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論壇の凋落…西部邁のこけおどし論文批判(政治の季節〔稗史(はいし)倭人伝〕)
http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/414.html
投稿者 亀ちゃんファン 日時 2010 年 3 月 30 日 23:30:03: GqNtjW4//076U
 

http://blog.goo.ne.jp/yamame1235/e/c0e1191c26755143b6152446a690c370?fm=rss
2010-03-29 17:46:02

【転載開始】


論壇の凋落…西部邁のこけおどし論文批判

立花隆、森田実というかつて論客ともてはやされた言論人の凋落が甚だしい。

立花隆と森田実・過去の名声と無惨な現在 2/7( http://blog.goo.ne.jp/yamame1235/e/bf0c02c82b1fca389d9cde4d9cc24d05

立花隆が産経に登場…ボケの進行が加速している 3/12
http://blog.goo.ne.jp/yamame1235/e/49b93cd5fe3c4655606001d8b3236f21


この二人については、”耄碌(もうろく)”と言うほかないほど知性の減退が進んでいる。
ここに仲間入りをさせたいもう一人の人間がいる。


【正論】評論家・西部邁 国家を歯牙にかけぬ民意の堕落 (産経ニュース 3/16)
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100316/stt1003160344001-n1.htm

「自民党はだらしない」という批判がしきりである。しかし、そう難じる者たちも自民党の未来を本気で心配しているわけではない。自由民主主義の何たるべきかについて、真面目に考えることすらしていないのである。批判する資格のない者たちからかくも激しく叱(しか)られるところをみると、「自民党マイナス政権党はゼロ」ということかもしれない。

西部の非難はまず自民党ではなく、”自由民主主義とは何かということを理解していない人々”に向けられる。
そして彼等を、「自民党を批判する資格のない者」と規定している。

自民党を批判するのに資格がいるとは思わなかった。
彼に言わせれば、共産主義を理解していない者は、共産党を批判する資格はないということになる。

西部の使う用語は難解であり、一見高尚そうに見える。
それだけで我々一般人は彼を敬遠してしまう。

 ≪何を「再生」するのか≫

 自民党の内部から「保守再生」の声が挙がってはいる。だが、「保守」の意味が一向に明らかにされていないのだ。保守とは、自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。戦後の65年間、それら「歴史的なるもの」が破壊にまかされてきた。それを放置してきたのは、ほかならぬ自民党の責任である。

ここで西部は改めて”保守”を定義している。

保守とは、

自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、
平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、
友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する

、という姿勢のことらしい。

友愛に伴う偽善、というところなどはご愛敬というものであるが、それを「歴史的節度」によって防止するとなると何のことだかまるで分からなくなる。
前の二つについては、理解できなくもない。
しかし決して賛成するという意味ではない。
西部の言うところは、国家秩序維持のための歴史規範からの自由の制限であり、歴史的な公正感から平等を制限するということである。

彼の主張の規範は「歴史的なるもの」という点にありそうだ。

わたしは彼等の言を信用していない。
彼等の言う「歴史」を信用していないからである。
彼等の言う「歴史」とは、ほとんどいつも「明治維新」であり、「太平洋戦争」であり「天皇」である。
「日本の歴史」はそれだけで出来上がっているかのような言い方をする。

「戦後の65年間、それら『歴史的なるもの』が破壊にまかされてきた」と西部は嘆くが、彼の言う「歴史的なるもの」の正体は明らかであろう。

 いや、昭和期の自民党は歴史の慣性のようなものをひきずっていた。つまり、アメリカ流の自由(個人)民主主義の実行の仕方において、日本流がかろうじて生き長らえていたのである。しかし、平成期の世代交代につれて、その慣性も消え失せた。安倍元首相のように日本の歴史をよびもどそうとする指導者もいたが、小泉改革にみられたように、アプレゲール(大戦後派)による歴史破壊がほぼ完成したのである。「モダン(近代)」の原義は「モデル(模型)のモード(流行)」であるという趣旨で、平成改革という単純な模型が盛大に流行したわけだ。その騒がしい改革運動に自民党も迎合したのである。

