投稿者 鷹眼乃見物 日時 2010 年 3 月 12 日 07:41:49: YqqS.BdzuYk56
日本経済新聞社の経営危機についての妄想
(注記)お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100311
[芸術の価値] 「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの現代的意味(改訂版‐2/3)
(プロローグ)
『啓蒙と は人間が自 分のせいでとどまっている未成年(未成熟) 状態から脱却することである』(イマニュエル・カント)
…これは、フ ランス革命が勃発するより前にイマニュエル・カントが与えた啓蒙の定義。それは「他者(規則・法制などの 変革、新たな政治権力の 誕生)に導かれるより前に、自分の知力を使うことができない状態から自力で脱却・脱出すべき」ことを意味する。現代社会で、 これを支えるのがマス・メディアの本来の役割のはずであったが、日本のマスメディアが“ジャーナリズム精神と経営の 両面”で惨憺たる状態であることは周知のとおり。
…このような観点からすると「カルト同然の前政権絡み(現代日本版アンシャンレジーム)の呪縛」(既得権益勢力の橋頭保たる“検察・司法&主要メディア&自民党&高級官僚&et al”の癒着)下で過半の国民がイマニュエル・カントが言うところの盲目or痴呆状態に嵌っている現代日本の政治状況は『啓蒙』以前の幼稚かつ無知なレベルだと言える。
…遂に、日本経済の水先案内を自負してきた日本経済新聞が「2期連続大幅減益、部数増でも赤字転落の危機」の窮地に立たされており(http://www.toyokeizai.net/business/strategy/detail/AC/ffec976f5e4906b855d6f4938ab8798a/ )、その指南役自身が平衡感覚を失ったようだ(参照、下記ツイッター情報)。
tyokuondo 2010.03.11 14:21 (爆) RT @hanachancause RT @tabbata: 自分ところが赤字の新聞に、他社の企業戦略をアレコレ論じてもらいたくないね。RT @shintaro_jp: 日経新聞初の赤字計上 09年12月期決算 http://www.j-cast.com/2010/03/10061974.html
hanachancause 2010.03.11 17:19 @hanachancause 今や金融規制の世界大合唱だが今こそ金融市場完全自由化をせよ、さすれば、資産効果で必ず景気も上向く!! ←日経3/11 … 遂に日経も自社赤字決算ショックで痴呆化したか?
hanachancause 2010.03.11 16:33 購読数と広告料規模の確保が至難かも? RT @jh8bss: .@hanachancause 電子新聞を楽しみにしていた一人でしたが・・・RT電子新聞も挫折? *Tw*
・・・かなりの前宣伝でスタートした日経電子新聞も、決め手は「予約申込数」(電子新聞購読者数がどこまで伸びるか疑問?)と「広告料規模の確保」(広告料が紙媒体に比べ格段に低くなる)という、まるでエベレスト山脈のような巨大に聳え立つ二つの壁があり、先行きは全く読めないというのが現実だ。
・・・例えば、これは“電子”新聞ではないが、昨夏から先行開始していた「産経新聞「WEB面」(産経新聞の誌面ネット無料開放・・・申込手続が必要、http://ascii.jp/elem/000/000/443/443445/ )も予想外に申込者数が少ないという伝聞情報(せいぜい数千件程度?)があるうえ、肝心の紙版の販売数増加の波及効果も殆ど見られない様子だ。
・・・それだけではない、朝日・毎日・読売各紙および民放テレビ各社(キー局、地方民放各社/赤坂不動産の別称があるTBSは除く)の経営(決算)が今や悲惨な状態にあることも周知のとおりだが、これら主要メディの経営危機は必ずしもネット-Web(IT技術)や経済不況の影響だけではないことが明らかとなりつつある。
・・・共通原因と考えられるのは、主要メディア各社自身が「コンテンツ・バリューの創出=優れた事実情報を自らの努力で収集・編集し、国家の主権者たる市民の目線で正しいニュースと調査報道を実行する」という基本を忘却してきたこと、そのため「新しい本格的な変化の時代に備えてメディア自身が根底から変革する自立(or律)への努力を避けてきた」こと、そして「従来から存在する現実の流れに流されるまま、長期自民党政権が仕込んできた既得権益グループの一員として身を任せるままにしている」ことだ。
