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日本人は、核再持ち込みに関する「密約」の「密使」若泉敬氏から学ばなければいけない。(ふじふじのフィルター) http://www.asyura2.com/10/senkyo82/msg/705.html
3月9日に、岡田克也外相から密約の検証を委嘱された有識者委員会(座長=北岡伸一・東大大学院教授)が、日米関係に絡む四つの密約についての報告書を出した。 四つの密約とは、下記である。 (1)核持ち込みに関する「密約」(1960 年1 月の安保条約改定時) 委員会はこのうち(1)(2)(4)の3つを密約と認めたが、69年に交わされたとされる(3)有事の際の核再持ち込みに関する「密約」については、政府内で引き継ぎがされていなかったため「必ずしも密約とは言えない」と結論付けた。岡田外相は報告後の記者会見で「個人的には、核の再持ち込みこそ密約だと思う」と述べた。 外務省は、(3)有事の際の核持ち込みに関する「密約」については、佐藤首相と「密使」がした密約であり、外務省としては当方がした密約でないから関知せずということで、判断を逃げたということだと思う。
岡田外相や外務官僚や有識者委員会に苦情の一つもいいつつ、3月19日発売週刊朝日に、有識者委員会の報告で無碍な扱いを受けた(3)有事の際の核持ち込みに関する「密約」のシナリオを考えだした若泉敬氏のことが紹介されているので、若泉氏について少々ここでも紹介したい。
1967年、若泉氏は、米国防長官マクナマラとの単独会見記を「中央公論」に発表するなど、米ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)への留学時代に培った人脈を見込まれ、総理の意を受けた福田赳夫自民党幹事長から、「沖縄問題の件で、アメリカ最高首脳部の意向打診」を要請される。これから、家族や同僚などにも察知されてはいけない「密使」としての役割をひき受けることになる。 若泉氏(偽名「ヨシダ」)は、米側の交渉相手である米大統領補佐官のキッシンジャー(偽名「ジョーンズ」)との壮絶な交渉の末、次の文言を盛り込むことで合意した。 日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要を満たすであろう 「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年9 月30日、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官より、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された。1969年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、同年11月19日(米国時間)佐藤・ニクソン会談で3年後の沖縄返還が決定されることとなった。 1969年11月の日米首脳会談の最後に、大統領執務室に隣接する小部屋に美術品を鑑賞するとして通訳を除いて、佐藤首相とニクソン大統領の二人だけで入り、秘密の合意議事録に署名、それぞれ1通ずつ保管する。これが、(3)有事の際の核再持ち込みに関する「密約」である。 この密約を知っている人物は、日本側(佐藤首相と若泉氏)米側(ニクソン大統領とキッシンジャー)の計4名。若泉氏は、この小部屋の紙の取り扱いに対して厳重注意を佐藤首相に促しているが、佐藤首相は、処置したと答えている。しかし、首相退任後に持ち帰った執務机から出てきた。こういう経緯であるから、日本側としては、佐藤氏だけが抱えていた秘密に違いなく、外務省に引き継がれていないのは確かだだろう。 佐藤首相は、「核再持ち込みの密約」をして沖縄返還にこぎつけたわけで、「核抜き本土並み返還」は大ウソだったが、非核三原則が評価されノーベル平和賞を授与していい調子だった。それに引き比べ、「密使」を引き受けた若泉敬氏の苦悩は大きかった。1980年50歳で故郷福井県鯖江へ隠遁し、密約交渉経緯の執筆に入る。1994年、628ページに及ぶ「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を完成し世に出した。ということは、なんと、14年もかけて書き上げている。奥様は、弁護士として福井と東京を往復する激務にてか、隠遁5年後にお亡くなりになる。 国のトップが密約を交わし、日本国民を騙して沖縄返還にこぎつけたわけだが、この密約を考えだしたことは、国民、特に沖縄県民への裏切り行為であろうし、また、国家の秘密となってしまったことを本に表すことは、国家に対する裏切りににもなるわけで、若泉氏は苦悩したようである。しかし、国家の秘密を暴くことの方に義を見出したのだと思う。国賊となるのを覚悟して。 しかし、世間の関心は、もっぱらバブル経済崩壊にあったようで、出版後の反応は冷ややかだったとのこと。羽田孜首相(当時)は、「核密約はありません」とのコメントで一蹴。証人喚問はおろか、国会でもほとんど審議されなかった。国の根幹にかかわる安全保障の問題を渾身の本に書き下ろし出版したにもかかわらず、世間から顧みられなかったことの落胆はさぞかし大きかったことだろう。 しかし、学者としての若泉氏の苦悩は、そこにあるのではなく、 学生時代からの友人池田富士夫氏が、 《沖縄返還交渉を通じて、米国の世界戦略の機密の真実を知ってしまった。それを承知の上でなお国際政治学者として「核と安全保障」を論ずる資格はない》 と、若泉氏の心中に思いを馳せていたが、ここにあるのだろうと思う。
ある米国学者は「日本人と安全保障の議論をするのは止めよう。彼らは安全保障論の本質は全く理解できない。この議論を続けると、安全保障面では日本人は猿みたいだと言わざるを得なくなる」という議論を堂々と展開していた。(日米同盟の正体から)
http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/39-9626.html
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