自民党が引きずっていた「歴史の慣性」を「辛うじて生きながらえていた日本流」と呼び、どうやらそれを肯定的に捉えているらしい。
「安倍元首相のように日本の歴史をよびもどそうとする指導者」
「美しい国日本」、「戦後レジームからの脱却」というのは、とりもなおさず「太平洋戦争以前の日本」への回帰を意味していただけではないのか。

「小泉改革にみられたように、アプレゲール(大戦後派)による歴史破壊がほぼ完成したのである」
この部分は具体的にどういう事を指しているのか分からない。
小泉なんて大したことはしていないと思うのだが。
今どき、アプレゲールと言われても、現代政治におけるその位置づけがわたしにはさっぱり理解できない。
単に戦後育ちということか?
「戦後65年間破壊に任されてきた」と言っていることは、アプレゲールによる破壊以前に戦前派による破壊があったということになろう。
しかし「歴史破壊」という言葉そのものもよく分からない。
歴史を破壊することはだれにも出来ないだろう。

 ≪社民主義が氾濫する≫

 アメリカ流の自民主義は自由の過剰としての無秩序を、格差の過剰としての差別を、競合の過剰としての弱肉強食をもたらした。それをみて日本の民主党は、アメリカの民主党と軌を一にし、社会(介入)民主主義を、つまり社民主義を標榜(ひょうぼう)した。平成改革を強く要求したその舌の根も乾かぬうちに、秩序回復、格差是正、友愛喚起を訴えるという二枚舌で、政権を奪取したのである。

 昭和期の自民党も社民的政策を推し進めていたのだが、そこには、無自覚にせよ、国柄保守の態度が何とか維持されていた。派閥や談合といった非公式の場において、少数派の立場にも配慮するという形で、国柄の持つ多面多層の性格を保持せんとしていた。しかし、「改革」がその国柄をついに破砕したのである。その結果、アメリカ主流の自由民主主義とその反主流の社民主義という、ともに歴史感覚の乏しい政治理念のあいだの代理闘争がこの列島で演じられる仕儀となった。

「国柄」と言う言葉は何と読むのだろう。
「クニガラ」?
いずれにしろ「國体」の残りカスを指しているのだろう。

「歴史感覚の乏しい政治理念のあいだの代理闘争」?
本人は、歴史感覚十分と考えているようだが、その歴史感覚自体が勘違いである。
もっとも西部の言う歴史感覚とは、国柄=國體意識を指している。
バカバカしい。

 かかる状況に切り込まずに保守再生をいうのはお笑い種でしかない。必要なのは「保守誕生」ではないのか。日本国憲法は社民主義のマニフェストにすぎないこと、自民党の旧綱領は社民主義へのアンチテーゼにとどまっていたこと、平成改革は国柄喪失の自民主義に突っ走っていたこと、そうした事柄を全面的に省察するのが保守誕生ということである。

確かに自民党内の共通した認識は、”反共”しかなかった。
自民党の「保守」概念が、社民主義へのアンチテーゼにとどまっていた、という指摘は正しいのだろう。
ただし「社民主義」というより、自民党の意識では、「社会主義」、「共産主義」を意識していたに過ぎない。
しかし小泉以後の自民党政治を、安倍晋三を除いて、「平成改革」と呼び、「国柄喪失」という言い方には笑ってしまう。
一体西部のいう「国柄」とは何なのだ?
それがまったく理解できない以上、西部の論はわたしには意味を持たない。
「國體」というカビの生えた言葉を単に置き換えたものに過ぎないものなのだろうが。

「保守誕生」というが、その中身は、「社民主義へのアンチテーゼではない國體護持」ということなのだろう。

 あと3年半は、政権から遠く離れた自民党にとって、保守の国民運動を繰り広げるのに絶好の機会ではないのか。多くの国民も、内心ひそかに、自分らの国柄が米中両国に挟み撃ちされている危機的様子に気づいて、保守誕生を待望していると思われる。

「自分らの国柄が米中両国に挟み撃ちされている危機的様子」

これもまた理解しにくい表現である。
挟み撃ちにされている「国柄」とは何を言っているのか分からない。
もしかすると「主権」とか「アイデンティティ」とかという意味で使っていたのか。
アメリカは分かるとしても何でここに中国がでてくるのか?
「国の安全」とか「国の経済」とかなら分かるが、「国柄」とは……。