・・・このような、各社横並びの一種の『墓穴掘り&自業自得型経営』に対しては、主要メディアのデカダンス(退廃現象)とでも呼ぶ以外には名づけようがない。そして、その典型事例が最早一年以上にも及びなんなんとする、民主党政権の実現阻止と政権交代後の民主党政権潰し(民主党支持率低下のための共同戦線)に血道をあげてきたことだ。それ故にこそ、主要メディア改革の第一歩が、先ず「世界でも稀な記者クラブ制度」の廃止であることを肝に銘ずるべきだ。
第二章 初期ヴェネツィア派の誕生
(ヴェネチア派、事実上の開祖アントニオ・ヴィバリーニ)
【画像1】アントニオ・ヴィヴァリーニ『玉座の聖母子と聖者たち』1446 [f:id:toxandoria:20100311225328j:image]Antonio Vivarini(ca.1415-76or84)「Triptych」Tempera on canvas 339×200cm(central) 、339×138cm(each side) Gallerie dell' Accademia Venice Italy
15世紀ルネッサンス期以降に最盛期を迎えるヴェネツィア派絵画の歴史はヤコポ・ベッリーニ(Jacopo Bellini/ca1400-ca1470)を開祖とするのが一般的な説明である。しかし、この初期ヴェネツィア派の時代で忘れることのできないのがムラーノ島に工房を構えたアントニオ・ヴィバリーニ(Antonio Vivarini/ca1415-1476/85?)とムラーノ島出身のカルロ・クリヴェリ(Carlo Crivelli/ca1430-1493/1500?)の二人だ。
アントニオ・ヴィバリーニは、いわゆるムラーノの一族で形成される画家集団「ヴィヴァリーニ派」で最初に登場する人物だ。また、アントニオ・ヴィバリーニは、「国際ゴシック様式」(参照、http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/G/Gothic/Interna.htm の記述)を代表する画家であるジェンテーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano/ca1370-1427)とピサネッロ(Pisanello/ca1395-1455)の影響を受けたと考えられる。
しかし、アントニオ・ヴィバリーニは、その代表作とされる『玉座の聖母子と聖者たち』の前に立った体験のある鑑賞者なら、その独特の豊かな人物描写の色彩感覚から誰でも納得できることなのだが、国際ゴシック様式の末期における未だに中世的な描写から既に抜け出ていたという意味で紛れもない“ヴェネチア派”の画家であった。
この絵は、もともとヴェネチアのカリタ修道院(その一部が現在のアカデミア美術館)のための祭壇画として描かれたものである。画面の中央部分を大きく占めて金色に輝くマリアの玉座と装飾的で美しく、しかも右手からの射光が室内空間で乱反射しつつ共鳴し合うような繊細きわまりない静謐な細部描写を見る限り国際ゴシック様式に特有のスタティック(形式的、固定的)な装飾表現が未だに残っている。また、線遠近法を無視した人物像の配置によってもゴシックの残滓を強く意識させられる。
しかしながら、一方で玉座の上に掲げられた天蓋の支柱を支える4人の天使の仕種と表情は語らいながら街をそぞろ歩きする現代少女たちのようであり、何にもまして、幼児キリストをしっかり左手で押さえる聖母マリアの表情は柔らかな丸みを帯びた若い母親のものとなっており、しかも聖母子の顔には明るい光が射し込んでいる。
また、画面の右側には豪奢な衣装を身に着けた教父アンブロシウスと聖アウグスティヌスが、左側には聖ヒエロニムスと聖グレゴリウスが立っているが、彼らの相貌もゴシック様式のそれと比べればより人間的で、それぞれ個性的な表情を見せている。そして、このように人間的で生きいきした人物たちの周囲には煌くような色彩が、まさに妖しく限りなく微細な光の反映を繰り返すさざ波のような「ヴェネツィアの色彩」が満ちている。
(イエスの愛を人間的色彩で描いた天才画家カルロ・クリヴェリ)
