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論壇の凋落…西部邁のこけおどし論文批判(政治の季節〔稗史(はいし)倭人伝〕) http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/414.html
http://blog.goo.ne.jp/yamame1235/e/c0e1191c26755143b6152446a690c370?fm=rss 【転載開始】
立花隆、森田実というかつて論客ともてはやされた言論人の凋落が甚だしい。 立花隆と森田実・過去の名声と無惨な現在 2/7( http://blog.goo.ne.jp/yamame1235/e/bf0c02c82b1fca389d9cde4d9cc24d05 ) 立花隆が産経に登場…ボケの進行が加速している 3/12
「自民党はだらしない」という批判がしきりである。しかし、そう難じる者たちも自民党の未来を本気で心配しているわけではない。自由民主主義の何たるべきかについて、真面目に考えることすらしていないのである。批判する資格のない者たちからかくも激しく叱(しか)られるところをみると、「自民党マイナス政権党はゼロ」ということかもしれない。 西部の非難はまず自民党ではなく、”自由民主主義とは何かということを理解していない人々”に向けられる。 自民党を批判するのに資格がいるとは思わなかった。 西部の使う用語は難解であり、一見高尚そうに見える。 ≪何を「再生」するのか≫ 自民党の内部から「保守再生」の声が挙がってはいる。だが、「保守」の意味が一向に明らかにされていないのだ。保守とは、自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。戦後の65年間、それら「歴史的なるもの」が破壊にまかされてきた。それを放置してきたのは、ほかならぬ自民党の責任である。 ここで西部は改めて”保守”を定義している。 保守とは、 自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、 、という姿勢のことらしい。 友愛に伴う偽善、というところなどはご愛敬というものであるが、それを「歴史的節度」によって防止するとなると何のことだかまるで分からなくなる。 彼の主張の規範は「歴史的なるもの」という点にありそうだ。 わたしは彼等の言を信用していない。 「戦後の65年間、それら『歴史的なるもの』が破壊にまかされてきた」と西部は嘆くが、彼の言う「歴史的なるもの」の正体は明らかであろう。 いや、昭和期の自民党は歴史の慣性のようなものをひきずっていた。つまり、アメリカ流の自由(個人)民主主義の実行の仕方において、日本流がかろうじて生き長らえていたのである。しかし、平成期の世代交代につれて、その慣性も消え失せた。安倍元首相のように日本の歴史をよびもどそうとする指導者もいたが、小泉改革にみられたように、アプレゲール(大戦後派)による歴史破壊がほぼ完成したのである。「モダン(近代)」の原義は「モデル(模型)のモード(流行)」であるという趣旨で、平成改革という単純な模型が盛大に流行したわけだ。その騒がしい改革運動に自民党も迎合したのである。 自民党が引きずっていた「歴史の慣性」を「辛うじて生きながらえていた日本流」と呼び、どうやらそれを肯定的に捉えているらしい。 「小泉改革にみられたように、アプレゲール(大戦後派)による歴史破壊がほぼ完成したのである」 ≪社民主義が氾濫する≫ アメリカ流の自民主義は自由の過剰としての無秩序を、格差の過剰としての差別を、競合の過剰としての弱肉強食をもたらした。それをみて日本の民主党は、アメリカの民主党と軌を一にし、社会(介入)民主主義を、つまり社民主義を標榜(ひょうぼう)した。平成改革を強く要求したその舌の根も乾かぬうちに、秩序回復、格差是正、友愛喚起を訴えるという二枚舌で、政権を奪取したのである。 昭和期の自民党も社民的政策を推し進めていたのだが、そこには、無自覚にせよ、国柄保守の態度が何とか維持されていた。派閥や談合といった非公式の場において、少数派の立場にも配慮するという形で、国柄の持つ多面多層の性格を保持せんとしていた。しかし、「改革」がその国柄をついに破砕したのである。その結果、アメリカ主流の自由民主主義とその反主流の社民主義という、ともに歴史感覚の乏しい政治理念のあいだの代理闘争がこの列島で演じられる仕儀となった。 「国柄」と言う言葉は何と読むのだろう。 「歴史感覚の乏しい政治理念のあいだの代理闘争」? かかる状況に切り込まずに保守再生をいうのはお笑い種でしかない。必要なのは「保守誕生」ではないのか。