22. 2010年3月16日 18:46:13 わたしが初めて「官僚マスコミ独裁」を実感したのは1998年のことです。 以来新聞が社会の木鐸だとか、官僚が優秀だなど、自分がぼんやりと感じていた既成観念は破り捨てられました。メディアは平気で嘘をつくし、国民に対してトラップを仕掛ける、という実態が知れたのです。 阿修羅の掲示板タイトルではありませんが、「誰によって」とか「なぜ今」などなど、自ら深く実態を見つめていかないと、ことの実相はつかめません。小さな一事件に関して特定のメディアが偏向的な報道をするならまだしも、今回のように政権の選択という国民の一大事業に対してでさえ、大手メディアが偏向報道はもとより、法を逸脱した行為を繰り返すことは、それ自体が現代国家として危惧すべきことです。わたしは静かな、けれども強い憤りを感じています。 1998年は第二次橋本内閣から小渕恵三内閣へと、自民党政権が継承された年でした。北野たけし氏が、小渕内閣を称して「海の家のラーメン=食ってみたら案外うまかった」などと持ち上げていたのを記憶しています。 「どこがうまいのやら・・・?」 政策の議論ではなく、テレビ映りや言葉尻の問題なのでしょう。 そういえば小泉元首相のときも、林真理子氏がこんなレベルで盛んに持ち上げていましたっけ。 電波芸者と揶揄する書き込みをたまに見かけますが、肯けます。 しかも政治や政策に直する場面ではなく、バラエティーやエッセーに紛れ込ませるもんですから、いよいよ質が悪いのです。自ら真実を求めようとしない人々には、うってつけの印象操作になります。 現下でいえば、生粋のマネタリストを自認していた舛添要一氏を厚労省の不正に対して孤軍奮闘した大衆正義漢に仕立て上げた、といったところでしょうか? 要するに、舛添氏でも小池氏でも誰でもいいのです。 具体的なことをベラベラ喋らず、「米百俵」の如き稚拙な観念論に始終でき、私設秘書よりスタイリストを重宝するような人間であれば、メディアは大歓迎なのでしょう。 これから書こうと思ったら、ついつい感情が先走ってしまい、話が横に流れてしまいました。すみません。 本題に戻ります。 当時はバブルが弾けて久しく、大手銀行の処理方法について社会の関心が集中していた時代でした。都銀の一角であった北海道拓殖銀行の倒産から始まって、四大証券のひとつであった山一証券が、野沢社長のあのテレビ会見をもって自主廃業に至りました。世間の人々は、まだまだ続くのでは、とか、次はどこか・・・と疑心暗鬼で、金融システムの安定に懸念が抱かれていた時代です。 こういった経済背景を受けて、政府自民党はこの年に金融再生法案を可決し、銀行の一時国有化>経営の健全化>民営化(資本の再譲渡)のシナリオにより、「メガバンクは潰さない」ことの意思表示を明確にし、これにより金融システム全体の安定を図ろうとしました。新聞の論調の中には、個別企業の救済の是非や救済のために巨額の税金が投入されることなどが議論されたふしはありますが、「社会インフラとしての金融システム保全」という命題が勝り、これらの政策は既定路線だったように感じます。 わたしは当時その業界の末席にあって実務を担当していました。 といっても、植草一秀さんのように大局から金融政策を論じられる位置ではなく、個別企業の個別案件について、契約やら報告やらを末端で担っていたにすぎません。それでも、大手銀行とその系列ノンバンクにまたがった不良資産の実態は、一般の方より肌身で知っていましたから、金融業界全体に横たわる不良資産問題に対して、政府はどういう対処が取れるのか、強い関心がありました。 そもそも商業銀行業務というのは、1%にも満たない預貸金の利鞘で成立している事業ですから、仮に20%や30%の不良資産がバランスシートに含まれていると判断されたら、その時点で社会から信用を失い、業務破綻します。しかしながら、これはどんな企業でも言えることですが、貸借対照表や損益計算書といった、いわゆる決算書で会社が潰れることはありません。 キャッシュフローが不足して、初めて会社は倒産するのです。 仮に預貸金全体を100、そのうち利息を生む資産を80、生まない不良資産を20と仮定します。