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【党運動、議員活動の財源調達考 (企業・団体献金一律禁止是非考)】(れんだいこのカンテラ時評678 )
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投稿者 韃靼人 日時 2010 年 3 月 02 日 20:10:04: XfUHcQiPmEZmc
 

れんだいこのカンテラ時評678 れんだいこ 2010/03/01 23:09

【党運動、議員活動の財源調達考 (企業・団体献金一律禁止是非考)】

 企業・団体献金一律禁止論は本当に正解なのだろうか。れんだいこには解せないので執拗に問うことにする。既にカンテラ時評666「日共式企業、団体献金禁止論に疑義あり」、れんだいこのカンテラ時評667「日本政界における「ガラパゴス化現象」考」で持論を述べたが、その後の政界−マスコミの議論は相変わらずの「キレイ潔癖主義」観点からの企業・団体献金一律禁止論談議に耽っているように思われる。敢えてもう一度ぶって諸賢の判断を仰ぐことにする。同じ論調では意味がないので、少々切り口を変える。課題名を「党運動、議員活動の財源調達考 (企業・団体献金一律禁止是非考)」とする。 

 世に井戸塀政治家論というものがある。政治家の伝統的な在り方として、国事に奔走した挙句、私財を売り尽くし井戸と塀だけ残った云々という政治家評であろう。政治に賭ける情熱、政治家稼業の悲哀、それに対する揶揄を複合的に語っているように思われる。この対極に利権政治家論というものがある。政治を私物化し、己の私腹を肥やす為に政治家稼業を務める者に対する評であるように思われる。

 こういう論は分かり易いが子供騙しの論でしかない。問題は次のことにある。実際には井戸塀政治家でもなく利権政治家でもない、その中間項的政治家ばかりが存在する。絵画の明度論で云えば、井戸塀政治家を白、利権政治家を黒とすれば、その間に無限のグレーゾーンがあるのに似ている。これをリアリズムに於いてどう認めるのか否定するのかが問われているのではなかろうか。

 現代の政治家論は、この観点をすっぽり欠如させたまま企業・団体献金一律禁止論に靡いているように見受けられる。だがしかし、それは愚昧な論ではなかろうか。政治には財力も必要と見抜き、彼及びそのグループが何の為に資産形成を図っているのか、それは容認できる範囲なのか限度を超えているのか、それは族議員型か自己調達型か、彼らが何を廻って権力闘争を担っているのか、その為に財力をどう投入しているのか等々を問い、この視点から政治家を論ずる政治評が必要なのではなかろうか。

 学者の議論というものは往々にして、こういう真剣の政治論、政治家評を避ける傾向が認められる。その代わりに公式的図式的漫画的な井戸塀政治家論、利権私腹政治家論を作り出し、そういう論議にうつつを抜かす習性がある。学者バカと云われるのはその為であろう。政治学者が政治家になり経済学者が経営者になっても、うまく行かないのは所詮、学者的頭脳でしかないからであろう。我々がそういう論を幾ら学んでも役に立たない。否学べば学ぶほど現実遊離し、その分バカになる。学者バカの論を受け売りすると我々も感染する。ネット空間に現れる論にはそういう論者のものが多い。

 以上を踏まえて次のように弁じたい。現代政治家論の特徴として、政治家を品定めするのに彼が手がける政治の質を問うのではなく、つまり本業の善し悪し、出来栄えを問うではなく、その付随事象でしかない資産形成の面で一刀両断する傾向が強い。最近この傾向がとみに強まりつつある気がしてならない。今流行りの企業・団体献金一律禁止論は、この系譜のものであると考えられる。しかし、角を矯めて牛を殺すという論がある。企業・団体献金一律禁止論は、この愚を犯す恐れはないのだろうか。れんだいこは、企業・団体献金一律禁止論に与する輩を一流ではなく二流でもなく三流ないしはそれ以下と見立てている。日共は不治の病に侵されているから論外として、鳩山政権を支える諸党がこの悪夢から早く目覚めることを期待する。自らの首を絞めて正義ぶり恍惚することなかれ。

