投稿者 ダイナモ 日時 2010 年 2 月 27 日 18:44:50: mY9T/8MdR98ug
http://www.jrcl.net/frame100301b.html
新自由主義的な「成長モデル」と「人間のための経済」は両立しない
押し隠された大資本支配の構造
しかし鳩山政権は、その客観的な闘争関係を目的意識的に押し隠す。それはこの政権が、結果として不断に後戻りへと押しやられることを暗示する。
実際早くも現実政策においてこの政権は、`成長モデルをaの声に応じて、昨年十二月三十日、成長戦略なるものを発表した。環境、健康、観光の三分野で二〇二〇年までに、百兆円以上の需要を創造、四百万人以上の新規雇用を作り出すという。米オバマ政権が掲げる「グリーンニューディール」に似た発想と言えるかもしれない。そのメカニズムあるいはモデルの詳細は分からないが、報道の限りではあくまで願望的シナリオのように見える。
そもそもオバマ版グリーンニューディール自体その成否は未知数だ。その上、例えば成長に依存した四百万人以上の新規雇用という目標では現在の大失業は解消できない。現在の公式発表完全失業者数だけ見ればそれは確かに十分な数に見える。しかし問題は、公式発表に表れない相当数の、おそらく公式数と同等の失業を除いても、資本集中の一方的進行という現在の経済メカニズムが放置される限り、中小零細企業や自営業者の圧迫を通して、職を求めざるを得ない新卒とは異なる新規の労働者が毎年継続的に生まれるからだ。
例えば、非農林業の自営業者とその家族従業者を合わせた数は、ピークだった一九八三年から二〇〇八年までまさに新自由主義の時代に、四百万人以上減少している。しかも至近五年間の減少は百万人を超え、そのペースは近年上がっているのだ(以上、総務省統計局「労働力調査報告」)。こうして特に大資本を焦点とした資本活動の活性化をてこに成長を追い求めた新自由主義の時代、失業あるいは非正規という名の半失業は、減るどころかむしろ大幅に増大した。この事実は、失業への対応という一点だけでも成長に頼ることなどできないこと、それとはまったく独自の雇用確保、資本に頼らない雇用創出、生業保護の政策が必要であること、そのためにも資本の一方的集中、大独占資本だけの繁栄、という現在の経済の姿そのものにメスを入れること、つまり大資本の活動への規制が不可欠であることを告げている。報道を見る限り、しかし残念ながら先の成長戦略にその観点はうかがえない。
大多数の労働者民衆が理解する「人間のための経済」では、雇用がその最重要項目の一つに置かれることは言うまでもない。その点で先の成長戦略打ち出しは、早くも、「人間のための経済」からの後退、それに抵抗する大資本への妥協を暗示する。しかしその実態は、妥協と言うよりも漂流と言った方が適切かもしれない。というのも、大資本は成長を求めつつ、しかし新自由主義的グローバリゼーションが破綻を明らかにした今後、それがいかなるものかを自らが示すことができていないからだ。大資本には妥協を求めるに値する対抗路線がないのだ。とすれば、今この時の大資本へのすり寄りが意味するものは、破綻した新自由主義的グローバリゼーションへの不安と恐怖を抱えたままの舞い戻りでしかない。その先には断崖絶壁しかない。
「グローバル化」
の神話に固執
この客観的な構図の中で鳩山政権は、自らが打ち出した道をどこまで歩くのかを明らかにしていない、あるいは明らかにすることができない。
先の成長戦略発表が圧力に押された泥縄的打ち出しであることは明らかだった。そしてこの一連の動きは、財源問題に発するドタバタと並んで、鳩山政権が考える「人間のための経済」のもう一つの特徴をくっきりと浮かび上がらせることとなった。すなわち、首尾一貫性を欠いた動揺的な中途半端さ、より厳しく言えば、「八方美人」的な言葉の上の「いいとこ取り」だ。