【画像2】カルロ・クリヴェリ『受胎告知』 [f:id:toxandoria:20100311225329j:image]Carlo Crivelli(1430-1495)「Annunciation with St. Emidius」1486 Oil on wood translated canvas 207×146.5cm National Gallery 、London
【画像3】カルロ・クリヴェリ『Maria Magdalera』 [f:id:toxandoria:20100311225330j:image] Carlo Crivelli(1430-1495)「Maria Magdalera」ca.1487 Tempera on wood 152×49cm Rijksmuseum Amsterdam 、Netherland
【画像4】ティツィアーノ『悔い改め、マグダラのマリア』 [f:id:toxandoria:20100311225331j:image]Vecellio Tiziano(1476-1576)「Penitent 、Maria Magdalera」 1560s Oil on canvas 119×97cm The Hermitage 、St. Petersburg
同じくムラーノ島出身のカルロ・クリヴェリ(Carlo Crivelli/1430/31?−1493/1500?)は、運命の悪戯から1457年に船乗りの妻を誘惑し姦通罪で6ヶ月の刑を宣告され、彼はムラーノ島を去りパドヴァに移り住むこととなる。そして、そこでクリヴェリは、パドヴァ派の巨匠マンテーニャと出会い、非常に大きな影響をマンテーニャから受けることになる。
<注>マンテーニャ(Andrea Mantegna/1431-1505)
・・・1460年以降はマントヴァ公・ロドヴィコ=ゴンツァーガの宮廷画家となる。フィレンツェの天才彫刻家ドナテッロの影響を受けており、北イタリア初期ルネッサンスで最も優れた画家とされる。
・・・作風の特徴は、荘重さ、明確な描線、解剖学的で彫塑的な人体構成、空間幻覚(イリュージョン効果)の活用、古典・古代美術的な表現など。
・・・初期の代表作がヴェローナのサン・ジェーノ寺院の祭壇画『玉座の聖母および聖者たち』(参照、http://www.abcgallery.com/M/mantegna/mantegna6.html) であり、これは北イタリア美術で扱われた初めての「サクラ・コンベルサツィオーネ」(Sacra Conversazione/聖なる談話)の作例である。
・・・“広い景観を背に聖母が聖者たちと談話する”この集団図像は、15世紀以降、特に北イタリアで好んで描かれるようになり、それは一種の聖母図の典型となった。1474年にマントヴァ宮廷のスポーシ議場(宮廷会議室)(Camera degli Sposi)の壁画を描いたが、ここでは、美術史上で初めてイリュ-ジョン効果を用いる天井画を完成した。それに、この天井画には美術史上で初めての「群像肖像」も見られる。
・・・更に、マンテーニャは銅板画でも優れた仕事(現存する真筆作品は少数だが・・・)をしており、イタリア銅板画ではマンテーニャが大構図を初めて実現した。ドイツ・ルネサンス最大の画家・銅板画家デューラー(Albrecht Duere/1471-1528)もマンテーニャから大きな影響を受けた。
故郷ムラーノ島を長く離れることになったにもかかわらず、パドヴァ派の中でも特にマンテーニャの大きな影響を受けたカルロ・クリヴェリは、ヴェネツィア(ムラーノ島)の個性的な空気と伝統の中で培った感性から極めて特異な個性的画風を作り上げてゆく。そのクリヴェリの傑作の一つとされるのが、板絵からカンヴァスに移して展示されている巨大な『受胎告知』(ロンドン・ナショナルギャラリー)である。
クリヴェリが晩年を過ごしたマルケ地方のアスコーリ(Ascoli Piceno)は、1482年に教皇シクストウス4世(Sixtus 4)から自治権が認められた。たまたま、その知らせが「受胎告知の祝日」(Annunciation Day、3/25)に届いたためそれ以降はサンタ・アヌンツィアータ寺院(Basilica della Santassima Annunziata)へ向かう祝祭の行列行進が行われるようになり、この『受胎告知』はそれから4年後にこの寺のために描かれたとされている。