 日共式の企業・団体献金一律禁止論によれば、政治家は私財を求めぬほど上質とされることになる。この基準は、政治家を評する際の一つの目安でしかないのに、この基準を金棒のように振り回し、有能政治家が真剣政治を執り行う過程での資金調達の非を論い、訴追運動に乗り出す。しかも、その刃がタカ派系に向かうことは稀で、ハト派系政治家の失脚に向けて精を出す。これでは良い政治家、有能政治家、運動体が育たないのは自明ではなかろうか。そう分別すべきではなかろうか。

 それが証拠に日共議員を見よ。なるほど彼らは清貧の士かも知れない。その代わり彼は常に党中央のロボットでしかない。同じ党内でさえ、横の党員同志の政治議論は牽制されている。いわゆる分派禁止論によってである。そういう按配だから日共議員は皆ヒラメの目式にいつも上目遣いしている。公認権も含め、党中央に生殺与奪を握られているからこうなる。それは悪見本でしかなかろう。

 ごく普通に考えれば分かりそうなものだが、政治活動には際限がない。その際限のない政治活動に伴うのは財務である。ここが自立してこそ、彼の政治は誰憚(はばか)ることなく思うところの信念に基づく政治に勤しめることになる。先の郵政造反騒動を見よ。この辺りがしっかりしている造反派だけが生き残った。落選組は陰に陽に彼に世話になった。角栄を見よ。彼ほど財界からの支援を嫌った幹事長−首相はいない。カネも出すが口も出す紐付き政治を嫌ったからである。その代わり彼は刎頚の友・小佐野辺りから用立てていた。しかしながら小佐野に格別大騒ぎせねばならぬほどの利権をもたらした形跡はない。小佐野の経営環境を側面から援助したことぐらいはあったであろう。これが実相である。こう考えれば、どちらを良しとすべきだろうか。れんだいこの結論は申すまでもない。

 現在の議員収入は、給与、党からの支給費、派閥費、政党助成金、パーテイ収入、法人寄付金、個人寄付金から成る。これを有りのままに公開させればよいのではなかろうか。このうち、企業・団体からの寄付金を締めだすとすれば、政治活動は大きく制約されることになるのではなかろうか。議員収入が個人寄付金で成り立つのは理想かもしれない。しかし、理想は理想でしかない。第一今後、個人の懐はますます汲々することが予想されており、ない袖は振れないということになるのではなかろうか。この時勢下で、にも拘わらず個人献金に依拠せよなる論を説く者は愚昧と云うべきではなかろうか。

 手っ取り早いのが企業・団体からの寄付金である。れんだいこは、それで良いのではないかと思っている。個人では出せなくても企業・団体からは出し易い。出す方も決算書に記載することが義務づけられており、監査報告もせねばならず、而して決してムヤミヤタラに出せるものでもない。肝心なことは、政治家の政治資金収支報告書に明記させることであろう。それを見れば、或る政治家の金筋が分かるのだから、却って正体が見えて良いのではなかろうか。

 良くないのは隠すことである。隠さねばならないような賄賂型政治資金を受け取ることである。これが政治を悪くする。これが発覚すれば厳罰に処せられても止むを得ないとすべきではなかろうか。この論で云えば、政治資金不記載が一番悪い。次に故人政治資金記載が悪い。これは姑息な方法であり政治資金規正法の趣意違反であろう。次に悪いのが政治資金不正確記載であろう。これは修正申告で正確を期すべきてあろう。これが犯罪要件を廻る正しい罰則順序であろう。

 れんだいこは、かく考えるのだが、「弁護士阪口徳雄の自由発言」の2010.2.27日付けブログ「企業・団体献金一律禁止に反対する抵抗勢力は亡霊学者や民主党の中にもいた(政治とカネ202)」は逆から批判している。「裏のカネであれば、刑法の賄賂罪や政治資金規正法違反で逮捕されるのに、表のカネであれば許されるなどいうゴマカシ論法をどう説明できるのか」と主張している。れんだいこ的には、この御仁の論は狂っているとしか云いようがない。そもそも彼の頭脳に於いて「裏のカネ」と「表の金」をどう仕切っているのか不明であるが、どちらも記載させれば良いだけの話ではなかろうか。記載しない「裏のカネ」こそ最も罪悪視して摘発することこそ本筋とすべきではなかろうか。記載してもなおイケナイとする論は却って「裏のカネ」を生むことになりはすまいか。従って、「基本的には個人献金が定着するまでは、国費で賄うというスタンスで解決すべきである」などは、妄言の類でしかない。国庫財源の乏しい中、碌な仕事もしない議員に更なる国庫支出を賄う必要は一切ない。

