投稿者 亀ちゃんファン 日時 2010 年 3 月 27 日 00:46:29: GqNtjW4//076U
「月刊日本」講演会誌上採録 我が國體を回復せよ
佐藤 優(作家・元外務省主任分析官)
「月刊日本」三月号
平成22年2月22日発行(転載承諾済)
民主党と官僚との戦いは横目で眺めながら、われわれは社会の力を強化しなければなりません。それは、君民共治の我が國體の本義に立ち返るということです。それは、民主党、官僚とは別の第三極ということではありません。
民主党であろうが官僚であろうが、彼らを成立せしめている本当の基盤はわれわれなのです。
日本国家の根幹は、生産し、相互に扶助する共同体にあるのです。そのことにまずわれわれが気づく事が大事なのです。「結語」より
【転載開始】
我が國體を回復せよ『月刊日本』講演会誌上採録 作家・元外務省主任分析官 佐藤 優
去る1月31日、本誌主催講演会が明治記念館で行われた。本誌でも連載中の佐藤優氏を講師にお迎えし、現下の政局、そして本誌2月号に掲載された山崎行太郎氏との対談を踏まえて、現下の政治状況について語っていただいた。以下、誌上に講演の様子を抄録する。
〔國髄の回復が急務だ〕
今日は六点に絞って話をしていきます。第一に、「二つの国家」、第二に、「国体の回復」、第三「鳩山由紀夫研究」、第四「小沢対検察」、第五「我々はギリギリの選択をどうすべきか」、最後に「国体明徽」です。
まず、「二つの国家」ですが、現在、わが日本に大文字の国家はありません。小文字の国家がふたつあります。すなわち一つは鳩山首相を頂点とする内閣であり、もう一つが検察を頂点とする官僚支配の国家です。ここに羽毛田長官も含まれています。羽毛田長官の問題については『月刊日本』2月号で山崎先生と十分に議論をしたので読んで頂きたいのですが、簡単におさらいをすると、羽毛田長官は長州的発想で「玉を取る」ことで民主党に揺さぶりをかけた。それに対し、小沢氏は「私は陛下は会いましょうとおっしゃると思いますよ」と、こちらも「玉を取る」発言をしました。両者でよりどちらが悪いかというと、政治家は選挙で排除できるが、官僚は排除できない、だから羽毛田長官の方が悪質であると指摘したのですが、それは小沢氏が正しいということを意味しません。両方ともダメなのです。両方とも「玉を取る」発想、すなわち、天皇機関説の発想になっているのです。そこには畏れの感覚がありません。國髄の感覚、「大日本者神国也」(おほやまとはかみのくになり)という感覚が欠如しているのです。
そこで第二の問題に移りましょう。戦後GHQが日本に来て最初に発禁した本が『國髄の本義』です。これは長らく古本屋でしか手に入らず、昨年『月刊日本』が勉強会のために復刻したものを除けば、昨年末私が上梓した『日本国家の神髄 「國髄の本義」を読み解く』(産経新聞社)が戦後最初の『國髄の本義』の活字版となります。
なぜ、GHQはこの書を禁書としたのか。それは、ドイツにおけるヒトラーの『我が闘争』のように、日本があのような無謀とも言える戦争に突入していった思想的基盤を与えた本だと考えたからです。しかし、実際に読んでみると、『國體の本義』は神がかり的に日本を称揚賛美しているのではなく、むしろ、神がかりを排し、いかに西洋の思想、技術を日本の風土に合うように取り入れ、日本の社会を破壊する思想を排除するか、すなわちいかに「醇化」(じゅんか)するかということに力点が置かれているのです。
ここで『國體の本義』が注意深く排除したものは三つあり、まず自由主義です。自由主義において資本の運動を放置すると、格差が生まれ、さらに放置すると格差が固定し、絶対的貧困が生まれます。一部の財閥が大金儲けをする一方で、構造的に二度と這い上がれないような貧困に固定される層が出てくる。このようになると国民の一体性が喪失してしまいます。しかし、貧困は問題ではあるものの、『国債の本義』は共産主義も排します。共産主義と皇統は相容れませんし、さらに、共産主義は人間に対する楽観論が基本にあるからです。
三つ目に排するのが、ファシズムです。ここで言われているファシズムとは、官僚の権力を強化することによって国民を上から束ねていくことです。