この絵で、何よりも先ず目を引くのが天空の聖なる雲の渦の中から発した一筋の黄金の光が建物の窓の上の小さな穴を通って一直線にマリアの頭上に向かう光景だ。窓の外では、アスコーリの守護聖人である聖エミディウスが教会の建築模型(立体パース)を抱きながら天使の方を向いてマリアへの告知を促しているように見える。
この主役たちに負けないのが二階の手摺に掛けられた豪奢なオリエントの絨毯、精緻な異国風模様で飾り尽くした壁面、それも異国に住む孔雀やその他の鳥たちで・・・これら画面を満たすエキストラたちはクリヴェリの絵画を不思議な異国風の情緒で満たす。
しかも、これら全ての図像と絵柄はパドヴァ派(マンテーニャ)の影響を受けた研ぎ澄まされた明快な描線と遠近法で合理的で明快な計算に基づく堅牢な構図で描かれている。一方、最大の主人公マリアの姿はどこまでも柔和で慎ましやかで美しく生命力に溢れ、一人の人間として、生活感がある若い女性の姿で表現されている。
色彩面では、長い時間の風化作用による退色を割り引いて見ると、天空から直線的に屋内に射しこむ黄金の光、マリアの衣装の赤と青、建物のフリーズと柱の赤、室内に懸かるカーテンの赤、孔雀と絨毯の華麗な彩色、天使と聖エミディウスの光沢ある贅沢な衣服など、この絵は恰も完成したばかりのように見事な色彩の饗宴だ。また、当時の人々は厳しい遠近法が演出する巧みなイリュージョン効果に目を眩まされ大いに驚いたことであろう。
このようなクリヴェリの鋭い描線と精緻な装飾が並置された鮮やかな色彩と結びつき驚くべきほど個性的で斬新な発色を印象づける作品がアムステルダムのマウリッツ・ハイス美術館に展示されている。それがカルロ・クリヴェリの『マグダラのマリア』(ca1480)である。この作品が非常に小さい(152×49cm)ことは知っていたが、実際にマウリッツ・ハイス美術館で初めてこの絵と対面した瞬間(2006年8月)には矢張り随分と小さな絵だと感じた。ところが、暫く凝視するうちにこの絵の圧倒的な存在感が襲ってきたことを今も覚えている。
この小さな絵は油彩技法の前に普及していたテンペラ(tempera/顔料を膠・卵・樹脂などで練った不透明絵具)で描かれたため、当然のこととして微妙な色調の変化や淡い陰影表現よりも強いくっきりとした描線が目立っている。しかし、ここでクレヴェリの手による豊かなヴェネツィア(ムラーノ)の光(色彩)は強さと繊細さを同時に表現するという奇跡的なイリュージョン効果をもたらしている。
周知のとおり、マグダラのマリアは新約聖書中の福音書(福音書記者によるキリストの言行録)に登場するイエスに従ったとされる女性であるがイエスの死と復活を見届けた証人(人間を代表する証人)であるとともに娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を持つ。
おそらくクリヴェリの『Maria Magdalera』の強烈な存在感は、このマグダラのマリアの両義的で極めて人間的な意味(カルトならぬ神と人間の関係だからこそロングスパンの時代を超えて共有可能な人間社会における実存的リアリズム(=現実)の意味)を初期ヴェネチア派の華麗な色彩美で表現することに成功しているが故かも知れぬ。つまり、そこにはあの『薔薇は理由なく咲く』(アンゲルス・ジレジウス/Angelus Silesius/1624‐1677)の「神+人間」の実存に通じるものが感じられるのだ(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080608 ) 。
(関連参考情報)
『啓蒙とは人間が自分のせいでとどまっている未成年(未成熟)状態から脱却することである』(イマニュエル・カント)
…これは、フランス革命が勃発するより前にイマニュエル・カントが与えた啓蒙の定義。それは「他者(規則・法制などの変革、新たな政治権力の誕生)に導かれるより前に、自分の知力を使うことができない状態から自力で脱却・脱出すべき」ことを意味する。現代社会で、これを支えるのがマス・メディアの本来の役割のはずであったが、日本のマスメディアが“ジャーナリズム精神と経営の両面”で惨憺たる状態であることは周知のとおり。
…このような観点からすると「カルト同然の前政権絡み(現代日本版アンシャンレジーム) の呪縛」(既得権益勢力の橋頭保たる“検察・司法&主要メディア&自民党&高級官僚&et al”の癒着)下で過半の国民がイマニュエル・カントが言うところの盲目or痴呆状態に嵌っている現代日本の政治状況は『啓蒙』以前の幼稚かつ無知なレベルだと言える。
