★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK81 > 669.html ★阿修羅♪ |
|
遺稿「共産主義の力」――われわれが断固として継承すべきもの ダニエル・ベンサイド (かけはし) http://www.asyura2.com/10/senkyo81/msg/669.html
http://www.jrcl.net/frame100308g.html 純然たる思想でも独断的モデルでもない ここに掲載するのは、おそらくダニエル・ベンサイドの絶筆とも言うべき論文である。ダニエルが三人の編集委員のうちの一人になっている雑誌『コントルタン』の最新号に掲載されたものである。これは、一月二十二日と二十三日に掲載された「共産主義の意味」と題したシンポジウムの一環として準備されたものであり、共産主義の意味に関して集められた一連のエッセイの一部をなすものである。ダニエルはこのシンポジウムを楽しみにしていたのだった。ベンサイドは、この中で、 傷ついた言葉 一八四三年の『大陸における社会改革の進展』と題する論文の中で、若きエンゲルス(まだ23歳にもなっていなかった)は、共産主義を、「近代文明の全般的諸条件から導き出さざるを得ない必然的結論」であるとみなした。これは、要するに、一八三〇年の七月革命によって作り出された論理的必然としての共産主義ということである。七月革命では、労働者は(フランス)「大革命の生きた源泉とそれに関する研究を参照し、バブーフの共産主義を必死に自分のものにした」。 1、解放に関係するさまざまな言葉は前世紀の苦悩から無傷のままでは出て来れなかった。それについては、ラフォンテーヌの寓話の中の動物のように、すべてが死んでしまったわけではないが、すべてが重大な打撃を受けたと言うことができる。しかしながら、社会主義、革命、そしてアナーキーさえも共産主義に比べてよほどましだとはあまり言えない。社会主義は、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの虐殺に、植民地戦争に、広がれば広がるほどその内容が失われていくようになるような連立政府に、加担してきた。その組織的なイデオロギー的キャンペーンは、多くの人々の目には革命を暴力やテロと同一に映らせるような地点にまで達している。だが、偉大な約束や夢を届けた過去のすべての言葉の中で、共産主義という言葉は、官僚的国是に取り込まれてしまい、全体主義的な試みに隷属してしまったために、最も大きなダメージを被った。しかしながら、いぜんとして今なお残り続けている問題は、傷ついたすべての言葉のうちで、共産主義という言葉が修復し再起動させるに値するものかどうかということである。 官僚的専制体制 2、そのためには二十世紀において共産主義にどのような事態が生じたのかを考察する必要がある。この言葉とその言葉が表現するものは、その時代ならびにそれらが受けなければならなかった試練と切り離して把えることはできない。自由市場を促進する中国の強権的国家を指し示すために共産主義というレッテルが大々的に使われるという事態は、大部分の人々の目には、共産主義の理論的、実験的仮説の再生のかすかな萌芽に比べると、はるかに重くてずっと長期間にわたってのしかかる重圧として映っている。それを歴史的、批判的に総括することを避けたいとするその誘惑は、共産主義思想を、あたかもその思想が資本主義時代の解放の特殊な形態ではなくて、公正と解放のあいまいな思想の同義語であるかのように、時代を超えた「不変のもの」に切り縮めることになっている。その結果、この言葉は、それが倫理と哲学の面での拡張を通じて獲得したものを政治的な明確さという面で失っているのである。決定的な問題のひとつはいぜんとして、官僚的専制体制が十月革命の正当な継承であるのか、それとも裁判と粛清と大規模な流刑によってだけでなくソヴィエト国家の社会と機構の一九三〇年代における激変によっても立証されているような官僚的反革命の結果なのか、ということである。 3、命令によって新しい用語集を作り出すことはできない。語彙(ごい)というのは時間をかけて使用を経験を通じて形成されていく。共産主義とスターリニスト的独裁体制とを同一視する誘惑に身を委ねてしまうことは、一時的な勝利者の前に膝を屈することであり、革命と官僚的反革命とを混同することであり、そうすることによって途上にある分岐点において希望に通じる道を予め閉じてしまうことになろう。さらに、そうすることは、熱情を抱いて共産主義思想のために生き、この思想をまがい物にし偽造しようとする試みに反対してこの思想に息吹きを吹き込んできた、無名の人々もそうでない人々も含むすべての敗者に対して取り返しのつかない不正義を犯すことになるだろう。スターリニストであることを辞めたときに共産主義者であることを辞めた者たち、そして自分たちがスターリニストである間だけ共産主義者であった者たち、こうした人たちは恥を知るべきである。 4、下劣な資本主義に代わって必要とされる可能な「もうひとつの世界」についてのいっさいの命名方法の中で、共産主義という言葉は、最大の歴史的な意味と最大の爆発力を秘めた綱領的責任を保持する言葉である。それは、分かち合いと平等の共同性、共同の権力行使、利己主義的な計算や全面的な競争に対置される連帯、人間と自然と文化の共有資産の防衛、全般化された略奪と世界の民営化に対抗するサービスの無料化(非商品化)の領域の生活必需品への拡大、を最もよく思い起こさせる言葉なのである。 5、それはまた、価値法則、商品の価値評価の尺度とは異なるもうひとつの社会的富の尺度についての名称でもある。「自由で歪められていない競争」は、「他人の労働時間の盗み」に依拠している。それは、数量化しえないものを数量化し、人間とその自然的再生産条件との間の比較し得ない関係を抽象的労働時間による惨めな共通尺度に切り縮めようとする。