 そもそも政治とは利害関係の異なる集団、階層、階級間の何らかの支配被支配的な合理的な取り決めを秩序とするものであり、これを体制と云う。この体制を廻る凄まじい闘争が政治の根幹であり要諦なのではなかろうか。そこには政治を担う者達の最高パフォーマンスが要求されている。このパフォーマンスには金力が不可避の要件である。俗に云う、カネがないのは首がないのと同じであり、これが欠如すると首が回らないと云う。これは個人でも組織でも同じである。金力を疎かに語る者の論を書生論ないしは駄弁と云う。

 企業・団体献金一律禁止論は、この系譜にある論ではなかろうか。この論の背景には、れんだいこが鑑定するところ、江戸時代の士農工商的意識が介在しているように見える。彼らは、官尊民卑的立場からカネが纏わる商行為を蔑(さげす)み、断固取り締まるべし論に傾く傾向が見られる。その癖、手前たちの給料が天から降ってくるのを当たり前としており、どこから工面されるのか知ろうともしない。何のことはない、彼らが蔑む農工商から生み出される税金に依拠しているというのに、その税金支払いが如何に過酷な状態の中から徴収されているのか知ろうともしない。彼らには有り難うと云う観念が乏しい。

 現代政治論には、この平明な理が疎かにされている。ということは即ち現代政治が相当に下等なものとなっており、何ら本当の意味での政治闘争をしていないことを意味する。キレイごとでお茶を濁し、上澄みを撫でるだけの政治に堕していることを意味する。してみれば、企業・団体献金一律禁止論は彼らにお似合いの論と云うべきかも知れぬ。付言しておけば、こういう論を唱える者が本当にキレイ潔癖であるのかは全く別問題で、却ってイカガワシイ手合いが多い。

 このことは次の視点から見ればもっと説得的である。現代世界を牛耳る国際金融資本勢力は、或る意味で政治の何たるかを熟知している。政治は究極のところ人が担い、相当の資金を要することを踏まえている。だから彼らは政治資金をふんだんに使う。その癖、靡かない勢力の者たちにはカネの問題で失脚を図ろうとする。お銚子者がそのお先棒を担ぐ。彼らの狡知術に乗ってはならない。

 これを敵味方論で云えば、敵がそのように物量作戦で政治に容喙している時、偽善者達の言によれば、こちらの方は素手の徒手空拳で勝負を挑まねばならないことになる。しかしながら、そういう論理論法は無茶苦茶と云うべきではなかろうか。相手は二本足、こちらは片足で相撲を取らさせられる愚に似ている。これでは勝負にならないではないか。そういう意味で、キレイ潔癖ごと政治論は敵方による意図的故意の説教理論、撹乱理論である可能性が強い。これを踏まえずにキレイ潔癖ごと政治論に同調する向きの者が多過ぎる。れんだいこは危険と理解する。

 「田中良紹(たなか・よしつぐ)の国会探検」の2010.2.26日付けブログ「『政治とカネ』で沈む日本」は次のように述べている。「星亨や原敬の例に見られるように、この国は明治以来、力のある政治家を『金権政治家』として排除してきた歴史を持つが、戦後もそれが繰り返されている」、「『政治とカネ』の問題は民主主義政治にとってそれほどに重大な問題なのか。騒ぐのは民主主義が成熟していないことの証明である。しかも検察が摘発した『政治とカネ』はほとんどが『でっち上げ』なのである。それに振り回されて国益に関わる重要課題に目を瞑ってきた日本が沈み込んでいくのは当然の話である」。

 こちらの論の方がよほど正確を射ているように思える。企業・団体献金一律禁止論を奇果として本当の政治論確立の絶好機会とすべきではなかろうか。こういう本音を問うところから政治が始まるべきではなかろうか。世の実相から離れた駄弁論議はつまらなさ過ぎよう。

 2010.3.1日 れんだいこ拝  

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