自由主義、共産主義、ファシズム、この三つに共通するのは、人間は一人一人バラバラであるというアトム的人間観です。しかし日本社会、日本人にはこれは適合しないのです。日本人はおなじ日本人が困っていたら助け合う。そこに「なぜ」などという問いは発生しません。問うまでもなく助ける、それが日本人です。経済合理性とは異なった行動をするのです。さらに、生命よりも大切なものがある、という感覚も我々日本人は持っています。それは我々の共同体であり、我々の理念です。そういうもののために、状況によっては生命を投げ出すのです。つまり、近代主義的な個人観、生命尊重とは異なった価値観が日本にはあるのです。そして、『國體の本義』をGHQが禁書としたのは、まさにこうした日本人の価値観を抹殺しようとしたからだと言えます。我々が國體について考えるとき、まず立ち返るべきは『國體の本義』なのです。
余談ですが、『國體の本義』編纂の中心人物の一人である橋田邦彦先生(東大医学部教授、文部大臣)は、戦後東京裁判に呼び出されたときに自裁しました。その遺書に、「今回戦争責任者として指名されしこと光栄なり。さりながら勝者の裁きにより責任軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得ざる所なり。皇国國體の本義に則り茲に自決す」とあります。こうした姿勢こそが本物の思想家のものであり、命が懸けられなければ思想とは言えないのです。
〔鳩山首相は決断の専門家だ〕
昨年末、鳩山由紀夫首相が東京の丸善で本を28冊買いましたが、この時買った本のうち一冊が村上正邦先生、山本峰章先生と私の共著『情の国家論』と、それから先ほどご紹介した拙著『日本国家の神髄』でした。鳩山首相は国家論については右翼のものを選んで読んでいるのです。28冊も休暇中に読みきれるのかという質問に鳩山首相はパラパラとめくって、目に付いた大事なところだけでも拾う、と答えました。これを椰輸して、いまさら泥縄式に本をめくって国家について勉強しているようではどうしようもない、という論評もありましたが、これは鳩山首相の能力を過小評価しています。鳩山首相はスタンフォード大学で博士号を取得しています。アメリカで勉強した人はわかりますが、アメリカの大学は膨大な量の文献を読ませます。これによって、膨大な文献の中から必要な箇所を取捨選択するという速読術が身に付くのです。
ですから、鳩山首相の読み方はごく真っ当な読み方と言えます。
では、なぜ鳩山首相は右翼の国家論を手に取ったのか。鳩山首相のもっとも大事なポイントは、昨年春、あの衆議院選挙の前に、吉野の後醍醐天皇稜に参拝したことにあると考えます。あきらかに、何かが鳩山首相に降りてきて、それで「吉野に行きたい」と、奈良選出の前田武志参議院議員に頼んで参拝したのです。
ここで鳩山首相についてもう少し考えてみましょう。みなさんは、二十歳の頃、何をしていたでしょうか。熱中してたこと、好きだった人、つるんでいた仲間、そういうのを思い出してみると、今の自分は実は、20歳の境の行動様式とあまり変化がないのではないでしょうか。
私はイスラエルの情報部出身の人に教えを受けたとき、誰かについて調べるときは、まずその人物が20歳の頃にどういう人間と付き合っていたか、どういう立ち居振る舞いをしていたかを調べろと教わりました。それによって、現在の行動・思考様式も理解できるのです。
管直人副総理・財務大臣は20歳のころ、東京工業大学の全共闘活動家としてバリケードストライキなどをやっていた。
鈴木宗男先生は、20歳の頃、カメラマンになりたかったのです。カメラマン助手として機材をバイクで運んで走り回っていた。その後、中川一郎先生の事務所に行き、「これが政治の世界か。まったくなっとらんじゃないか」ということで秘書として政治の世界に乗り込んでいった。大体今と変わらないのです。
では、鳩山首相は20歳の頃なにをしていたか。毎日、偏微分方程式を解いていたのです。その後、スタンフォード大学に留学し、数学で修士、オペレーションズ・リサーチで修士と博士号を取りました。このオペレーションズ・リサーチで扱ったのが19世紀末から20世紀初頭のロシアの数学者・アンドレイ・マルコフによる「マルコフ連鎖」という特殊な確率論です。
