批判を向ける態度もやめてほしいと思います。とりわけ、「私だったらこうする」という考えをあきらかにしないで、「さあ、どうするのか、どうするのか」という詰め寄るだけの記事を読まされると、いつも嫌な感じがするものです。
さらにいえば、客観性を装いつつも、最後にちらっと私的なコメントをつけ加えて、世論を誘導しようという姑息なスタイルの記事が多すぎると思います。そういうコメントをつけ加える場合には、必ず記者の個人名を入れるようにしていただきたいと思います。
以上のようにすれば、新聞の信頼性がほんの少しは取り戻せるのではないでしょうか。

07. 2010年4月06日 21:41:38: JOvun
私も06さんの意見のように、記事には記者の個人名の署名を入れるようにすれば良いと思います。そうなれば、記者自身も自分の書いた記事に責任を持ち無責任な事が書けなくなり、新聞への不信をもった人々の信頼を、多少でも取り戻すことが出来るのではと思います。

新聞のページ数もあんなに要らないのではないでしょうか。
埋める為に、余り必要の無いような記事と広告ばかりで、本当は一枚あれば充分ではないのでしょうか。

でもまぁ、世の中無駄で成り立っているようなものですから、新聞のページ一枚と言う分けにはいかないでしょうねぇ(笑)。


08. 2010年4月07日 01:21:21: Rqu.B
1)幼稚なあれかこれか決めつけ病。
「ブレまくり」「迷走続き」「無定見」←―→「独裁」「党内沈黙」「忖度政治」
政治家が判断するとき、最初から決めた通り突っ走るのべきで、迷うのはいけないと思われているが、立ち止まって考えるのは当然のことだろう。
ところが、マスコミは政治家がどう走っても非難する、固定観念の枠組みを用意しているのです。賢い立ち止まりを許さない、決まり文句の枠組みです。
2)自分のあおり行為ダンマリ病。
さんざん検察のニセ情報を流しておいて、いざ犯罪事実がないとなると、報道責任を棚上げして道義責任に話を転じ、新聞ではなく国民が怒っていることにして、どう責任をとるのか、と迫る。
3)人のふんどし相撲病。
政府がマニフェスト通りにやると、公約守るのにアタフタ、四苦八苦と責め、
マニフェストを守らないと、約束したのになぜ出来ぬと責める。
いずれにせよ国民の政治的判断能力を退化させ、幼児化させる。それは国力を弱め民主主義を衰えさせる。若者のマスコミ離れ、政治離れ、政治嫌悪感を促し、将来を危うくしている。 



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