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[閑話有題/芸術の価値]「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの現代的意味(改訂版‐1/3)
http://www.asyura2.com/10/senkyo81/msg/331.html
投稿者 鷹眼乃見物 日時 2010 年 2 月 26 日 15:54:03: YqqS.BdzuYk56
 

[閑話有題/芸術の価値]「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの現代的意味(改訂版‐1/3)


<注記0>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100226


【エピローグ画像】Venetian Glass
[f:id:toxandoria:20100226152948j:image]
・・・この画像は、http://www.southworksantiques.com/main.cfm?galleryON=1&galleryID=9より


<注記>当記事は初出(2005-03-16、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050316)を加除・補筆したものである。


第一章「オランダの光」と「ヴェネツィアの光」の出会い


【画像】アントニオ・ヴィヴァリーニ『玉座の聖母子』1446
[f:id:toxandoria:20100226152949j:image]
Antonio Vivarini(ca.1414-76or80)「Triptych (detail) 」1446 Tempera on panel 339 x 200 cm (central) 339 x 138 cm (each side) Gallerie dell' Accademia Venice Italy


(ヴェネツィアン・グラスの歴史/概観)


確たる知的概念の下で図像とパースペクティブを表象したフィレンツェ派と比較すると、ヴェネツィア派絵画の特徴は先ず“何よりも感覚レベルに強い関心を持ち、持ち続ける”ということであった。このためヴェネツィア派の画家たちは、図像デッサンの脇役として色彩を使うのではなく、アドリア海の光を満身に浴び煌くような美しい色彩そのもののために、つまりあくまでも色彩官能を満たすために絵画を制作した。


このようなニーズに相応しい技術的条件を提供したのが15世紀後半にフランドルからイタリアへ伝わる油絵具(テンペラ技法より使いやすい描画技法)の使用で、ヴェネツィア派の画家たちはやがて油絵具を主とする絵画制作へと傾斜して行った。一方、この時代のフランドル(ブリュージュ、アントワープ)とヴェネツィアはヨーロッパの北と南を結ぶ二大交易拠点としてグローバルで活発な経済活動の場として重要な役割を担っていた。


ヴァザーリ(Vasari Giorgio/1511-1574)によれば、イタリアの画家アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina/ca1430-1479)がネーデルラント地方に旅行したとされており(未だに確証はないが・・・)、その折に彼はアイク兄弟の中で特に(弟)ヤン・ファン・アイク(Jan van Eyck/ca.1390-1441)の強い影響を受けて帰国し、ヴェネツィア派の絵画に大きな影響を与えた。やがて、ヴェネツィアに2年間にわたり滞在したアントネッロはイタリアで油絵の技法に熟達した最初の画家となる。


ところで、ヴェネツィア派絵画の「光と色彩」に決定的な生命力を与えたものがもう一つあると考えられる。それがムラ−ノ島(Murano)を中心に生産され続けてきたヴェネツィアン・グラス(ガラス)の伝統である。6世紀頃、都市国家ヴェネチアの中心地は現在のヴェネツィアから北東約10kmのトルチェッロ島(Torcello)にあった。1960年代の初めポーランドの考古学者らがそこで7〜8世紀頃のガラスを溶かす窯跡を発見している。


更に、ここで出土したガラス工芸品を分析したところ、トルチェッロ島のガラス技術は北イタリアのフリウリ(Friul)あるいは中部イタリアのラヴェンナ(Ravenna)とともに北アフリカ・アレキサンドリア(Alexandria/イスラムのガラス技術)の影響をも受けたことが分かってきた。


[f:id:toxandoria:20100226152950j:image:right]8世紀に入り、フランク軍(カロリング朝、王ピピン)に追われたヴェネチアの人々は、現在のヴェネツィアが繁栄しているリアルト島(Rialto)へ移り住むようになる。やがて、市庁舎を始め主要な中枢機能がリアルトへ移動し、サンマルコ寺院が建てられた頃(829年)に行政中枢としてのトルチェッロの役目は終わっており、おおよそこの時代にトルチェッロのガラス工芸技術がヴェネツィア本島に伝わった(画像・トルチェッロの風景はhttp://www.italyheaven.co.uk/veneto/venice/torcello.htmlより)


ところで、イタリア半島ではローマ帝国時代にガラス工芸史上で画期的な「吹きガラス技術」の発明(BC1世紀、ローマ帝国の属州シリア(将軍ポンペイス支配頃のレバノン)のシドン周辺(Sidon)の工房で発明されイタリア半島へ伝播し洗練された)という技術革新が起こっていたが、この当時の先端技術で生産されるローマン・グラスは、アフリカ〜イギリス〜スカンジナビア〜ロシア〜中国〜朝鮮〜日本という具合で、驚くべきほど広大な古代世界へ遍く伝わったことが知られている。