(関連ツイッター情報)
hanachancause 2010.03.11 17:08 RT @satama: 検察は少なくとも1999年まで年間5億円前後の裏金を組織的に作り、幹部の交際費、遊興費に。その事実を全面否認したばかりか、2002年にはその裏金 作りを内部告発していた三井環という中堅幹部を口封じのために逮捕。日本の主要なメディアは報道も批判もしなかった。
hanachancause 2010.03.09 20:46 @hanachancause 【QT】現実は与えられたものであると同時に日々生成され変容するものであるにも関わらず日本では前者の側面のみ強調され即ち現実とは既成事実を意味し現 実的であれとは既成事実に屈服せよの意味になる。⇒http://critic6.blog63.fc2.com/blog-entry-246.html
hanachancause 2010.03.09 18:58 “司法の枠内で正義は貫けぬのが【現実】だから<事実>が捜査記録と異って当然だ、故に各国の政権交代位で【過去を引きずると言う意味での現実】は変わらぬ!”と国際投資銀行の巨魁が、正義漢の主人公IPC捜査官サリンジャーを諭す印象深いシーンがある…現代日本の余りにも異常な“検察・マスゴミ”癒着連合による執拗な民主党叩きを理解するための助けとなる必見の秀作映画?!⇒『ザ・バンク、堕ちた巨像』http://eiga.com/movie/53615/critic/
<注記>
この映画の“社会派リアリズム感覚”に比べれば、見方しだいでは今や全米保守派の期待の星(次期・共和党大統領候補)とまで讃えられるサラ・ペイリン好みの無敵のガンマンが活躍する西部劇にすら見えるとされる一方で、“戦場の狂気”を鮮烈に映像化した優秀作だとして今回のアカデミー賞を受賞したばかりの『ハート・ロッカー(The Hurt Locker)』(イラク駐留米軍・爆弾処理版の危険な任務をリアルに描いたとされる作品、http://www.thehurtlocker-movie.com/ )は<戦争中毒を描いた大いなる駄作>に見えるはずだ。
hanachancause 2010.03.11 17:19 @hanachancause 今や金融規制の世界大合唱だが今こそ金融市場完全自由化をせよ、さすれば、資産効果で必ず景気も上向く!!←日経3/11… 遂に日経も自社赤字決算ショックで痴呆企業化したか?=日本経済新聞社が2期連続大幅減益、部数増でも赤字転落の危機 - 09/02/12 | 12:30、http://www.toyokeizai.net/business/strategy/detail/AC/ffec976f5e4906b855d6f4938ab8798a/
・・・・・
従って、ヴェネツィア派の頂点を極めた巨匠ティツィアーノが、それから約80〜90年後に描いた傑作とされる『マグダラのマリア』(1560年代/四枚目の画像)と比較しても、カルロ・クリヴェリの個性的存在感の表現が劣ることはない。一方、ティツィアーノには高度に洗練された「ヴェネツィアの光」が花咲くような美しさとともに早くもバロック初期への胎動が感じられる。
15〜16世紀のネーデルラント(ベルギー、オランダ)とイタリアの天才画家たちによる、このような試行・工夫・創意が繰り返されながら「ネーデルラント(オランダ)の光」と干渉・共鳴することで新たな生命力を得た「ヴェネツィア(ムラーノ)の光と色彩」は、近世・近代の外光派・色彩派・印象派絵画へと向かう長い道程を辿ることになる。
(エピローグ)
現代における優れたルネサンス研究者の一人と目される英国の女流美術史家リサ・ジャルディ-ヌ( Risa Jardine)は著書『Worldly Goods』(1998 W.W.Norton)の中で、このクリヴェリ『受胎告知』の個性的な表現について次のように述べている。これを採録(部分訳)することで前史を含めたヴェネツィア派の萌芽期における始祖たちへのオマージュとする。
・・・・・・・・・・
・・・前部分、略・・・ 夥しいほど多くの貴重で高価な事物が、マリアが住まう建築物の外まで溢れている。見るからに貴重なものであることがわかる石や陶器製の壷には多くの植物が植栽されており、それらの高価な壷類は回廊の手摺の上に置かれている。右上の回廊の手摺にはオリエンタル風の敷物が掛けられており、それは回廊の外壁に装飾されたテラコッタ製の浮き彫りを部分的に隠している。その敷物の傍にはエキゾティックな孔雀が止まっている。