そんなことを理由に、「多くの国民も、内心ひそかに……保守誕生を待望している」はずはない。

 ≪腐敗していく民衆政治≫

 自民党を怯(おび)えさせ、また民主党を高ぶらせているのは「数の論理」である。「民主主義は多数決だ」(小沢一郎民主党幹事長)という猛々(たけだけ)しい言葉の前で自民党は萎縮(いしゅく)している。しかし、この文句はデモクラシー(民衆政治)の腐敗の明らかな兆候なのだ。

これを「腐敗の兆候」というが、ことさらデモクラシーを民衆政治という言葉に置き換えて、衆愚政治のイメージを塗り重ねているだけではないのか。
デモクラシーも腐敗する。
しかし、地球上でこれまでに腐敗しなかった政治形態があったのか?
中国の理想的な指導者とされる尭・舜でさえその国を永続させることは出来なかった。
腐敗や滅亡は必然なのである。
ひとりデモクラシーに限ったことではない。
しかし、「数の論理」がデモクラシー腐敗の兆候というのは、次に西部自身も言うように、そもそもデモクラシーそのものが内包する矛盾を言っているだけに過ぎない。
とりたてて「腐敗の兆候」などと大声で言うほどのことではない。

 なるほど、民衆政治は「多数参加の下での多数決制」という数の制度である。しかし、これから正が出るか邪が出るかは、「民意」なるものが優等か劣等かによる。たとえば、議会での議論が必要なのは、民意によって選ばれた多数派の政権も、フォリビリティ(可謬性つまり間違いを犯す可能性)を免れえないからだ。またたとえば、ほとんどすべての独裁が民意によって、換言すると民衆政治を民衆自身が否定することによって、生み出されもした。こういうものにすぎぬ民衆政治を民主主義の理念にまで昇格させたのは、自民主義にせよ社民主義にせよ、近代の理念における錯誤だらけの模型であり流行である。

 デモクラティズム(民主主義)は民衆という多数者に「主権」ありとする。主権とは「崇高、絶対、無制限の権利」のことである。ただし、民衆が「国民」であるならば、国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう。しかし、平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民の民意に主権を見いだすのは、民衆政治の堕落にすぎない。これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう。(にしべ すすむ)

「主権」を「崇高、絶対、無制限の権利」と定義するが、これは西部の定義に過ぎない。
「主権」の定義は百人百様であろう。
わたしは「主権」を”崇高”とも思わないし、絶対とも思わない。
ちなみにわたしは、「主権とは、自分のことを自分で決める権利」という程度に理解している。
そして現実には、崇高とはほど遠い卑近なものであると思っている。
妥協もあるし、相対的なものでもあり、自他の無制限の権利を制限する権利も含まれると思っている。

そして彼はついに民衆に国家の網をかぶせる。
民衆が「国民」であるならば、と卑怯な前提をおいてである。

わたしが不自由に思うのは、日本語にはこの国に住む一人一人の住民を指す適当な言葉がないということである。
「市民革命」と言ったときの「市民」ということばがそれに近いが、わたしたち一人一人の住民を指すには日本語としては未成熟なことばである。
「××村」に住みながら、自らを「市民」とは言いにくい。
民衆や大衆も個々人を集合として捉えている側面がつよい。

そんな中で、「日本国民であるなら」と言われても応対に苦慮してしまう。
「日本という国に住む市民なら」と言われるとまた別の対応ができるというものである。

しかしわたしも国民という言葉はよく使う。
一々、「日本という国に住む市民」などと表現していられないからである。
つくづく不自由を感じている。
それを西部のように正面から、「日本国民なら…」と一括りにされると、「それは違うだろう」と言わなくてはならない。
西部の言う「国民」とわたしの言う「国民」とは明らかに乖離がある。

西部は一応は民衆に主権を認めながら、その主権の上に国家を置く。

「国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう」

これが多分西部の言う「国柄」の正体なのであろう。
主権とは愚かな民衆の持ち物ではなく、「英知に溢れた国家」の所有物であるらしい。
というよりむしろ、「国柄」が国家を形成すると言うべきなのか。
その「国柄」の凝縮し昇華した現れが安倍晋三らしい。