海辺のガールハントという命題を考えて見ましょう。海辺にたくさん、若いおねえちゃんがいる。まず一人目に声をかける。それで終わりにせずに、二人目、三人目と声をかけていく。さて、三人目の子が、二人目よりは美人だが一人目よりはちょっと劣るな、という場合に、この三人目の子と付き合うべきなのか、それとも四人目を待つべきなのか。こういう研究があるのです。同じように、秘書候補と面接していって、何番目で決めればいいかという命題もありますが、だいたい、母集団の37%ぐらいのところで決めるのがいいというのが数学的結論です。
このオペレーションズ・リサーチとは、いわば、決断についての数学であり、鳩山首相は決断の専門家なのです。そして、数学的に、決断を急がずに引き伸ばすというのが正しいのです。ですから、鳩山首相にしてみれば、マルコフ連鎖もわからない記者や評論家が「決断力がない」と非難しても、「何を言っているんだ」というところでしょう。そもそも思考のバックボーンが異なるのです。
オペレーションズ・リサーチは机上の空論ではありません。これを応用した国がイギリスです。対ナチス戦争の時、軍事力、物量共にドイツに劣っているとき、どのようにして互角に戦うか、オペレーションズ・リサーチを応用したのです。
さまざまな欠陥がある中で、どの部分から強化していけば最大の効果を出せるか研究したわけです。これは工場のオペレーションでも同じで、技術が革新されたから工場の機械をすべて取り替えたいと思っても、資金的に無理な場合、どの部分を交換すれば工場全体の効率が最大となるかをはじきだすことができるのです。そして、この研究で大事なのは「変化」という要因です。軍事にしろ工場にしろ、構成する要素は、あるいは戦局が変化し、あるいはラインが劣化するなど、時間と共に変化します。この変化を織り込んで計算するために偏微分方程式が必要なのであり、鳩山首相の「決断」とは、予期される変化を織り込んでの決断なのです。
ですから、鳩山首相が「五月までには沖縄基地問題について決断する」と言っているのは、台湾、北朝鮮の政治状況という変化要因を織り込んでの発言です。この決断がなされる上での目的関数は「日米同盟の強化」です。オハマ大統領も日本の政治家や新聞記者とは異なって、変化という要因を勘案できる政治家なので、「トラスト・ミ−」が通用するのです。昨年11月14日、サントリーホールでの演説でオハマ大統領は「私たちは日米同盟を再確認するのみでなく、深化していくことで合意しました」と発言しています。すなわち、「変化」させていくことで合意ができているのです。
〔日本はフアショ化しつつある〕
ここで大事になるのは、日米同盟を変化させていく上で、日本側の主体は誰かということです。これまで、外交、とくに条約についての解釈権は外務省国際法局(旧条約局)が握っていました。ところが民主党の進める「政治主導」によって、この解釈権も含めて、外交の主体を政治が担う方向へと変えようとしているのです。
もちろん、官僚の抵抗も激しい。官僚というものは、強いエリート意識と国家意識を持っています。それは、自分たちが国家を導かねば、国家は崩壊するという肥大した自意識です。ところが、無能な国民の代表である無能な政治家風情が憲法の解釈権を内閣法制局から取り上げ、条約の解釈権も外務省国際法局から取り上げようとしている。このままでは、国家、冒頭で言った二つの国家のうち「官僚の国家」が崩壊するという危機意識です。この意識は霞ヶ関で共有されています。
その一つの表れが四つ目の論題である「小沢一郎対検察」です。ただし、この点については『月刊日本』2月号で詳しく話しましたので簡単に言いますが、この戦いは、どちらに与すべきとも思いません。変なたとえですが、気持ちの悪いおじさんが近付いてきて、「キスさせるか、胸を触らせろ」と言ってきたとします。答えは「どちらも嫌だ」でしょう。ファショ化の兆しを見せる小沢氏も、偏屈な正義感に凝り固まって暴走している検察も、両方とも拒否すべきなのです。ハブとキングコプラが戦っているようなもので、それは「彼ら」の争いであり、我々はできれば間与したくない。しかし、政治である以上我々と無関係ではありません。その点で「ギリギリの選択」が迫られるのですが、先ほどの羽毛田長官問題と同様、政治家は排除できるが官僚は排除できないという議論を当てはめるべきです。