預金者への支払原価を1%、貸金利回りを2%とすれば、収入80元本×2%=1.6に対して支払原価は100元本×1%=1.0ですから、差引0.6の粗利益となり、ここから会社経費を差し引いても決して潰れないのです。 不稼働資産の割合を30%としても粗利益0.4は残りますから、これでも銀行は潰れません。 ところがこの銀行が潰れないための想定には、重要な前提が必要になります。 それは預金者が元本解約を申し出ないことです。 なぜなら仮に0.6の粗利益が計上されても、元本100のうち1でも解約があればその時点でキャッシュフローがマイナスとなり破綻してしまうからです。通常であれば、1の解約に対して1の新規預入を獲得したり1の貸出を回収すれば済む話です。また短期的には、インターバンクという銀行間で資金融通するシステムがありますから、銀行業務全般に不安はありません。 しかしながら「どこどこの銀行は危ない」などの評価なり憶測なりがひとたび表沙汰となれば、預金者からの解約は殺到し、従来は機能していたインターバンクという融通システムも不全となり、その銀行は倒産するほか道はなくなるのです。 ですから銀行や監督省庁にとって、信用不安は細心の注意を払わなければならないテーマなのです。会計基準やBIS基準の変更が頻繁に耳にされると思いますが、それらは、決算情報を予定調和の範囲に落とし込むための作業であって、ひいては信用不安を惹起しないための手段です。 平時の特異な1銀行の問題であれば、日銀特融という救済措置も考えられますが、当時は1銀行というより銀行界全体に問題がまたがっていましたから、信用不安を起こさないために政府が金融再生法案により銀行を潰さない姿勢を示したことは、的を射た政策だったように感じていました。 もちろん、どこどことどこどこの銀行は潰し、オーバーバンキングといわれていた業界全体を淘汰する方法もありえたでしょう。それでもデフォルトを次々にを起こした際の、個別預金の対処方法の問題や社会全体の損失を予測すれば、もっとも穏当な方法だったのだと思います。 長くなりましたが、ここからが私の驚いた事実です。 わたしは当時個別の貸出について交渉やら付替えやら報告やらに追われていましたから、これが異常な事態であることは理解していましたが、国家全体として、一体いくらの不良資産がどの程度ごとに分類され、国家資産、収入、通貨供給量との対比でどうすれば再構築できるのか、はたまたできないレベルにまで至っているのか、できないとすればどういうことになるのか、というグランドデザインについて非常に関心がありました。 大蔵省や政府日銀は、各行から不良資産分類については特に詳しく資料を集めていましたから、当然全体像は把握していたはずです。が、現在の米国デリバティブ金融情勢と同じく、金額に基づく詳細のレポートが公表されることはありません。そして政府介入により金融システムを保全する旨の法案が決議され、その第一号案件に日本長期信用銀行が選定されたのです。 B層の自分としては、全体像が見えない中でもやもやした気分は拭えませんでしたが、銀行を潰さない選択がベストとはいえないまでもベターな選択肢だと感じていたことや、政府が国有化後に生じる損失について巨額の国費投入を決定したことで、根拠は脆弱ですが、官僚に対する信頼も当時はあり、金融不安は解消すると直感しました。 ならばあとは、この長銀が誰に、不良資産の査定をどのようにして、政府(国民)負担はいくらで、売却できるのか、だけの問題です。 正直今となっては恥じ入るばかりですが、さすが日本の官僚は優秀だ、民間企業が調子に乗ってどんどん増やした焦げ付きを国家大義で直してくれる、などと感じていました。 (当時はバブルの形成も崩壊も、政府日銀の金融政策や窓口指導で人為的に作り出すことができるなどとは、思ってもいませんでした) しかしながら、長銀の国有化から再譲渡に関する取り組みに関して、あまりに具体的な報道がなされないまま進んでいったのです。 わたしが一番知りたかったのは、企業売買や投資がおこなわれるときに実施されるデューデリジェンスという、被買収企業側の厳密な資産査定の情報だったのですが、結果はもとより、過程やその方法についても、全く情報が出てきません。 