17. 2010年2月26日 14:55:13 ドイツ駐留ソ連軍 駐留軍は第二次世界大戦の終結後、第1及び第2白ロシア方面軍から編成された。これらの部隊は、ポツダム協定を保証する諸規定の遵守を任務としていた。さらに、これらはソ連の政治・軍事上の利益を代表していた。1957年にソビエト政府と東ドイツ政府はソ連軍の駐留について、合意を発表し、駐留が東ドイツの障害になっていないことを示した。1979年から1980年にかけては、人員2万名・戦車千両が東ドイツ領内から撤退している。1980年代後半には、ペレストロイカの影響もあって、駐留兵力はより防御的な配置に再編成された。1989年からは兵力の大幅な削減が開始されている。冷戦の終結とともに、ドイツ駐留ソ連軍も解体・撤退することになった。これはソビエト連邦の解体もあって、事業には困難が付きまとったが、1994年8月には撤退が完了している。部隊は陸路のポーランド経由のほか、ロストックやリューゲン島などの海路経由でも行われた。 ソ連軍は、第6親衛自動車化狙撃兵旅団が1994年6月25日にベルリンでパレードを行い、6月11日にはヴュンスドルフ(Wünsdorf)で、8月31日にはベルリン南方のトレプトウアー公園にあるソ連軍の戦勝記念碑でセレモニーを行ったのを最後にドイツ領内から撤退した。 なお「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」、「東ドイツは約26万人(東欧革命よりもかなり以前の時期の陸軍のみの兵力を指すと思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」等の言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。 ソビエト軍は進駐した東ドイツの276ヶ所に777個の基地を設けた。これには47ヶ所の飛行場、116ヶ所の演習場が含まれている。兵力は1991年初頭において、24個師団、兵員338,000名に達していた。この兵力は西部軍集団として、5個軍および1個航空軍に編成されていた。士官の家族や軍関係の民間人も東ドイツに居住しており、民間人の数は9万人の子供を含めて約20万人にもなった。それらは主にブランデンブルク州に居住していた。
1991年時の概算: 戦車 4,200台 装甲車両 8,200台 大砲 3,600門 その他車両 106,000台 航空機 690機 ヘリコプター 680機 ロケット砲 180台 1980年代末におけるソ連軍主力編成は下記を含む: 第1親衛戦車赤旗軍、ドレスデン (1 гвардейская танковая Краснознаменная армия) 第2親衛戦車赤旗軍、フュルステンベルク (2 гвардейская танковая Краснознаменная армия) 第94親衛自動車化狙撃兵師団、第21及び第207親衛自動車化狙撃師団を含む 第3突撃連合赤旗軍、マグデブルク (3 общевойсковая Краснознаменная армия) 第10、第12、第47親衛戦車師団 第8親衛連合レーニン勲章軍、ノーラ (8 гвардейская общевойсковая ордена Ленина армия) 第20親衛連合赤旗軍、エーベルスヴァルデ (20 гвардейская общевойсковая Краснознаменная армия) 第16赤旗航空軍、ヴュンスドルフ (16 воздушная Краснознаменная армия) 軍集団隷下の各連隊(工兵、通信兵、砲兵、狙撃兵、他) こちらのソ連軍師団一覧表(英語)には、駐留軍の全機動部隊が記されている。 ドイツ駐留ソ連軍 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A7%90%E7%95%99%E3%82%BD%E9%80%A3%E8%BB%8D 『世界中に展開する米軍が移転する場合にかかる経費を米国と接受国との間でどう分担するかは政治的事情に左右される。冷戦が終わり、ドイツから米軍が撤退するときドイツは費用を負担しなかったが、ソ連軍の旧東独撤退にあたっては費用を負担した。ドイツが撤退を望み、ソ連に負担能力がなかったからだ』(2006.4.25 日経)。
1990年の旧東西ドイツ統一の際、ドイツ政府は東ドイツに駐留していた旧ソ連軍の撤退費用など1兆円超を負担したそうです。 海兵隊移転費用 - 七五白書 (白けないために) http://blog.goo.ne.jp/mks13/e/1a326262114b8422a29fac30ae167bf8
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