小沢一郎氏はケシカランと思う人も多いでしょう。しかし、小沢はケシカランから検察頑張れというように、官僚に世直しを期待するのもダメなのです。さらに、小沢一郎という個人を排除したところで、ことの本質は「小沢一郎的なるもの」にあります。小沢氏個人を排除しても、小沢的なものは政界に残り続け、第二第三の小沢氏が出てくることになります。我々が対峠すべきは個人としての小沢一郎ではなく、「小沢的なるもの」、すなわち、ファショに向かわざるをえない現下の日本の政治状況そのものなのです。
では、ファショ化する政治状況とはどういうことでしょう。昨年夏の衆議院選挙において、民主党が「民意を受けて」政権を担うことになりました。しかし、国民の代表として選ばれたかに見える民主党、そして小沢氏は、本当に国民の代表なのか。ここで是非読んでほしいのは、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリユメール18日』(平凡社ライブラリー)です。人間には表象能力があります。このために、代表を送り出す側と送り出される側との間に関係がなくても、イメージ操作によって関係があるような表象を作り出すことが可能なのです。フランスの第二共和制がなぜ、ナポレオンの甥だと自称する得体の知れない男によって潰されたのか、これについて研究したのが同書であり、現在の政局分析としても極めて有益です。フランス第二共和制において、当時の最も貧しい農民に選挙権を与えたら、その農民たちに最悪の政策を取るナポレオン3世を選出してしまった。結局、自分で自分の首を絞めるようになった。最近の日本では小泉元首相の選挙が最も近いでしょうし、小沢氏も同じようなものと見ています。
ただし、小沢氏は確かに底力があります。選挙工学を極めているし、権力の文法を理解している。それは何か。数です。数が力ということです。そして、まさにこの発想こそが、反・國體思想なのです。一人一人がバラバラであるというアトム的人間観であり、1票、2票、3票と、人間を数字だけで考える思想、これこそが我々が排すべき思想です。
たとえたった一人の人間であろうと、きちんと腹を割って話をし、話を開いていくこと、これが我が國體に合致した、君民共治の理念の原点です。
昭和17年(1942)に国政選挙が行われましたが、これは戦前唯一の大政翼賛選挙です。この翼賛選挙で政党は解散されましたが、大政翼賛会の推薦で当選した国会議員は82%です。非翼賛会が18%あったということで、8割が翼賛であるのに2割は翼賛体制に否を唱えていたわけです。戦前戦時下は暗黒時代のように言われますが、それでも2割は否を唱えていたのだし、中野正剛のように東条政権に立ち向かった政治家もいたのです。
ところが、民主党が目指しているのはまさに、大政翼賛会を越える超・翼賛体制です。そのために右にも左にも触手を伸ばしているのは、『月刊日本』2月号で述べたとおりです。
一部の保守派が期待するように、民主党は分裂しません。なぜなら、民主党には理念がないからです。理念がなく、ただ権力を握っていたいという一点において結束している。権力を放すことだけは絶対にしない。こういう政党は極めて結束力が強いのです。
その中で、小沢一郎という政治家の歴史的使命は、日本国家をファショに転換することです。その上で、小沢氏がやろうとしているのは、金を権力に変える、田中角栄を始祖とする経世会的政治の弔辞を読み上げることです。政党助成金とは、選挙の国営化です。これによって国家給動員体制を作らなければ日本国家は生き残れないという集合的無意識で動いているのです。もちろん、本人は自覚していないので経世会の尻尾を引きずり、企業献金にも未練があった。しかし今回の件で、企業献金を禁止する方向に動くでしょう。
そもそも、みなさんが株式企業の経営者だとして、無私の心で政治家に企業献金したとします。すると、これは会社に利益をもたらさない出資ですから、株主に対する背任行為にあたります。自分の会社に利益をもたらそうと企業献金を行えば、贈賄です。つまり、企業献金とは、最初から犯罪なのです。どちらかで罪に問われる性質のものなのであり、政党助成金制度を設けながらも、こういうものを残しておいたということが問題だったのです。