しかし、この高度なガラス技術が代表すローマ文明のグローバルな席巻は、傭兵隊長オドアケル(Odoacer/433 - 493)のクーデタによる「西ローマ帝国の滅亡」(476年)で終止符が打たれた。


[f:id:toxandoria:20100226152951j:image]このような訳でイタリア半島全域で優れたガラス工芸は盛んであったが、その中でも北イタリア・アクイレイア(Aquileia)のガラス工芸技術は群を抜いていた。現在のアクイレイア市はトリエステに近い人口3千人ほどの小さな村だが、古代のアクイレイアは海上貿易が盛んな港湾・商業都市であったためビザンツ(東ローマ帝国)、レパント地方、地中海東岸地方及びアレキサンドリアとの交流が盛んに行われていた。最近の研究によると古代アクイレイアのガラス製品とトルチェッロの製品は技術的に共通性のあることが分かっている(画像・アクイレイア・バシリカの風景はhttp://www.panoramio.com/photo/1052017より)


<注>アクイレイア(Aquileia)
・・・アドリア海から約25キロ内陸の標高154メートルの盆地で、町の起源はローマ時代に防衛上建設された都市アスクルム(Asculum)まで溯る。ローマ帝政時代には大都市となるが、452年にフン族の大王アッティラ(Attila/位433-453)に略奪され市民たちはヴェネツィアに逃れた。6世紀にはランゴバルト族(東ゲルマンの一部族/6世紀に北イタリアに王国を建てたが、774年にフランク王カール大帝(Karl/Charlemagne/位768-814)に滅ぼされる)に支配され、カトリック司教座、首都大司教座(Metropolitan)、アスコーリ公国(11世紀〜)などの曲折を経て、1445年以降はヴェネツィアの支配下に入る。現在は、ヴェネツィア・ジュリア州ウディネ県の人口が約3,000人の村で、ローマ時代の遺跡と司教座聖堂が世界遺産に登録(1998)された。4世紀初め頃にアクイレイアの司教テオドルスが建てたイタリア半島で最も古い教会の一つとされるアクイレイア・バシリカ(Basilica Aquileia)が残る。


14世紀初め頃、ガラス工房(窯)からの出火で大火災が多発したためヴェネツィア市街にあったガラス工房とガラス職人たちの一切が強制的にムラ−ノ島へ移住させられた。これ以降、ヴェネツィアのガラス工芸はムラ−ノ島の中に強制的に閉じ込められることになり、島から出たガラス職人は死罪とさえなった。


しかし、ヴェネツィアのガラス職人たちはムラーノ島に居るかぎり非常に手厚く保護され王侯貴族のように豪奢な生活を送ることができた。考えてみれば、これは当時の世界に類例を見ぬほど卓越した伝統(ローマン・グラス工法が、その嫡子的存在であった)と同時に当時の最先端のガラス工学技術を死守するための強制保護という、いわばヴェネツィア共和国の国策(一種の経済特区政策)であった。


[f:id:toxandoria:20100226152952j:image:right]現在のムラーノ島(ベネチアの北、約1.5km)は、ヴェネツィアン・グラスで有名な島となっており、サン・マルコ広場またはサンタ・ルチア駅前の乗り場からヴァポレットと呼ばれる水上バスで訪れることができる。しかし、ムラーノ島全体がガラス工芸で賑わう観光地という訳ではなく、静かな住宅地となっている部分も存在する(画像・ムラーノの風景はhttp://blog.goo.ne.jp/yamaguti_1937/e/efa0ccab6ff1487300fcf6fc7fe8dd49より)


(美術史とヴェネツィアン・グラスのかかわり、その現代的意義)


ローマ帝国時代以降のイタリア半島におけるガラス工芸技術の流れを概観すると、それが美術史上の画期(エポック)、つまり盛期ヴェネツィア派、フェルメール、ロココ絵画、ドラクロワ、ターナー、バルビゾン派、印象派、ルドン、ナビ派、クリムト、マティスら、いわゆる色彩派(コロリスト)と外光派の系譜と伝統に一定の刺激を与えてきたことが理解できる。


という次第なので、各エポックに刺激を与え続けたヴェネツィア派絵画がムラーノ島に絵画工房を持ったVivarini Family(ヴィバリーニ一族)から始まるということ(以下の“初期ヴェネツィア派”で詳述)は偶然の出来事だと片付ける訳にはゆかない(無論、このような考え方は今までの美術史アカデミズムでは殆ど受け入れられていないが・・・)。


それは、ムラーノ島こそローマン・グラスの源流たる地中海東岸の伝統ガラス工芸技術が集中的に注ぎ込まれた場所であり、ヴェネツィアをいつも覆っている程よく湿った大気に映える「ヴェネツィアの光」がローマン・グラスのプリズムを通すことで比類なく輝きを増し虹を帯びた妖しい放射光となることをムラーノ島の住人たち、とりわけガラス工芸に携わる工人たちが気づかぬ筈はなかったと思われるからだが、我われは、特にクリスタル・ガラス(プリズム効果)を透過した光が白色光から分光されて単色光となることに注目しなければならない。


