投稿者 ダイナモ 日時 2010 年 3 月 03 日 18:44:22: mY9T/8MdR98ug
http://www.magazine9.jp/kunio/100303/
じゃ、いっそのこと、取り替えてみてはどうだろう。『王子と乞食』のように。お互い相手の立場はいいなあと思っている。じゃ、替えてみよう、と実行する。でも、いいことばかりじゃない。
蛇足ながら、「乞食」という言葉はいい言葉ではない。差別的だ。だから今は、『王子と少年』になった、という説もある。よく分からない。
では、今、何と何を替えるのか。「政治家」と「政治家に文句を言う人」を替えるのだ。「政治家」と「評論家」と言ってもいい。あるいは、「政治家」と「一億総評論家になった国民」と言ってもいい。
朝から晩まで、テレビに出て評論家たちは政治家の批判ばかりだ。新聞も週刊誌もそうだ。悪いことは全て政治家のせいだ。替えろ、替えろと言う。それで替わった。総理はコロコロと替わり、政権も交代した。でも、もっと替われ、替われと言う。
でも、そんなに政治や政治家ばかりに頼っていていいのか。期待していていいのか。国民は何もしなくていいのか。「じゃ、一度、替わってみろよ」と政治家だって叫びたいだろう。
だから替えてみたらいい。田原聡一朗が総理で、高野孟、大谷昭宏を大臣にする。あるいは番組そのままに、太田光を総理に、田中を秘書にする。あるいは、櫻井よしこや小林よしのりを総理にして、そのブレーンを大臣にする手もある。面白いだろう。
1960年代の後半、左翼も右翼も熱く闘っていた時、自由国民社やエール出版から面白い本が出ていた。『三派全学連は何を目指すか』『右翼青年は何を考えるか』といった挑発的な本だった。その中に、「右翼が政権を取ったら」というシミュレーションがあった。政治家や左翼に文句を言うだけでなく、自分たちでこんな政権を作る、というものだ。それだけで一冊の本になってたのかもしれない。
児玉誉士夫が総理大臣で、赤尾敏が外務大臣で、谷口雅春が文部大臣…といったものだった。他にも右翼の大物、強硬派がズラリと並んでいる。右翼の人たちにも取材し、「俺たちは政治家に文句を言うだけじゃないぞ。自分たちで政治をやってみせるのだ」という意気を示したものだった。「否定」「拒否」だけでなく、自分たちの「具体案」を示したのだ。
でも、あまり評判はよくなかったようだ。当の右翼の人達も、「何も俺たちはそこまで望んでないよ」「俺たち右翼は破壊の為の捨て石でいいんだ。建設にタッチしたらだめだ」と言う人が多かった。中には、「こんな政権が出来たら、すぐ戦争になるよ」「経済は破綻するよ」「世の中は真っ暗だ。外国に亡命する」と言う人までいた。理想に燃え、正義とクリーンかもしれないが、これじゃ怖い。まだ腐敗堕落した自民党の方がいい、と思ったのだ。
右翼が政権を取ったら。左翼革命が実現したら。…といった本は、半分マジメ、半分パロディだ。ただ、左翼も右翼も、俺たちだけでやってやるという熱気や覇気があった。政治家なんかには頼らない。共産党や社会党の支配を嫌って飛び出した連中が新左翼を作った。右翼だって「金権自民党をぶっつぶすんだ」と言っていた。政治家には何も期待しない。自分たちの力で世の中を変えると思い、その手応えを感じていた。
1984(昭和59)年6月、「いまなぜ全共闘か」のテーマで池袋文芸座で徹夜討論会が行われた。司会は田原聡一朗だ。出席者は、中上健次、立松和平、高橋伴明、前之園紀男。そして、全共闘と闘っていた僕だ。テレビ朝日で放映され、「朝日ジャーナル」に載り、単行本にもなった。政治家はいない。政治家には全く期待していない。これからだって俺達が俺達の力で世の中を変えてやる。そういう気概があった。
この徹夜討論会が基になって、2年後に「朝まで生テレビ」が生まれた。だから、「朝生」も、政治家には頼らない。期待もしない。出演もさせない。そういうことでスタートした。当時のタブーとされる問題に果敢に挑戦していった。「朝生」はまさに「全共闘」だった。既成の権力、権威にたてつき、反撥し、挑発した。初期のテーマは、「原発」「天皇制」「日本の右翼」「同和問題」…など、今まで誰もやらなかったものだ。怖くてやれなかったものだ。勿論、政治家は誰もいない。「お前らの出る幕はない」と言ってるようだった。
僕は、1990年2月の「日本の右翼」の時に出た。震えるような緊張感があった。その後、「天皇制」「憲法」「オウム真理教と連合赤軍」などのエキサイティングな回に出た。やはり、政治家はいない。ところが、「タブー」は大方、やったと思ったのか。あるいは、現実的に政治を変えるしかないと思ったのか。途中から、急に政治家が増えてくる。そして、ずっと「政党討論会」になってしまった。毎週日曜日の「サンデープロジェクト」もそうだ。
「政治家を呼びつけて、政治家を叱る」というスタンスだったと思う。国民の生の声をぶつけて、政治をしっかりやってもらう。そういう意図だったと思う。
でも、それが続くと、「やっぱり政治家に頼るしかないのか」「彼らに期待するしかないのか」…と思ってしまう。もっといい政治家を選ぼう。でもダメだった。じゃ、もっといい政治家を。…と、その繰り返しだ。しかし、そんな「理想の政治家」など出てこない。皆、文句をいい、愚痴るだけだ。でも、政治家に頼るだけだ。自分たちで何かやることは考えない。「じゃ、政治家になるか」と、最後には、それしかない。
政治家もテレビに出ることしか考えなくなる。一度出ると何千票になると言ってた政治家もいた。たとえ、バラエティ番組でも何でも出たがる。テレビ映りがよくて、「説明」のうまい政治家だけが重宝される。テレビ映りは悪くて口下手でも、〈政治力〉のある人間が本当は必要なはずなのに…。これではテレビ政治だ。お笑い芸人とバラエティに出る位なら、政治の勉強をしろ。政治をやれ! と言いたい。こんなことで、政治家を無駄遣いするな、と言いたい。「何をやろうとしているか」は政党の広報官が言えばいい。政治家は政治をやり、結果が出てからテレビに出て報告したらいい。
「政治家はテレビに出て顔を売ることしか考えてない。勉強もしない、政治もやってない、地元に帰っても、握手して回ってるだけだ。俺たちの方が政策を考え、実際に政治をしている」と、ある評論家が言っていた。「だったらお前が政治家になれ」と言いたくなる。政治評論家と政治家を全部、取り替えてみろよ、と思ってしまう。結果は見えてるかもしれない。しかし、その〈現実〉を直視するところから再生は生まれる。そんな気がする。
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