そもそも先の所信表明自体、歩みを続ける要素と後戻りの要素を脈絡なく混在させていた。例えば「安定した経済成長」は依然としてこの政策の不動の柱だ。まさにそれ故に、民主党のマニフェストにおいて、成長をもたらすはずとの無批判的な信仰の下に、今では大きな疑問符の付いた自由貿易と新自由主義的グローバリゼーションは依然政策の基礎であり、WTO交渉推進、経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)推進が明記され、貿易・投資の自由化は三党連立合意にも盛り込まれている。しかしこれらの政策に関しては、自由貿易と新自由主義的グローバリゼーションとは、それを活用できる者もしたがってその最大の受益者も、世界のどこででも活動可能な能力を持つ大独占資本に限るシステムだという点を思い起こす必要がある。つまり、これらの政策を礎石に据えたことは、事実上、大資本を頼りとするとの意思表示だ。
おそらくこのような政策思考の必然的な帰結として先の所信表明は、「人間のための経済」を左右する二つの決定的問題を、何の言及もすることなく素通りした。すなわち一つは、経済的諸資源への支配力をすさまじい程度にまで高め集中し、社会を振り回す力を持った、多国籍化した超巨大独占資本の行動であり、もう一つは、それと密接不可分な、社会的資源の極度に偏った配分とその蓄積が社会に還元されないままにあるという大問題だ。
大資本依存に端を発するこの二つの押し隠しと放置は間違いなく、「人間のための経済」に引導を渡す。逆に言えば、「人間のための経済」を迫るわれわれの闘いは、彼らがひた隠すこの二つを表に引きずり出し、そこに手を着けることを政権に迫るものとならなければならない。以下ではその観点から、新自由主義の時代が生み出した大独占資本と社会の関係の今を簡単に確認しておきたい。
大企業の利潤蓄積と金融投機
この間あらゆる産業部門において資本の集中、独占化が以前に増して急速に進んだ。特にあらゆる産業を貫いて持ち株会社方式が持ち込まれ、その下で再編が繰り返される中、先の独占化は一層拍車がかけられた。独占禁止法は、九〇年代中盤以降、事実上独占促進法、巨大複合独占体促進法に変質させられた。そこでの大義名分は「国際競争」だったが、この状況は、これらの独占化した資本以外の者にとっては、市場を場とした選択肢が極度に狭められたことを意味する。逆に言えば、独占化した資本の他に対する支配力の圧倒的強化だ。それは、市場が極度に持ち上げられた時代、問題をより一層大きくする。
多くの人にとって身近なところでは、銀行の減少、特に地場に密着した中小の金融機関の消滅や商店街のさびれが分かり易いかも知れない。代わりに現れたものは、僅かな数の巨大銀行と巨大商業資本だった。あるいはまた、独占化した流通資本と地場の農業生産者や水産物生産者の関係を挙げてもよい。その関係では明らかに選ぶのは前者であり、後者には「選ばれる」という選択しか残されない。多くの領域に及ぶそれらの関係の進行は、地域社会そのものが大独占資本への依存を深めることを意味し、いずれにしても社会全体にわたって、人びとの自律性は確実に貧しくされている。
しかしこの問題に対する民主党の政策は極度に貧しい。マニフェストに掲げられたものはたった一つ、不公正な取引を規制すると謳った「中小企業いじめ防止法」制定だけだ。しかし力関係の極度の不均衡を野放しにしながらのそのような立法措置で、果たしてどれほどの効果が期待できるだろうか。現に不公正取引規制措置自体は形式的には今もあるのだ。しかしそれは事実上ほとんど実効性がない。
そして上に見た資本の集中を通して一握りの特権的企業、特権層に膨大な利益が貯め込まれたことも誰もが知る事実だ。例えば「赤旗」は、財務省「法人企業統計調査」に基づいて、資本金十億円以上の大企業の場合、内部留保の一部である利益準備金総額だけで、昨年三月末時点で約百三十三兆円と報じている(1月22日付)。あるいは全労協の今年の春闘パンフは、やはり財務省調査を基に、〇八年度末の大企業内部留保残高を二百四十一兆円と集計している。しかしそれらは、株主配当のために取り崩されることはあっても(例えば、昨年多くの大企業は赤字を計上しつつも相当額の配当を維持した。つまりそのために内部留保は取り崩された)、労働者や下請け中小企業、あるいは派遣切りされた失業者のためにはびた一文支出されないのだ。当然、史上空前の利益を謳歌してきたこれらの大企業から巨額の配当を得てきた一握りの大資産家の下に、莫大な富が蓄積されてきたことも疑いない。