ずっと後の時代(17世紀)になってニュートンがプリズムによる太陽光のスペクトル分光で白色光がおおよそ七つの単色光に分解されることを示し、スペクトル分光された色の中から任意の二色を選び混合すると自然光の中で存在する他の色(固有色)と同じになる「加算混合の原理」(科学的現象の真実)を実証するより遥か昔に、驚くべきことに、彼らは、この「加算混合の原理」をガラス工芸技術に伴う“体験知=暗黙知”として既に身につけていたと考えられるのだ。


特に、ガラス工房が集積したムラーノ島に住む ヴィバリーニ一族(Vivarini Family)らのヴェネツィア人たちは、彼らが生きるその時代の実生活とヴェネツィア(ムラーノ島)という自然・文化・経済の特別なエコロジー環境の中でこそ、この地にしか存在し得ない、時には天空の星々のように煌き、時には朝霧の霞のなかで滲むようで精妙な「ヴェネツィアの光」が存在することに気づかぬ筈はなかったのだ。


つまり、最盛期に入る14世紀以降のヴェネツィア共和国の繁栄を支えたのはビザンツ(東ローマ帝国)、レパント地方、地中海東岸地方及びアレキサンドリアなど、東方(オリエント)及びアフリカ北西部(マグレブ)との交易活動であり、これらの地域との貿易港としてのヴェネツィアには異国情緒豊かで多様な色彩を放つ数多のエキゾティックで物珍しい物産が集積していたのだ。


それゆえ、このように地域個性的なヴェネツィアの“自然・文化・交易経済”のグローバル環境こそが、周囲の空気にごく自然に溶け込むように極めてフラジャイルでありながらも、時には目くるめくように蠱惑的・誘惑的・官能的で、いわば一地域(ローカル、片田舎)であるからこその強く個性的な色彩を帯びる「ヴェネツィアの光」のもう一つの光源となったのである。


現代社会に生きる我われは、グローバリズムが進展するなかで、否応なしに世界を飛び交う膨大な、そして無性格・無感動な情報の渦の中へ日々に巻き込まれている。そこでは、今や真の民意が読めぬ故に“KY‐構造不況業種”とまで罵られる新聞・TV等マスメディア、IT-Web先端技術の落胤たるブログ・SNS・ツイッター・電子ブックetc、同じくIT-Web先端技術と融合して際限なく金銭欲を刺激し続ける面妖なCDS等金融工学商品等々…、あるいは絶対正義を独善的推論で自己目的化し一種のエンドレスの狂気に嵌り暴走する日本の検察権力など、いわば“新たなタイプの神話・儀礼あるいは奇怪なカルトの類”が次々と湧出しつつある。


が、我われは、そのどれによっても十分に心が満たされることはなく、それどころか疑心暗鬼の暗欝な空気が否応なく拡がるばかりだ。しかし、このような時代であるからこそ、今も絶えず我われの心を惹きつけて止むことがない「ヴェネツィアの光」の如き強烈な地域個性とグローバリズムが混合した伝統文化の意味を、別に言えば、一定の歴史の試練に耐え抜きつつ歴史時間を強靭に生き長らえてきた「文化・伝統」の意味を再考することが肝要と思われる。特に、これからは「地域文化・地域伝統の“相貌”」を読み解き併せて「世界(グローバリズム)の新たな意味」を発見することに資本主義社会の未来をも展望すべきかも知れない。


<注>“相貌”を読み解くことの「一つのヒント」については、下記◆を参照乞う。


◆2010-02-21 ・toxandoriaの日記/“検察&メディア・スクラム” 騒動が激しく劣化させた日本の民主主義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100221


・・・・・


PS:アントニオ・ヴィバリーニの弟バルトロメオ・ヴィバリーニ(Bartlomeo 
Vivarini/1432-ca1491)は、アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina/ca1430−1479)から油彩画の技法を学び、その技法はアントニオの子アルヴィーゼ・ヴィバリーニ(Alvise Vivarini/1445/46?-1503/05?)が受け継いだ。また、アルヴィーゼはジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini/ca1430-1516)からも学んでおり、メッシーナとジョヴァンニ・ベッリーニも交流があったことが知られている。


【参考画像】ヴェネチアの風景
[f:id:toxandoria:20100226152954j:image]
…この画像はhttp://wadaphoto.jp/italyinf.htmより


【エピローグ画像】CHARLES AZNAVOUR - QUE C´EST TRISTE VENISE - VENEZA Á NOITE
[http://www.youtube.com/watch?v=1rt_XpXY_80:movie]
 

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