共産主義は、数量的な成長のコースとは質的に異なるエコロジー的な富と発展というもうひとつの基準の名称なのである。資本蓄積の論理は、利潤のための生産を要求するだけではなく、社会的必要ではなくて、「新しい消費の生産」をも、すなわち、「新しい必要の創出」や「新しい使用価値の創出」を通じた消費サイクルの不断の拡大をも要求する。ここから、「自然全体に対する搾取」、「地球に対する全面的な搾取」が起こる。資本がもたらすこの行き過ぎた荒廃は、根本的で急進的なエコ共産主義の今日的意義と根拠を提供している。 生産・交換手段の 6、『共産党宣言』において、共産主義の問題はまず何よりも所有の問題である。共産主義者は、自らの理論を、生産・交換手段の「私的所有の廃止というひと言にまとめることができる――これを個人的使用目的のための個人的所有と混同してはならない」。「これらすべての運動において、共産主義者は、所有の問題を、それがどの程度発展した形態をとっていようとも、運動の根本問題として前面に出す」。『宣言』第二章の結びにある十の方策のうちの七つは所有形態に関するものである。土地所有の収奪、地代を国家の経費にあてること、強度の累進課税の実施、生産・交換手段の相続権の廃止、すべての亡命者および反逆者の財産の没収、ひとつの公立銀行の管轄への信用の集中、交通手段の社会化と万人のための無償の公立教育、国営工場の設立、生産用具の増加、荒廃地の開墾が、それである。 7、共有財産を自分のものへと横領する権利と持たざる者のたちの生存の権利という二つの権利の間で、「裁断を下すのは力である」とマルクスは言った。ドイツ農民戦争からイギリスとフランスの革命を経て前世紀の社会革命に至る階級闘争の全近代史は、この対立の歴史である。対立は、支配者の合法性に対抗することのできる正当性の出現によって解決される。 8、資本の支配のもとでは、表面に現れるすべての進歩には退歩や破壊という正反対のものを伴うことになる。それは「隷属の形態の不断の変化にすぎない」。共産主義は、生産性と通貨という形をとった収益性の思想や基準とは異なるもうひとつの思想と基準を要求する。まず手始めに、拘束労働時間の劇的な削減と労働の概念そのものの変革が必要である。労働者が職場で疎外され損なわれているかぎり、余暇や自由時間で個人が発展して開花することはあり得ないだろう。共産主義の展望はまた、男女間の関係の根本的な変革をも要求する。ジェンダー相互間の経験は他性の最初の経験である。そして、この抑圧関係が存続しているかぎり、文化、肌色、性的嗜好を異にする人は誰であろうと、さまざまな形の差別と抑圧の犠牲者となるだろう。真の前進は、独特に結びつくことによって、それぞれの男女を独自の存在にするような要求の発展と差異化の中に見出すことができる。独自の存在の個性が人間を豊かにすることに貢献するのである。 既存の体制を廃絶 9、『宣言』は共産主義を、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるようなひとつの協同社会(アソシアシオン)である、とみなしている。したがって、共産主義は個人の自由な開花の行動指針として現れるのであって、これを宣伝広告の順応主義に隷属した個性なき個人主義と混同しても、さらには兵営社会主義のお粗末な平等主義的とも混同してはならない。各人に固有の要求や能力の発展は、人類の全般的な発展に貢献する。逆もまた正しい。各人の自由の発展は、万人の自由の発展を意味する。なぜなら、解放はたったひとりだけの楽しみではないからである。 10、共産主義は純然たる思想でも、社会についての独断的なモデルでもない。それは、国家体制の名前ではないし、新しい生産様式の名称でもない。それは、既存の体制をたえず乗り越え―廃絶しようとする運動についての名前である。だが、それは同時に、目的でもある。この目的は、この運動から生まれて来るものであって、運動を導き、原則なき政治や一貫性なき行動やその日その日の場当たり的な対応に反対して、われわれをよりいっそう目的に近づけるものが何であり、目的からわれわれを遠ざけるものが何であるかの判断をわれわれが下せるようにするものでもある。したがって、それは、最悪の事態への最短の道となるであろう「よりましな悪」との妥協とは距離をおくと同時に、目的と手段に関する科学的知識ではなくて、むしろ調整される戦略的仮説である。それは、公正と平等と連帯のもうひとつの世界に関する不屈の夢を、資本主義の時代において既存の体制の打倒を目指す永続的運動を、所有関係と権力関係の根本的変革へとこの運動を導く仮説を、揺るぎない形で形容している。 11、資本主義が陥っている社会的、経済的、エコロジー的、モラル的危機は、人類と地球の両方を脅かしながら、いっそう高まる停滞と不条理という代償を払ってしかもはやそれ自身の限界を押し戻すことができない。この危機は「急進的な共産主義の今日的意義」を再び日程にのせているのであって、これは、ベンヤミンが両大戦間の脅威の高まりに直面する中で心から望んだものである。 --------------------- ダニエル・ベンサイド ダニエル・ベンサイド(Daniel Bensaïd, 1946年3月26日 - 2010年1月12日)はフランスの哲学者、トロツキスト。 主要著作 Walter Benjamin (1990)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK81掲示板
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/
since 1995
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK81掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。 すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。 |