検察が「政党助成金があるのだから企業献金は政治資金規正法違反で罪に問うべきだ」と考えるのは、ですから一理あります。しかし繰り返しますが、検察は「自分たちが動かなければ日本国家はダメになる」という歪んだエリート意識で官僚権力を強化しようとしています。すでに見たように、官僚権力による上からの国家統制もまたファシズムの一形態です。すなわち、民主党と官僚の戦いとは、二つのファシストの争いなのです。どちらが勝っても暗いシナリオしかありません。
〔社会の力を強化せよ〕
そこで最後に、では我々はどうすべきかを考えましょう。
民主党ファショと官僚ファショ、いずれも共通するのは、世の中は自分たちの設計どおりに作ることができるのだという構築主義です。戦前、二・二六事件で決起した皇道派の青年将校たちは処刑されましたが、その代わりに統制派という勉強秀才型軍事官僚が台頭しました。この時代状況下で書かれたのが『國體の本義』です。官僚が主導して上から国家を束ねるのは日本の國體ではない、と指摘したのです。
戦前の國體明徴連動の中心的思想家の一人であった権藤成卿は農民や青年たちを相手にした座談の中で、こういう意味のことを言っています。「お前たち、金に目が眩んだな。米と野菜を作っていればよかったのに、養蚕が儲かるというので養蚕に走った。そのおかげで、経済がガタンときたらお前たちの生活もガタンとなってしまった。資本主義経済に狂奔した自分たちのことを少し反省したらどうだ。それから、政治家は汚い、政治家は腐っていると言うが、その政治家を選んだのはお前たちではないか。けしからん人間を選んだ自分たちの責任を棚に上げてけしからんと言う方がけしからん」、こう言うとある青年が「いや、そうは言っても、軍人はキレイですよ。軍人になんとかしてもらうべきでしょう」と反論する。すると、「何を言っている。政治家や財界が汚いのと同じくらい軍人も汚いんだ」と言い返すのです。
時代は二・二六(昭和11年・1936年)の直後の頃ですが、日本が本格的に戦争をしたのは日露戦争(1904年)が最後です。第一次大戦に参戦してはいますが、戦いらしい戦いはほとんどない。つまり、この頃の軍人というのは戦争を知らない世代が多くなっていたのです。もちろん演習もありますが、軍人も官僚機構ですから、ペーパーを作るのが上手な人間が出世していく。権藤成卿は軍部の本質が官僚だということを見抜いていたので、「官僚に世直しを任せてはいけない」と喝破したのです。官僚ではなく、われわれ、民衆の力を信じなければならないとしたのです。われわれは、米を作り、野菜を作り、魚を採り、そうして自分の生活を維持していく能力を持っている。その基本を忘れて金融資本主義に流されてはいけない、ものを作り出すという農業の思想に立ち戻るという、農本主義を唱えたわけです。
民主党と官僚との戦いは横目で眺めながら、われわれは社会の力を強化しなければなりません。それは、君民共治の我が國體の本義に立ち返るということです。それは、民主党、官僚とは別の第三極ということではありません。民主党であろうが官僚であろうが、彼らを成立せしめている本当の基盤はわれわれなのです。日本国家の根幹は、生産し、相互に扶助する共同体にあるのです。そのことにまずわれわれが気づく事が大事なのです。以上が、現在私が考えていることです。p-41
(質疑応答等省略・文責 本誌編集部)
【転載終了】
〔参考〕
●月刊日本編集部ブログ
http://gekkan-nippon.at.webry.info/theme/f8d87a0196.html
植草一秀氏も投稿されていて、素晴らしい記事が目白押しです。
電話03-5211-0096
FAX 03-5211-0097
e-mail▸gekkan.nippon@gmail.com
〔コメント〕
主権者は政治家でもなく官僚でもなく、納税者であるわれわれ国民です。
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