ついでながら、「国家」と言う言葉もわたしには抵抗感の強い言葉である。
わたしはなるべく「国家」という言葉を使うことは避けている。
わたしは、経済において「家庭」の経済活動を「家計」と呼ぶような意味で、「国」を政治・経済・外交等の面からみたときに「国家」という言葉を使っている。
この場合はまだ代わりに「国」という言葉があるから救われる。
この「国家」という言葉も右翼の大好きな言葉である。
彼等は実によく「国家」という言葉を使う。

「平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民の民意」

西部は、「平成列島人」と、物理的・即物的な言葉に軽蔑と嫌悪を込めてわたしたちを呼ぶ。

西部の理想とする国家では、愚かな民衆は「国柄」という訳の分からないものに主権を譲り渡さなければならないらしい。
それを拒み、主権を主張する民衆は国家の敵であるということになる。

「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう」

この西部の言葉は、単なるレトリックではなく、心の底からの思いであろう。

しかし保守論壇の論客とか重鎮とか言われる西部邁の「保守論」というのも、なんとも底の浅いものである。
結局、「國體」を「国柄」という言葉に置き換えただけの「国体護持論」に過ぎない。
西部の言う、國體=国柄の中身は必ずしも明らかというわけではないが、いずれにしろわたしたちの上に無条件に存在するそんなものはわたしは拒否する。

全体は自民党に対する叱咤激励のようにも思われるのだが、「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう」と言われては、自民党もどうしていいか分からないだろう。
「民主主義は国民政治の敵だ」と叫んでいては選挙にならない。

ところでその「国民政治」とは何だろう?
西部は「民衆政治」は否定するが、「国民政治」は肯定する。
多分「国家に組み込まれた国民」による政治という意味なのであろう。

読後の感想を言わせてもらえば、難解な用語と複雑な言い回しを駆使して文章を飾り立てているが、ほとんど具体的な像を結ばない空疎な論文である。

わたしは西部の軽蔑する民衆の一人である。
西部邁の”民衆”に対する冷たい視線が嫌いである


【転載終了】  

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コメント
 
01. 2010年3月31日 10:36:10
論文とは、論ある文を言う
 西部や森田に、論・・があるか
ただの、ガちゃ文・・・聞くだけ時間の無駄・・省エネの時代に・・大損した

02. 2010年3月31日 11:50:09
右の人達の論を見て思うのは、この人達は「国家」を語っているようで
実は自分の好悪の感情や、プライドやアイデンティティを語っているだけ
なんだよね。

だから「中国に侵略される」という話にはすごく敏感で「活断層の上に
原発が林立してる」なんて話にはすごく鈍感。
現実的な「危機」を語っているんじゃなくて、何が癪に障るかを語って
いるから。

「国家、国家」と言ったって、本当に苦しんでいる他の国民を慮っている
ワケでもない。
在日外国人の話をすると「国籍」にすごく固執する癖に、自分と考えを
違えると(日本国籍を持っているのに)「あんな非国民、日本人じゃねえ」
とか平気で言う。

「歴史」も「国家」も自分の中で整理されてないで「オレの日本に感じて
いるプライド、アイデンティティを他の人も共有すべきだ」と。
だから話が面白くならないんだよなあ、きっと。


