投稿者 ajax 日時 2010 年 3 月 23 日 21:50:39: yTkS8tBuN9lVU
ほどなく、中島岳志さんと僕が「右翼の本質」と「保守の本質」の差異について語り合った長い対談が、中島さんを軸とした対談集に収録されます。事前宣伝にかえて、宮台の一発言だけ抜粋します。
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宮台 これも重い話ですが、九五年から九六年にかけて日米安保見直し協議と日米安保共同声明があり、周辺事態法&有事法制スキームが出てきたんですが、なぜ右翼がこれに反対しないのかが不可解でした。「何が起こっているのかわかってねえのかよ」と思いました。でも当時のぼくは援交少女のフィールドワークの最中でしたし、ぼくが発言せずとも誰かが声を上げるだろうと傍観していました。
ところが、九九年の第一四五回通常国会で、国旗国歌保安や盗聴法案や周辺事態法案などが出てきたとき、左翼が「国家権力の肥大化だ」などと言い出したので、さすがに仰天したんです。「馬鹿をほざくな、これは国家権力の弱体化なんだよ」と。
昔の亜細亜主義者がみれば、政治家・官僚・民間企業を含めて「亡国の徒」がペンペン草も生えないぐらいにまで国をむしり取ろうとしている状況が生まれていたんです。具体的に云えば、「いざとなったら米国に守ってもらうしかないので、対米追従しかない」という口実を使って、自らの権益を最大化しようとする売国奴が跋扈していたわけです。
これは国家を簒奪するゲームですから、これを国家権力の肥大だの横暴だのと言う奴は、本当のトンマだと思ったんです。そうした鬱屈感情が九九年に爆発して、左翼の集会などに出かけて「トンチンカンなこと言ってるんじゃない」って話をするんですが、通じない(笑)。こりゃ相当まずいなと思ったわけです。
ちなみに、知らない人のために言うと、ぼくが二八歳のときに書いた博士論文『権力の予期理論』(勁草書房)は、国家権力構造の数理的記述という壮大な目標を掲げたもので、ぼくの研究の出発点は、国家研究や権力研究だったんです。その後、サブカルチャー研究から性愛フィールドワークに転じたので、ぼくが転向したように思う方が多いようですね。
話を戻すと、当時の妻だった速水由紀子氏が、鬱屈したぼくの姿を見て、一〇年以上後に書く予定だった宗教の話を書いたほうがいいと勧めてきました。たぶん「社会に投企する理由は、社会自体にはない」という僕の感覚が、宗教的だと思ったんだと思います。ぼくは早すぎるとは思いましたが、学術的な話はせずに、ぼく自身の体験をベースにして語るならばいいだろうと思いました。
学術的な話はしないものの、折口信夫や三島由紀夫や保田與重郎が強い関心を寄せた初期ギリシアの感受性や行為態度を、初期ギリシアという言葉や、ディオゲネスとかアリスティッポスという人名を出さずに、ちゃんと説明できるかどうかチャレンジしようと考えました。というのは、現代哲学者が、哲学史や哲学者を持ち出すから逆に伝わらなくなるんじゃないかと思ったからです。
ぼくの考えでは、右翼の本質は主意主義です。初期ギリシアの思想は主意主義の出発点で、スコラ神学を通じて社会思想へと継承されました。初期ギリシアの思想が理解できないということは、右翼の本質が分からないということを意味します。実は「初期ギリシア」という名称に意味があるのでなく、「セム族的な唯一絶対神信仰に対抗するべく、絶対神を否定してパンテオンを持ち出す立場」という構造的対立に意味があるんですよ。
「絶対神を否定してパンテオンを持ち出す立場」は紀元前8世紀のホメロス叙事詩の時代以前の「暗黒の四百年」を語り継ぐべくあるもので、「絶対神への依存」にかえて「不条理への開かれ」と「凄い者への感染」を持ち出します。社会意識論的には、この立場は、当時の都市国家における重装歩兵の集団密集戦法(ファランクス)と整合するものです。
この考えへの感染は、ぼくが二十歳代でアウェアネス・トレーニングに関心を寄せていた時代からのもので、個人的な実存からいうと「情動の連鎖」や「根源的衝動」に関係します。一つのきっかけは、鈴木邦男氏の『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書、一九七五年)を刊行後四、五年たって(八〇年ごろに)読んだことで、この人は本当の右翼だなと思ったんですね。
鈴木邦男氏自身も「情動の連鎖」という言葉を使っていました。よど号ハイジャック事件に触発されて三島由紀夫が決起し、三島の決起にうながされて反日武装戦線〈狼〉が決起し、反日武装戦線〈狼〉の決起にうながされて野村秋介が経団連襲撃に決起して、という風にピンポンするありさまを「情動の連鎖」と呼んだんです。意気に感じることですよ。
鈴木邦男氏が書いていることこそ初期ギリシア的な構えの本質です。ここにこそ右翼の本質があります。ところが彼が書いたことに誰も注目しない。右翼も古代ギリシア研究者も注目しない。おかしいでしょう。だからぼくはのちに、この本の新装版の解説を書いたんです。これは『援交から天皇へ』(朝日文庫)という拙著に収録されています。
ぼくに言わせれば、こうしたことは思想的常識に属すると思います。資本主義を肯定するか否かは左右対立に関係ない。戦前右翼はほぼ例外なく資本主義を否定していました。再配分を肯定するか否かも左右対立に関係ない。北一輝や石原莞爾は再配分主義者でした。天皇主義か否かも左右対立に関係ない。昭和ファシズムを駆動した日蓮主義者は天皇を道具として使おうとする者でした。資本主義とか再配分とか天皇とかとは関係ないんです。
こういう思想的常識を弁えない者が、自称他称で右だ左だのというのは、単なる馬鹿のタワゴトです。ミメーシス(感染的摸倣=情動の連鎖)ならびに、ミメーシスを可能ならしめる社会的文脈の保全に、強くコミットメントする、自身がミメーシスによって駆動される存在が、真の右翼です。これを思想史に言及せずに書くと『サイファ』になります。
ただ『サイファ』を書いた2000年の段階だと、思想史に言及して「真の右翼」について語ると、誤解されて危険なんじゃないかと思っていました。今思えば、書き方がわかっていなかったのが大きい。相手(速水)の問いに答える形でなら、辛うじて書けるんじゃないかと思っていました。「やむにやまれず」とか「意気に感じて」とか、昔のヤクザ映画好きなら一瞬で痺れてしまう大衆芸能的なモチーフを、もう少し高尚な形で(笑)もっともらしく推奨できるんじゃないかと思ったんです。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=860
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