日本国憲法は社民主義のマニフェストにすぎないこと、自民党の旧綱領は社民主義へのアンチテーゼにとどまっていたこと、平成改革は国柄喪失の自民主義に突っ走っていたこと、そうした事柄を全面的に省察するのが保守誕生ということである。 確かに自民党内の共通した認識は、”反共”しかなかった。 「保守誕生」というが、その中身は、「社民主義へのアンチテーゼではない國體護持」ということなのだろう。 あと3年半は、政権から遠く離れた自民党にとって、保守の国民運動を繰り広げるのに絶好の機会ではないのか。多くの国民も、内心ひそかに、自分らの国柄が米中両国に挟み撃ちされている危機的様子に気づいて、保守誕生を待望していると思われる。 「自分らの国柄が米中両国に挟み撃ちされている危機的様子」 これもまた理解しにくい表現である。 そんなことを理由に、「多くの国民も、内心ひそかに……保守誕生を待望している」はずはない。 ≪腐敗していく民衆政治≫ 自民党を怯(おび)えさせ、また民主党を高ぶらせているのは「数の論理」である。「民主主義は多数決だ」(小沢一郎民主党幹事長)という猛々(たけだけ)しい言葉の前で自民党は萎縮(いしゅく)している。しかし、この文句はデモクラシー(民衆政治)の腐敗の明らかな兆候なのだ。 これを「腐敗の兆候」というが、ことさらデモクラシーを民衆政治という言葉に置き換えて、衆愚政治のイメージを塗り重ねているだけではないのか。 なるほど、民衆政治は「多数参加の下での多数決制」という数の制度である。しかし、これから正が出るか邪が出るかは、「民意」なるものが優等か劣等かによる。たとえば、議会での議論が必要なのは、民意によって選ばれた多数派の政権も、フォリビリティ(可謬性つまり間違いを犯す可能性)を免れえないからだ。またたとえば、ほとんどすべての独裁が民意によって、換言すると民衆政治を民衆自身が否定することによって、生み出されもした。こういうものにすぎぬ民衆政治を民主主義の理念にまで昇格させたのは、自民主義にせよ社民主義にせよ、近代の理念における錯誤だらけの模型であり流行である。 デモクラティズム(民主主義)は民衆という多数者に「主権」ありとする。主権とは「崇高、絶対、無制限の権利」のことである。ただし、民衆が「国民」であるならば、国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう。しかし、平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民の民意に主権を見いだすのは、民衆政治の堕落にすぎない。これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう。(にしべ すすむ) 「主権」を「崇高、絶対、無制限の権利」と定義するが、これは西部の定義に過ぎない。 そして彼はついに民衆に国家の網をかぶせる。 わたしが不自由に思うのは、日本語にはこの国に住む一人一人の住民を指す適当な言葉がないということである。 そんな中で、「日本国民であるなら」と言われても応対に苦慮してしまう。 しかしわたしも国民という言葉はよく使う。 西部は一応は民衆に主権を認めながら、その主権の上に国家を置く。 「国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう」 これが多分西部の言う「国柄」の正体なのであろう。 ついでながら、「国家」と言う言葉もわたしには抵抗感の強い言葉である。 「平成列島人のように国家のことを歯牙(しが)にもかけない単なる人民の民意」 西部は、「平成列島人」と、物理的・即物的な言葉に軽蔑と嫌悪を込めてわたしたちを呼ぶ。 西部の理想とする国家では、愚かな民衆は「国柄」という訳の分からないものに主権を譲り渡さなければならないらしい。 「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう」 この西部の言葉は、単なるレトリックではなく、心の底からの思いであろう。 しかし保守論壇の論客とか重鎮とか言われる西部邁の「保守論」というのも、なんとも底の浅いものである。 全体は自民党に対する叱咤激励のようにも思われるのだが、「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう」と言われては、自民党もどうしていいか分からないだろう。 ところでその「国民政治」とは何だろう? 読後の感想を言わせてもらえば、難解な用語と複雑な言い回しを駆使して文章を飾り立てているが、ほとんど具体的な像を結ばない空疎な論文である。 わたしは西部の軽蔑する民衆の一人である。
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