それらはどこに行ったのか。かなりの部分が金融投機に投じられたことは間違いない。日本からの資金がアメリカの資産バブルにかなりの役割を果たしたとの市場関係者の証言は、一つや二つではない。その意味で今回の金融危機に、日本の大資本や大資産家も一役買っている事実はしっかり確認しておかなければならない。にもかかわらず大資本は先の内部留保について、機械設備や工場などの固定資産に姿を変えたものであり取り崩すことはできないなどと、ぬけぬけと言い訳する。真っ赤な嘘だ。十年ほど前から「キャッシュフロー経営」、つまり、資産をなるべく換金可能な形で保持すべし、とする経営がもてはやされ、大資本はこぞってそれに乗ったのではなかったのか。実際、大企業内部留保のかなりの部分が有価証券などの投資用資産として保持されていることが報じられている(総額153兆円、「赤旗」2月5日付け)。
しかしその対極にトヨタは、昨年十二月下旬、部品加工費三〇%切り下げを打ち出し、下請け企業に大きな衝撃を与えた。おそらくこれで、特に愛知県一帯を中心にさらに多くの雇用が失われるのではないだろうか。そして、「派遣切り」がそうであったように、他の大手製造業資本が大手を振ってトヨタに追随する危険はかなり高い。前述した真っ赤な嘘の平然とした吹聴も含め、今や、大独占資本の利益と社会の利益の間には何の関係もなくなり、むしろ相反する要素がはっきりと現れている。
階級闘争と「人間のための経済」
鳩山政権の政策思考の中でこうした結果を生み出した源にある大独占資本の問題がすっぽり抜け落とされているということは、それらの今では反社会的と言ってもよい活動が今後も何の制約も受けず放置されるということ、さらに結果として、それらが享受しているさまざまな事実上の特権がそのまま温存されるということを意味する。卑近な例では、一〇年度予算案では、租税特別措置としての大企業優遇税制も株取引利益に対する減税措置もそっくり温存された。あるいは派遣法改正に関わって、実態的には大独占資本が対象となる派遣先責任強化がすっぽり落とされる危険が出ている。雨後の竹の子のように繁茂した「持ち株会社」を許す独占禁止法にも何の手も着かない。
上に見た事柄は、この政権の本音としては、あるいは民主党という政党の本音は、いずれかの時点での後戻りを結局は結論とすることを強く示唆する。しかしそれがどの時点になるのか、あるいはそれが易々と可能なのかそれとも民主党自体をも切り裂く困難な過程となるのか、あらかじめ決まっているわけではない。何よりも「人間のための経済」打ち出しを必然化させた歴史的で客観的な圧力が、彼らだけによる、あるいは支配的エリートだけによる自在な方向選択の余地を狭めるだろう。それは、今労働者民衆もまた、それを左右する一つの力として登場する可能性を手にしていることを意味する。普天間米軍基地撤去の闘いを挙げるまでもなく、さまざまな問題で今まさにギリギリとした闘いが続いている。
「人間のための経済」を土俵に生活防衛を追求することになるわれわれ民衆の闘争は、そのような可能性を広げる闘争としての位置を客観的には与えられている。そして同時にその闘いの広がりと発展が、新政権の方向選択に後戻りを許さない効果を発揮する度合いに応じて、生活防衛の実現度合いも確実に高まるはずだ。そしてそこにおいては間違いなく、大独占資本を表に引き出し、そこにたがをはめる闘いが不可欠に求められ、かつ重要な位置を占めるだろう。 (つづく)(寺中 徹)
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