03. 2010年3月31日 14:09:17
>平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民

誰に向かっていっているのか。

もっとも西部氏は、多数が右に向かえば左に向かって吠え、
左に向かえば右に向かって呻るような人だから、
まともに取り合うのは時間の無駄かもしれない。

理屈を覚え始めた子供のようで微笑ましく感じるときもある。


04. 2010年3月31日 14:24:37
こういう投稿にであえるから、ここへ来ます!s.k

05. 2010年3月31日 15:50:27
まあ歴史と言っても言語空間としての歴史ですから。
ゆえに西部は語りだしの第一行に必ず人は言語を操る生き物だと入れるわけで、歴史を紡いできたものは言語という営みなら同時に言語が共有されてきた時代を歴史認識という前提に立てば西部の言う保守は日本語と日本人という主体に当たることは容易でしょうね。
したがって歴史認識のないと西部が処断する人たちは少なからず営みを断とうする者や風潮に向けられるわけでそれは右でも左でも批判するわけですが、歴史には一方で伝統があるわけですが伝統というと風俗風習があるわけで、日本人の風俗観念というものは西洋のキリスト教の聖と俗とは違い、かなりルーズで適当なアリテイに言えば大正昭和から戦前も含めて性道徳に関する乱れは相当のものであり、貞操観念の固かった戦前の凜とした日本人像という保守派が想い求めるイメージはかなり怪しいわけで、それを当然知っている西部の侘しさというものは伝統の絶対性に無謬の信頼を置けないというか置こうとして置けきれない哀しみがあるといつも思いますね。
なので西部もまたそこはそれで自分に納得できる保守イメージを作り上げ、他の保守イデオローグたちと自分との棲み分けを用意していると想います。
西部の本音は素面より酒が入っているときですよ。彼は戦前回帰論をはしたないと切り捨てますがその言い草は「いかにも」というやつです。
つまり、いかにも付け焼刃の取り繕った戦前回帰なぞ保守反動にもならないよと言いたいわけです。
どうせ無駄だがまあやってごらんというわけです。教科書グループの八木秀次たちの行いに対する酔っ払った西部の言うなればクダ巻きなんですがこれは宮台真司との対談での発言なんですが、酔った西部の分かりきった愚痴とも諦観ともいうべき昭和は遠くなりにけり的なトークは私好きなんで動画サイトに上げられてるのを暇があるときに何度も見てます。
西部さんは面白いですよ。この人は知識人の及ぼす影響なんぞというものが所詮どれほどのもんかとっくに分かってます。
朝生で野坂昭如や大島渚と口角泡飛ばして論交わしてた頃の西部が一番よかったでしたねぇ。
野坂や大島がいない今、西部も映えなくなって立川談志と床屋政談やってお茶濁してるだけではねぇ。
すっかり皮肉屋の小言幸兵衛になっちゃってまあしょうがないといえばしょうがないんだが・・・

06. 2010年3月31日 18:40:16
吉田松陰にはコアな部分として”大和ごころ”があり、西部が心酔する”国柄”
に近しいものがある。だが、吉田は牢屋の中の囚人たちに”孟子講義”を論じて
聞かせる中で、当時の既得権益層に対する敵意と社稷を取り替える必要性
(政権交代)へと思索を深めた。(著書:講孟箚記)
コアな部分として”国柄”を有しつつも、平成列島小市民に対する侮蔑と保守
再生の必要性にとらわれ、自己陶酔を散りばめた思索を深めるだけの学者は時代
の推進力たりえず、20世紀の華やかな記憶の中に埋没する。



07. 2010年3月31日 20:20:13
解りにくい。

まず、西部さんの本文を通しで読んでからでないと、

さっぱり解らん。

転載の転載はいらない。

それなのに、数人の方はすごいですね。

コメント書けちゃうんだから。敬服


08. 2010年3月31日 22:59:47
ま、西部に限らんが。
そんなに歴史歴史と言うなら、とっとと攘夷を実行して米軍を追い出せばいいのにw
日本を誇る時は2600年の伝統等と言いながら、たかだか数十年前からの腐った体制の継続を主張。
まったく、大した愛国者だぜ。

09. 2010年4月01日 22:32:56: zv.GD
私も西部さんの著作をろくに読んでない部類でありますが、どうしても好きになれない臭いのようなものがありました。こうゆうことではいけないと思ってきましたが、嫌いなわけをはっきりできる根拠には出会うことはできました。吉本隆明氏は西部さんのもっとも嫌いな言葉は「大衆」であろうといいきっていました。すべてがすっきりしました。
大衆(阿修羅でも議論になる、私を含めたB層の存在確率の一番高い存在形態)とはその人にとって何であるかは、私にとっては世の中を裁断するときに最初に水鉛をおろす基準です。

10. 2010年4月17日 10:44:44: 4sLVTth9Mw
まあな
衆愚政治も民主党のような政党に政権を与えてしまうに至っては支持率100%の北朝鮮の方がまだ健全と言えるだろう

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