・・・途中、略・・・ 鳩の棲家だと思われる鳥籠の傍には、陶器製の壷にしつらえたもう一つの植栽が置かれている。遠方のアーチ橋の上では二人の人物がビジネス交渉を行っている。恐らく、彼らは仲買人か外国からやってきたビジネスマンなのであろう。この絵の前景では、神と神に選ばれた者(マリア)との間での精神的な交流(取引)が行われ、遠景の橋の上ではビジネス取引(交流)が行われている。そして、この遠景と前景の“交流・取引”(transaction)が、クリヴェリの絵の中ではイメージ的に共鳴し合い、合わせ鏡のような干渉の作用をもたらす。
・・・途中、略・・・画中のトルコ経由で輸入されたペルシア絨毯は、このような絨毯を取り扱う商人の店先に吊るしてあった実物をモデルに描かれたのかもしれない。より現実的に考えれば、これらの絨毯類は、当地の親切な商人が貸し出した本物のペルシア絨毯を実際にクリヴェリが見て模写したものに違いないし、あるいは、その絨毯を貸してくれたのは、どこかの財産家のパトロンであったかもしれない。今では、このクリヴェリの絵は“ペルシア絨毯の歴史”についての貴重な証拠(記録)として、多くの専門家によって、よく利用されている。
つまり、現在は、このクリヴェリの絵は“絨毯のデザイン”が15世紀頃にどのような変遷を辿ったかを知るための貴重な歴史資料としても知られている。別に言うなら、この絵の中の「ペルシア絨毯」は、「聖母マリアの手と腕」を恰も生きた身体の如く見事に描いた技術と同等の力量をもって画家クリヴェリが細心の精神力を注ぎながら巧みに写し取った『現実』(real)の一部なのだ。
・・・途中、略・・・たとえ専門家のような特別の関心を持たぬとしても、これらの活きいきと描かれた珍しい事物の姿や形、そして豊かな装飾の中に我われの注意力はそっくり吸い込まれそうになる。また、この絵の中では聖母マリアの象徴的属性がリアルに描かれている。例えば、棚に置かれたガラス製品はマリアの受胎の純潔さを表わしている。光そのものの性質を失わぬまま光がクリスタル・ガラスを透過するが如く、聖母マリアは彼女の純潔を失うことなく子(キリスト)を宿したということにある。
・・・途中、略・・・消費財について見ると、クリヴェリのこの恐るべきほど正確な視覚リアリズムによる再現対象は、イタリア半島の物産だけに限られてはいない。聖母マリアの身近には、世界中からあらゆる“ニーズの大きな商品”が集められている。これらの様々な商品と物産は、およそ北フランスあたりからオスマン帝国にまでに及ぶ広域な市場で活躍するイタリア交易商人たちの誇りを物語っている。
例えば、マリアの周囲には次のような物が集まっている。。。イスタンブール経由で入ってきた使い心地がよさそうなペルシア絨毯、部屋に架かっているアラス織りのカーテン、ヴェネツィア産の繊細で洗練されたガラス製品、スペイン半島内イスラム圏からやって来た金属製品、中国産の磁器と絹、ロンドンからやって来た広幅生地(broadcloth)など様々である。15世紀半ば頃までには財力(金銭)さえあれば手に入れることができるようになっていた貴重な日用品の数々を、クリヴェリは細心の配慮を注ぎつつ描いている。
クリヴェリの仕事の多くは、このようにエキゾティックで人々のニーズが大きい物の世界を描くことに費やされている。多くの人々が祝福し支持する当時の貿易商たちのグローバルな交易活動そのものがクレヴェリにとっても実利に結びつくビジネスを提供していた訳だ。
つまり、この初期ルネッサンス時代の欧州には、進取の心意気と経済的野心に溢れた「流通・交易・金融ビジネス活動」と純粋な「人間実存の精神世界」との交流・コミュニケーションが途切れることなく、又ごく自然のこととして日常的に行われていたのである(そして、このようなグローバリズムの原初的で歴史的なイメージの中にこそ、今や混迷の極みへと向かうかに見える資本主義社会の希望の光がフィード・フォワード的に見えてくるのかも知れない ← toxandoria追記 )。・・・後部分、略・・・【エピローグ画像】Lara Fabian - Je suis Malade [http://www.youtube.com/watch?v=bIIL5p7_WKk:movie]
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