企業売買や投資がおこなわれるときに、対象企業の事業力を評価することは外見的にも可能ですが、資産査定をする場合は、相手の内部情報に基づいて、帳簿から契約書の隅々まで査定しない限り、企業価値などそもそも算定できないのです。 法人や個人を問わず、価値の知れないものを、わざわざ金を払って買う人間などいるのでしょうか? わたしなら、本当に信頼できる人に「気に入らなかったら全額返すから、あまり考えずに買ってみな」とでも言われない限り、金を支払うことはあり得ません。それも、相当に信頼できる人間に限ってのことですが。 拙い例えですが、 今回の長銀再譲渡に関しては、その時点で顕在化していない不良資産をどう評価して、新しい買い手と、売り手である日本政府(=税金)がどんな割合で負担しなくてはならないのか、が最大の焦点であることは容易に理解されると思います。 にもかかわらず、長銀に一体いくらの価値があるのかさえ判然としないまま、売り買いしようとしているかの報道でした。 当時専門紙であったはずの日経新聞でさえ、「外資によるインベストメントバンキング業務の強化を」とか「日本勢は新規投資するマインドにない」とか「利鞘の薄いマーチャントバンキング業務の改善、金融工学手法に見習え」などといった趣旨の、大学生程度の作文記事しか発信しません。 この辺りから、何かおかしい、と感じ始めました。 確かに日本の銀行勢は自分のことで手いっぱいなのは容易に推察できますし、よほどいい条件でなければ新たな不良資産を増やすだけだ、ぐらいの気持ちだったでしょう。昔の護送船団方式にお付き合いすれば、大蔵省がご褒美をくれた時代はとっくに過ぎたのかもしれません。 ならば報道にある通り、大蔵官僚は外資を抱き込んで、やつらに日本の負担をかぶせるつもりなのか? 本当に強かな欧米金融家をだますぐらいの交渉力が日本の役人にあるのか? だとすれば、彼らは本当に切れ者だ。 などと、ひとり思い耽っているうち、周知のとおり、リップルウッドへの再譲渡が成立しました。 それから確か2日か3日しか経たない頃だったと記憶していますが、唐突に、日経新聞に「瑕疵担保責任条項」なる言葉を初めて発見しました。 今回の譲渡契約に際しては、その不良資産を現状では査定しきれない部分も多いので、向こう二年間において、譲渡した貸付金債権が不良資産となったような場合には、譲渡側である日本政府がそれを瑕疵と認め、譲受側であるリップルウッドに支払保証する、という旨の特約条項を付していたというのです。 何ということか! 官僚マスコミ独裁主権がが交渉していたのは、欧米金融資本家ではなく、日本国民だったのです。 金貸しなどという事業は、貸し倒れの怖ささえなければ、こんなに楽な商売はありません。 「支払のふらついている債務者がいれば、金利の減免などせずに、逆に追加担保の請求でもして音を上げさせればいい。そうしたら、親方日の丸に満額面倒を見てもらえる」というような具合です。 事前にこの特約条項の件が漏れれば、世論が紛糾して、まとまるものもまとまらなかっただろうという論調が記載されていましたが、そんなものがなんのイクスキューズになるのでしょうか。どう考えても、国民負担の議論とその先に潜む受益者の存在を隠蔽するための報道規制だったとしか、わたしには映りません。 その後は周知の通り、膿をすべて削ぎ落とした長銀=後の新生銀行が上場し、外資は莫大なキャピタルゲインを享受したのです。 もちろんその裏では、日本国民がその何十倍も上をいく莫大な国費負担を強いられたことは言うまでもありません。 こう記すと、あくまで結果論であったような錯覚にも陥りますが、瑕疵担保責任条項が非公表だった事実をして、売国奴の薄汚い精神と小賢しいシナリオの当然の帰趨だったとしか、わたしには思えません。 これに味をしめた既成勢力は、続いて「りそな銀行疑惑」や「郵政民営化問題」を引き起こすのですが、これらはまだ記憶に新しい事件ですし、死者も少なからず出ているような問題ですから、新政権には、是非、小泉俊明氏との質疑応答でもあった通り、まず過去を丹念に検証する作業から始めて、未来を語ってもらいたいと切望します。
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