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小沢一郎は、何故、選挙にこだわるのか? (文藝評論家・山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』) http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/628.html
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100403/1270277515 【転載開始】
「政治は数である」「政治は選挙である」という政治哲学を持つらしい小沢一郎の政治的リアリズムに関して、「政策」や「理念」を語りたがる政治的な理想主義者たちやマスコミ関係者、あるいは学者・思想家たちは、「政治は政策である」という視点から、その露骨な選挙対策や選挙戦略を嫌悪し、激しく批判するのが通例だが、僕はそういう批判が、小沢一郎批判として有効だとは思わない。小沢一郎の「選挙第一主義」は、「数の論理」を重視することもあるだろうが、「政治家は選挙に落ちればタダの人…」という言葉とも関連するが、もう一つ別の意味があると考える。それは、政治家が政治家であること、あるいは政治家が政治家になるということとも関係するが、要するに、政治家は選挙という過酷な「実存的決断」の場面を通じて「政治家になる…」存在だということである。サラリーマンも公務員も、あるいは農夫も商人も、それぞれ過酷な実存的な決断を強いられているだろうが、しかし「政治家」という存在が定期的に直面する「実存的決断」とは、その意味が異なる。フロイドに『モーゼと一神教』という論文があるが、そこで、フロイドは、エジプトからユダヤ人を荒野へ連れ出したモーゼが、「共同体を出でよ」「砂漠に留まれ」という場面を重視する。そして、モーゼはユダヤ人ではなかったのではないか、あるいはモーゼは、エジプト脱出後、かなり早い時期にユダヤ人たちに殺されたのではないか、と言う。これを柄谷行人は、さらにこう言っている。「モーゼは、『カナンの地に入れない』と神に言われますね。それは、カナンがモーゼにとって『約束の地』のではなく、砂漠こそそのような地であることを意味するのです。この『砂漠』は、必ずしも物理的な砂漠という意味ではなく、いいかえれば『共同体と共同体の間』という意味です。」「モーゼにとっては、共同体そのものは滅びたところで構わないのですね。ただ、自分についてこい、自分と一緒に砂漠に逗まれる者だけを護ってやる、と。それが『契約』ということです。」(『言葉と悲劇』P235) 僕は、小沢一郎の「選挙第一主義」とは、モーゼのエジプト脱出と砂漠の彷徨に他ならないのではないか、と考える。小沢一郎は、「政治家になること」を、「共同体からの脱出」と「砂漠に留まること」による存在の発見と捉えているのではないかと思う。小沢一郎から離れ、小沢一郎を批判する人たちの多くは、そういう小沢一郎の過激な思想を恐れた人たちであり、言い換えれば、政治家という職業を、将来の安定した「公務員」的な職業と勘違いした人たちということになる。(続く)
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